聖護院門跡 桜・山伏・八ッ橋・大根
聖護院 900年前に現在の場所に建てられましたが、4回の火災で市内を点々とし、
今の場所に戻ったのは約300年前のことです。
明治までは西側に聖護院村があり、鴨川にかけてうっそうとした「聖護院の森」が広がっていました。場所はここです。
その森の中にある御殿であることから、「森御殿」ともよばれ、今でも聖護院と呼ばずに、「御殿」と呼ぶ方もあります。この森の紅葉は、錦の織物の様に美しい為「錦林」(きんりん)と呼ばれています。(錦林小学校とか錦林車庫とかあります)
「門跡」といわれる所以は、代々法親王(皇族男子で、出家後に親王宣下を受けた者)が入寺する門跡寺院として高い格式を誇った。
内裏炎上の際、仮皇居ともなり、光格天皇遺品の屏風や狩野益信の襖絵がある。書院は女院御殿(重文)を賜わった。
聖護院の開基は
熊野・那智の滝に一千日篭居をされた後、熊野より大峰修行を行われた第5代天台座主・智證大師圓珍(814-91)を中興の祖と呼んでいます。
その後大師の後を継ぎ、修験僧として名をはせた増誉大僧正は、寛治4年(1090)の白河上皇が熊野三山を参詣する熊野御幸に際して先達を務められ、その功績によって聖体護持の2字をとり、聖護院という寺を賜ったのが聖護院の始まりになります。
山伏の修験道場として
日本人は昔から山には神々が宿ると信じ、山の神を信仰して来た山岳信仰、自然崇拝に源を発した民族信仰を持っています。
山自体をご神体(法体)として拝むことに始まり、山の中、つまりご神体の中に入って修行することにより呪術的な験力を得る事を望んだのです。
聖護院の最盛期には全国に2万余の末寺をかかえる一大修験集団となりました。
この後上皇によって行われた熊野御幸の案内は代々聖護院大先達が勤め、「伊勢へ七たび 熊野へ三たび 愛宕まいりは月まいり」と言われるほど、熊野詣は盛んになり、また愛宕山も修験の行場として栄えました。
聖護院の南西にある熊野神社(※こんど載せます)は、平安時代に「聖護院の森」の鎮守として祀られ、若王子神社(※こんど載せます)、新熊野神社と共に「京の熊野三山」として崇敬されていましたが、応仁の乱(1467)で焼失、1666年聖護院道寛法親王によって再興されました。
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有名な聖護院大根や八つ橋はこの聖護院村で作られていたことから「聖護院」の名が冠せられたのです。(八つ橋もまたこんど)
聖護院門跡の公式サイトです。
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宿泊の出来る「聖護院・御殿荘」
公式サイトです。
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説明は公式サイトから。(ところどころ私の言葉入り)
山伏の修験道場とは知らなかった。賢くなってきたけれど「京都検定は受けません」・・・ますます京都通にはなってきたけれど・・・漢字を書かされるとアウトだろうしなあ。
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