相国寺 開山堂
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猛暑日が続いている京都です。日中は家に籠もり、陽が落ちてからぼそぼそ出かけています。昨日は夕刻から、また下鴨神社の「御手洗祭」に行って来ました。
今日は以前に作っていた「相国寺 開山堂」で”楽”しています。行ったのは春の特別公開。珍しく「開山堂」が公開していて、写真もOKだということでした。
相国寺は、「しょうこくじ」と読みます。相国(しょうこく)というのは、「国を相(たす)ける人」から来ており、中国では宰相、日本では太政大臣の意味になります。相国寺が足利義満によって建てられたことがその名前の所以と考えられています。
相国寺 (しょうこくじ) (説明はWikipediaより)
臨済宗相国寺派大本山 山号を万年山 詳しくは「万年山相国承天禅寺」と称する。
本尊は釈迦如来、開基(創立者)は足利義満、開山は夢窓疎石である。
足利将軍家や伏見宮家ゆかりの禅寺であり、京都五山の第2位に列せられている。
相国寺は五山文学の中心地であり、画僧周文や雪舟は相国寺の出身である。また、金閣寺(鹿苑寺)、銀閣寺(慈照寺)は、相国寺の境外塔頭です。相国寺派の寺院は、全国に100ヶ寺余りあります。
室町幕府3代将軍足利義満が「花の御所」の隣接地に一大禅宗伽藍を建立することを永徳2年(1382)に発願。竣工は10年後の明徳3年(1392)であった。
相国寺は京都最大の禅宗寺院のひとつとして、また五山文学の中心地として栄えたが、たびたび火災に見舞われました。高さ106mを誇る「七重大塔」も数年で焼失。
応仁元年(1467)には相国寺が応仁の乱の細川方の陣地となったあおりで焼失。他にも管領細川家と三好家の争いに巻き込まれて焼失。ここまでで4回焼失している。
現存の伽藍の大部分は19世紀はじめの文化年間の再建である。
開山塔(開山堂)-開山夢窓疎石の像を祀る堂で、桃園天皇の皇后・恭礼門院の御殿を文化4年(1807)に移築したものです。菊の御紋が見えます。
開山夢窓国師を安置する開山塔は、一名円明塔と呼ばれており、前庭には、かつて水が流れて、今出川の一部であったもので「龍渕水」と呼ばれています。
この大きな石の上で座禅を組んだって聞きました。平らなようでごつごつした石です。
相国寺はカテゴリー「★京都五山 第二位 相国寺」です。
--------- 外に出て・・・こちらは庫裏の屋根です。
鐘楼
一名「洪音楼」といい、天保15年(1844)の再建のものです。「袴腰付鐘楼」ともいわれ、大型のものでは現在有数のものです。
宗旦稲荷 宗旦狐を祀っています。
宗旦狐(そうたんきつね)は江戸時代の初め、相国寺の境内に住んでいた一匹の白狐です。その狐はしばしば茶人・千宗旦(1578~1658)に姿を変え、時には雲水にまじり、座禅を組み、また寺の和尚と碁を打つなどして人々の前に姿を現していた。宗旦になりすまして茶人宅に赴いてお茶を飲みお菓子を食い荒らしていたそうな。。。追いかけられて井戸に落ちたとも、狩猟で撃たれたともいわれる宗旦狐の祠を雲水がつくり供養しました。
夜の「御手洗祭」は提灯に灯が入ってとても良い雰囲気でした。次回お届けします。
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コメント
石庭って
本当に凄いよね
投稿: munixyu | 2008年7月27日 (日) 11:13
こんにちは!砂に線を描いているところ、一度拝見したいですね。
投稿: shimasi | 2008年7月27日 (日) 16:59
★munixyuさん こんばんは♪
石庭は作った人と、見る者の目と心というか・・・奥が深いですね。一度くらいゆっくり座って見なくちゃいけませんわ。
投稿: りせ | 2008年7月27日 (日) 21:06
★shimasiさん こんばんは♪
朝一番で飛び込んだら、見れるかも知れないなあ。。。と思うのですが。私も拝見したいものです。
投稿: りせ | 2008年7月27日 (日) 21:08