2008年5月15日 (木)

豊国廟 女坂 プリンセスライン

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豊国廟 (ほうこくびょう)  豊臣秀吉のお墓です。
豊国廟まで登ったのは3月末、もうすぐソメイヨシノの開花宣言が出そうという日。・・・が、この写真は新緑。。。先日、妙法院の特別拝観の時に女坂の入口だけ撮ってきました。場所はここです。

豊国廟は東山七条の「智積院」(左)と「妙法院」(右)の間の道、通称「女坂」と呼ばれる坂道と「脅威の石段・565段」を上がった「阿弥陀ヶ峰」の頂上にあります。

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「女坂」と呼ばれる所以は京都女子学園(幼、小、中、高校、短大、大学)の通学路であるため女子ばっかり(幼、小は共学)が行き交う道だからです。
高校を左に見て、右は新日吉神宮(いまひえじんぐう)を通ると・・・。(新日吉神宮の記事はこちらです)。春休み中で学生、生徒はいませんねえ。

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京都女子大学(短大も)の正門です。歴史は明治32年に始まります。
京都女子学園のことを、通称・・・京女「きょうじょ」って呼びます。

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錦華殿 (きんかでん) 現在は大学正門の北側にあります。
円形のバルコニーが特徴のこの建物は、明治31年、西本願寺第22代門主・大谷光瑞師と籌子裏方の新居として建てられた、フランス様式の洋館。
大正9年(1920)に現在のキャンパスに移築され、学園の建学記念館でしたが、昭和56年(1981)、老朽化のために解体、平成12年(2000)に再建(復元)、往時の麗容を鮮やかに蘇らせました。

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ここから阿弥陀ヶ峰の豊国廟への道になります。石段は565段とか・・・。

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赤いプリンセスラインのバスがよく通ります。京都駅から市バス206番が観光客でいっぱいなので「乗れない、学校に遅刻する!」とかで京都駅から京都女子大学まで。ここからは四条河原町の方に行きます。授業が終われば繁華街へ? 誰でも乗れます。

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阿弥陀ヶ峰 (あみだがみね)
東山区東山七条の東方にあり、標高196メートル。山名は天平年間(729-49)に行基が阿弥陀如来を安置したことに由来。古くは葬送の地で京の街を一望できる戦略の要衝。ここから階段の段数を数えてみました。上れるかしら?。

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桜にはまだ早く、梅の花の向こうに見えるのは、あの真っ赤なバス。・・・ここが、車庫なのか?? 京都女子大学とプリンセスライン

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大きいのから小さいのから、レトロから・・・いろんな真っ赤なバスがいっぱい。

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京都女子大学です。

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桜の木ががたくさんありました。ここでお弁当広げて、、、「お花見には絶好の場所だなあ」なんて思いながら、でも、ここまで結構登るから、また来年ということに。

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豊国廟へは50円払って入ってください。この階段・・・どうしましょう。

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この門までで、313段。一気に上ってきたから、私はここでギブアップです、後は宜しく。この上りが後々膝と腰に来てしまいました。最初から下で待っていれば良かった。

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豊国廟
慶長3年(1598)8月18日、秀吉は63歳を以って伏見城にて薨じた。遺体は、遺命により、阿弥陀ヶ峰中腹に葬られ、墳上には祠廟、山麓には社殿が建立された。
翌年4月18日、遷宮式が行われ、後陽成天皇から正一位豊国大明神の神階と神号を賜り、以後、毎年盛大な祭礼(豊国祭)が取り行われた。
しかし、元和元年(1615)豊臣氏の滅亡と共に、廟は破壊され、墳墓に弔する人もなく、空しく風雨にさらされていた。 

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明治30年(1897)、秀吉の300年忌に際し、豊臣氏ゆかりの旧大名家が、豊国廟の復興をはかり、秀吉の墓所をもとの位置より東の阿弥陀が峯頂上に移し、廟宇が再建され、墳上には巨大な五輪石塔が建てられた。
なお、社殿は、明治13年(1880)、旧方広寺大仏殿の地に、「豊国神社」として再建されている。(京都市駒札) ◆豊国神社はこちらの記事でどうぞ。

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さっきの所から176段。合計489段なのですが、駒札には565段って書いてあるのですが、どこから数えたのでしょうか?。東山通りからかしら?それでも変。
お墓からは残念ながら視界は開けません。 帰りの下り・・さっきの門が見えます。

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妙法院の長い土塀に沿って東山通りへ戻ります。春休みとはいえ、誰も通ってないのは寂しい。でも、坂の入口にあるイタリアン・レストランはピザが美味しいらしくて、外で順番待ちが出来ていました。

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今日は「葵祭・路頭の儀」です。
快晴の葵祭日よりです。明日の記事は「御所」と「賀茂街道」からお伝えします。

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2008年4月 1日 (火)

桜と新日吉神宮

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新日吉神宮・・・「いまひえじんぐう」って読みます。なかなか読めません。 私、今まで「新日吉神社」だとばかり思っていました。当然私は「いまひえ」とシッカリ読めますよ。

