伏見桃山 御香宮神社
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昨日に続いて御香宮神社です。(上は中の桃山天満宮です)
御香宮神社・・・安産祈願の神社として知られています。
初めは、『御諸神社』と称したが、平安時代貞観4年(862)9月9日に、この境内から「香」の良い水が涌き出たので、清和天皇によって『御香宮』の名を賜った。
表門 (伏見城大手門) 元和8年(1622)、徳川頼房(水戸黄門の父)が伏見城の追手門を拝領して寄進したも。門の上には中国二十四孝の物語を彫った四つの蟇股(かえるまた)があります。◆場所はここです。周りの住所、地名に驚かれるかと。
豊臣秀吉は天正18年(1590)、願文と太刀(重文)を献じてその成功を祈り、やがて伏見築城に際して、城内に鬼門除けの神として勧請し社領三百石を献じた。
その後、徳川家康は慶長10年(1605)に元の地に本殿を造営し社領三百石を献じた。
慶応4年(1868)正月、伏見鳥羽の戦には伏見奉行所に幕軍が據り、当社は官軍(薩摩藩)の屯所となったが幸いにして戦火は免れた。
◆10月の神幸祭の準備がされた時に行った記事は→こちらです。
門を入って左に在るのが「伏見義民の碑」です。
天明5年(1785)9月、時の伏見奉行の悪性を幕府に直訴し、伏見町民の苦難を救い、自らは悲惨な最期を遂げた文殊九助ら7人を伏見義民といいます。
この碑は明治20年(1887)に建てられたもので碑文は勝海舟の撰、題字は三条実美の書。毎年5月18日に伏見義民顕彰会によって慰霊祭が執行されます。
◆江戸時代(1803~1867)伏見は交通の要衝として栄え、政治経済上重要な地であったため、幕府直轄地として奉行所がおかれた。
安永8年(1779)に奉行となった小堀政方が町人に対し不法な御用金を課すなど数々の悪政を行い住民に対する苛斂誅求は言語に絶するものがあった。
文殊九助、丸屋九兵衛、麹屋伝兵衛、伏見屋清左衛門、板屋市右衛門、柴屋伊兵衛、焼塩屋権兵衛の7人は奉行の悪行に虐げられた住民の苦難を座視するに忍びず、苦心惨憺の末に天下の禁を破って幕府に直訴した。
このため、天明5年(1785)小堀政方は罷免され、町人7名は御構いなしという判決が出されたが、しかし7人ともすでに病死や牢死で判決時に在世したものはいなかった。
桃山天満宮 見事に大きな銀杏です。
伏見城跡残石、竹田街道の車石。他に数々の石碑が御香宮の境内にはあります。
天満宮といえば「牛」。来年はどこもさぞかし賑わうことでしょうね。
拝殿
本殿
本殿と御香水の石碑。
以上説明は駒札と御香宮HPより。
絵馬堂です。絵馬堂が好きで眺めていたら・・・声をかけてくださる方がいました。
「左甚五郎作の絵馬があるの知ってますか?」って。
金網が貼られたのがあるでしょ、猿の彫刻。
以前、絵馬堂の中を撮った時の記事があるのですが・・・ダメですね・・・下の馬は撮ってるのに、大切なのを撮っていませんでした。◆その時の記事は→こちらです。
境内を少々。。。
広い境内に数々のお宮さんが点在します。
楽しそうな狛犬さんです。
愛嬌があります。
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御香水を汲みに来る方々。
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