渉成園 -枳殻邸- その1
←目次 2006年1月27日から毎日更新しています。
一昨日の興正寺に行く前に渉成園を訪れました。そろそろ梅が咲いていると予想して行ったのですが、果たしてどうだったのでしょうか。広大な庭園なので、2回に分けて紹介します。写真①-⑰の撮影場所を下の航空写真に示しておきます。
東本願寺(真宗本廟)の飛地境内で、池泉回遊式庭園を持つ。周囲に枳殻(からたち)が植えてあったことから、「枳殻邸」(きこくてい)とも呼ばれる。寛永18年(1641)に三代将軍家光から約一万坪の土地が寄進され、石川丈山の趣向を入れて作庭された。下は入り口の西門①
園内の建物は安政5年(1858)、元冶元年(1864)年の二度にわたって焼失し、現在の建物は明治初期から末年ごろの間に順次再建された。入り口正面の「高石垣」、石橋、礎石、石臼など様々な石を積み重ねています。②
入り口で、庭園施設の維持・保全のための500円以上の協力寄付金を支払います。写真がきれいな詳しいガイドブックをいただけます。以下は、ガイドブックにある参観順路に沿って歩きます。高石垣の左の方から庭園に向かうと、さっそく白梅がありました。向こうの紅梅はまだつぼみでした。③
庭園北口 ④
北口を入って左側にある小池に面して、「臨池亭(りんちてい)」(左)があります。池の側には広い縁が張り出しています。⑤
池の正面にある「滴翠軒(てきすいけん)」 その名は池に落ちる小滝からつけられ、臨池亭と廊下で繋がっています。⑥
滴翠軒の東(右)にある「檜垣の燈籠」 その名の由来は不明とのことです。その右にある小滝から注がれた水が、鑓水(やりみず)を通って庭園内を南に流れていきます。⑦
この水は、かっては高瀬川から引き込み、明治以降は琵琶湖疏水から分流させた「本願寺水道」を通って流れ込んでいました。本願寺水道は、防火などのために琵琶湖の水を東本願寺の堀を通って渉成園までの約4.6kmの距離を引き込んだ水路です。⑧
ところが、市街地に埋設した送水管の老朽化により2008年に停水されてしまいました。琵琶湖疏水とともに、京都の近代化に寄与した産業遺産として注目されています。パンフレットに説明がありませんが、小滝の水は現在地下水をくみ上げていると思います。⑨
一方で、本願寺水道が高低差だけを利用し動力を必要としないことから、大規模震災時の防災に有効で、都心部の焼失家屋を半減させるとの研究もあり、送水の再開に向けた動きもあります。⑩
話が少しそれましたが、庭園北口から右手には建物が並んでいます。正面は「園林堂(おんりんどう)」という持仏堂で、内部は棟方志功による42面の襖絵で飾られているそうです。「園林」とはもともとは中国宮殿の大規模庭園のことですが、仏典では浄土を表わすことばで、桂離宮にも同名の持仏堂があります。⑪
園林堂と向かい合っている「傍花閣」(ぼうかかく)。楼門作りで左右に山廊とよばれる階段の入り口があり、面白い形をしています。このあたりは桜並木となっていて、その季節には、建物の名にふさわしい景色となります。⑫
園林堂の南にある「蘆庵(ろあん)」、2階建ての茶室です。⑬
蘆庵の露地にある「蘆庵の春日燈籠」、江戸時代の作で六角形の笠に降り積もった雪が刻んであるのが特徴です。⑭
先ほど通った小池からの鑓水は、傍花閣の傍を通って南に流れていきます。⑮
鑓水を渡って東側にある「亀の甲の井戸」、上から見ると亀の形に石が組んであり、中央に井筒が埋められています。向こうに北口、その手前に鑓水が見えます。⑯
井戸の北にある「代笠席(だいりつせき)」、生垣で囲まれた煎茶席です。ちなみに、代笠席とは、人里離れた地を訪れた旅人が「笠代わり」に雨宿りする席という意味だそうです。⑰
明日は、広大な池の周りを回遊し、最後にお目当ての梅園を通ります。
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