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2008年9月22日 (月)

上御霊神社 3 静かな境内

新しく来て下さった方は 目次 もご覧ください。 ※写真は全て拡大します。

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御霊神社とは怨霊を鎮める為に建てられた神社です。

奈良時代・平安時代初期に政争に巻き込まれて憤死した(吉備真備を除いて)八柱の神霊の怨霊を慰めるために創建された神社で、明治に祭神五柱が増祀されました。

早良親王は反桓武帝の中心勢力で、藤原種継暗殺の首謀者として囚われ、乙訓寺に幽閉された後、淡路に流される途中に無実を主張して絶食自殺。その後、桓武天皇の近親者の死が続き、都に悪疫が流行したのは親王の崇りとされ、その怨霊を鎮めるため「崇道天皇」の追号を贈り、同地に祭られたのが始まりという。

延暦13年(794)平安京奠都の前の10年間、乙訓(向日町)に「長岡京」があったので、そこの乙訓寺に幽閉されたのですね。

上高野の「崇道神社」の記事はこちらです

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「御霊信仰」とは相次いで起る天変地異や疫病の流行は非運の中に亡くなられた高貴な人々の「たたり」であるとされ、怨霊を祀ることによって、災いをなくそうという信仰です。その祭りを御霊会(ごりょうえ)といい、京都の夏祭の多くは御霊会で上御霊神社の祭礼はその発祥です。
3基の神輿が豪快な夜の御霊祭は→こちら

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境内をまわってみます。

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清明心の像 
国際児童年(1979)にあたり生命の尊重と子供達の健やかな成長を祈り、中国宋代の学者司馬温公の故事に拠って建立されました。

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松尾芭蕉は元禄3年(1690)参詣、「半日は神を友にや年忘」の句を奉納。江戸時代の国学者の富士谷御杖の本殿造営(文政年間)に際し寄せた詩の碑もあります。

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本殿は享保18年(1733)御寄進の内裏賢所御殿の遺構を昭和45年に復元。

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三十六歌仙  (再登場です)

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 1 寺町通り (出町から北)」カテゴリの記事

コメント

うんうん
しずかですなあ
わかるわかる

投稿: munixyu | 2008年9月22日 (月) 11:37

天変地異や疫病以外にも・・・
権力闘争で、勝ち組の人達が、左遷しちゃった人達の「祟り」を恐れて祀っていたりして・・・・
ある意味(*o*;)怖いっ!!

三十六歌仙って・・・詩仙堂にもあるやつかな・・・

凸\(⌒o⌒)/凸ガンバレ!!ガンバレ!!

投稿: good_tom | 2008年9月22日 (月) 20:57

りせさん こんばんは。
3枚目のお稲荷さん、懐かしいです。たしか境内の右の一番奥の方にありましたよね。なぜか本殿の記憶はほとんどありません。
応仁の乱勃発の地だけでなく、上御霊神社の祭礼が京都の夏祭の発祥とはビックリです。ここは、なにかのパワースポットのような気がしてなりません。神社を建立する場所として選ぶということじたいが、そこがなんらかのパワースポットだったということなんでしょうね。

投稿: iwanacreek | 2008年9月22日 (月) 22:31

★munixyuさん こんばんは♪
静かです、ときたまお参りの方が訪れます。

投稿: りせ | 2008年9月22日 (月) 22:37

★good_tomさん こんばんは♪
呪いやたたりを鎮める為に建てた神社・・・やっぱり怖い。
三十六歌仙は詩仙堂の部屋の中に飾ってあります。青蓮院にもありました。神社の拝殿に三十六歌仙があると華やぎますね。
応援ポチッ有り難う~♪ 1日おき更新にしたら確実に私は2位の値打ちらしいから、2位でもいいわ・・って思うことがありますが・・・一応毎日更新でガンバリます。

投稿: りせ | 2008年9月22日 (月) 23:24

★iwanacreekさん こんばんは♪
お稲荷さん、そうです、そこにあります。5月には前に「いちはつ」が咲きます。
そうですね、京都の様々なお祭りのルーツはここだったのですね。知りませんでした。
パワースポット・・・そうなのでしょうね。ここを選んだ訳は当然あったでしょうね。その昔は「森」だったらしいですから。
昨日「京つう」の「京都さんぽ」に参加してここに行って説明を受けたのですが「応仁の乱の勃発地」の候補は他にもあるらしくて「勃発地」とされる中の一つらしいです。

投稿: りせ | 2008年9月23日 (火) 00:19

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