宮川町 夕暮れの花街
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宮川町は川端通の東、四条から五条の間にあり、京都の五花街の一つがあります。宮川町通は、両側にお茶屋や料理屋が並び、落ち着いた花街の雰囲気を味わうことができます。
16世紀後半、豊臣秀吉が方広寺や伏見城を築いたことによって、大和大路(縄手通から南に続く南北の通り)は人の往来が増えて、その街道沿いに町並みができました。
その当時、このあたりは広い鴨川の河原だったそうです。宮川町の由来は、四条河原祇園杜の前にあったことから。あるいは、四条から南の鴨川の別名が「宮河」であったからともいわれています。ここで祇園杜のミコシ洗いが行われていたからです。
このあたりの町名を、宮川筋1丁目から8丁目と呼ぶのは、河原に発展した「筋=通路」であったためだそうです。
寛文六年(1666)に宮川町通りが開通し、寛文十年には鴨川護岸の石積みが完成して、急速に宮川町の町並が整い、当時の歌舞伎の流行とあいまって、茶屋町として発展していきました。
現在でも、宮川筋2-6丁目あたりは茶屋街の面影をとどめています。宮川筋4丁目には、歌舞練場と芸舞妓さんの教育施設があります。
「東山女子学園」は、昭和44年に学校法人の認可を受けて設立されました。日本舞踊、邦楽、茶道などを教えて芸舞妓を育成するとともに、花街の伝統芸能の保存と継承につとめているとのことです。修業年限は5年だそうです。
夕方になると、お座敷に出かける芸舞妓さんを見かけます。
ところで、歌舞伎踊りは出雲の阿国が天正三年(1575)に北野の杜で演じたのが始まりとされています。
そして、慶長八年(1603)頃、阿国の娘が宮川河原で「ややこ踊り」といわれる歌舞伎を興業して人気を呼び、様々な見世物小屋が建ち始め評判を呼んで、このあたりは一大歓楽場となりました。現在の南座も当時の芝居小屋の一つだそうです。
その後、若衆歌舞伎が始まり、それに出演する若衆の宿が宮川町に軒を並べました。男だけの芝居であったため、女形を演じる若衆に美少年が選ばれました。これが現在の女形役者へと発展したのです。
宮川町には現在でも約40軒のお茶屋があり、舞妓さんの数は五花街で2番目に多いそうです。
うろうろしている間に、薄暗くなってきました。
「趣味のあかり」
写真からもわかるように、宮川町通では観光客をほとんど見かけませんでした。
宮川町の芸舞妓さんが演じる「京おどり」は、4月4日(土)ー19日(日)に宮川町歌舞練場で行われます。
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コメント
風情があって
ええよね
投稿: munixyu | 2009年3月15日 (日) 11:29
うあー、こんなトコあったんですねえ。(地図で確認して)おお。建仁寺さんにも近い。
なるほど、四条から五条の間ならこの静かそうな雰囲気は納得です。木屋町通りでもウソみたいに静かですもんね。
うむ、これはいい場所を教わりました。それにしても歌舞練場って案外よおさんあるんですねえ。昔は祇園歌舞練場が唯一のトコやと思てました。
投稿: よろづ屋TOM | 2009年3月15日 (日) 13:58
★munixyuさん こんばんは♪
遅くなりましたm(_ _)m
ここも風情があって良いでしょ。この辺りはそぞろ歩きに良いところです。
投稿: りせ | 2009年3月16日 (月) 02:27
★よろづ屋TOMさん こんばんは♪
遅くなりましたm(_ _)m
結局、各花街に一つずつ(祇園の甲部・乙部は併せて一つ?)あるのでしょうね。
よろづ屋TOMさんともあろう人が、ここをご存知無かったですか? 私も歩いたのは初めてですが。
投稿: りせ | 2009年3月16日 (月) 02:31