東山七条の智積院と妙法院の間の通称「女坂」と呼ばれる京都女子学園へと続く坂道の途中にあります。(こんな立派な神社があったかしら) 場所はここです
その上の阿弥陀ヶ峰の頂上には豊臣秀吉のお墓「豊国廟」があります。

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新日吉神宮 (いまひえじんぐう)   新日吉神社  新日吉神社
永暦元年(1160)、後白河法皇が、その御所法住寺内に比叡山東坂本の日吉山王(ひえさんのう)七社を勧請したのが当社の始まりである。祭神として、後白河法皇のほか、皇居守護神山王七柱を祀り、酒造、医薬、縁結びの神として信仰を集めている。
当初は智積院南側に創建されたが、元和元年(1615)、豊国廟社の破毀とともに旧廟前に移り、更に明治30年(1897)にこの地に移った。
5月第2日曜は「新日吉祭」。新日吉小五月会(こさきのまつり)として古くから伝わる行事。神幸出立祭の後、馬場御供(鳳輦前で妙法院門跡による御法楽の儀)、続いて行列が氏子地を巡行。

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楼門が綺麗です。武者さんも綺麗過ぎてちょっと恐い。

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社殿は応仁の兵火で焼け、その後しばしば増改築が行われたが、現在の本殿は、天保6年(1835)の改造で、大きな流造である。

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古くから朝廷の崇敬が厚く、上皇の御幸は108度に及んだといわれ、また数多く天皇の遺物、宸筆を蔵している。また、寛政10年(1798に妙法院から境内の樹下社に寄進された、長谷川等伯筆と伝わる豊臣秀吉の肖像が保存されている。
なお、江戸後期の小沢蘆庵をはじめ、多くの文学者の稿本など近世文学の資料を蘆庵文庫の名で宮司家が保存していることは有名である。(以上説明は京都市駒札)

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軒の丸瓦、模様は菊のご紋でしょうか、花が4等分で変わってますね。

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撮影は3月28日。ソメイヨシノ2-3分咲き。

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拝殿からの本殿。本殿の前、左右に網に入ったお猿さんが。

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御神猿の霊験
太古に京都、滋賀地方を開発された日吉大神は、千年の皇都の鬼門をご守護になった霊神で、昔から朝野の信仰は、真に顕著でありました。当神宮本殿の前に安置する御猿は、大神の御使者で、信者の災禍を去るという不思議な働きをされます。常に御幣を捧げて悪気を祓い、すべての災厄を退けて、幸福を授けられます。
新日吉神宮社務所  (説明板より)

本殿に向かって左は幣帛を持って、凛々しい感じがします。

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右は、烏帽子をかぶり、右手には鈴。左手には扇子を持った三番叟姿です。
先日紹介の鬼門にある「幸神社」「御所の猿ヶ辻」のお猿さんと同じですね。逃げ出さないようにか、網で囲われていて。(これは鳩除けかな?)
※「赤山神社」の屋根の上のお猿さんは→こちらの記事です。
※「幸神社」のお猿さんは→こちらの記事です。(猿ヶ辻にもリンクしてます)

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本殿から拝殿の方を見ました。
新日吉神宮と関連している「豊国神社、方広寺の鐘」は→こちらです。

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お百度は知ってますが、、、お千度。これはスゴイ。でも千本も串は無いと思います。多分、1回で10回参ったことにするんじゃないかな? 節分に食べる豆みたいに。(だって歳の数だけ豆は食べれないもん!)

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境内には「天満宮」「愛宕社」「秋葉社」「豊国社」があります。

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楼門を境内から。サラッピンです、綺麗。

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外に山口稲荷社があります。

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ナッ何なんだ・・・お座敷バスか?(乗りたいなあ~と思った方は次をお楽しみにね)

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565段の石段を上っての「豊国廟」は桜の合間に記事にします。
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2008年3月28日 (金)

智積院 梅・こぶし・桔梗

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七条通の東の突き当たりにある「智積院」です。この大きな「こぶしの花」が眼に入ったので行ってみました。

今日の記事を作りながら以前の記事をリンクしようかと見てみると・・・「無い! あの写真が~!」・・・そうなのです。以前は寺院の細かい部分の写真は撮っていても全然載せてないのです。1日の写真の枚数が7-8枚。なんて勿体ない事をしてたのでしょうね。
智積院の諸堂が新しいので何でだろう?・・・とHPを見ていたら、寺院の歴史や焼失した事などを知って・・・
七条通の突き当たりの目立つ大きな寺院なのに、、、有名観光寺院とは少し違うから、忘れていたようです。(この辺りの散策と、特別な時だけ記事にしていました)

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庫裏

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智積院 (ちしゃくいん)
真言宗の宗祖弘法大師空海が高野山でご入定されたのは、承和2年(835)。それからおよそ260年後、興教大師覚鑁(かくばん)が高野山に大伝法院を建て、荒廃した高野山の復興と真言宗の教学の振興におおいに活躍。
その後、保延6年(1140)に、修行の場を高野山から和歌山県内の根来山へと移し、真言宗の根本道場とした。
鎌倉時代の中頃に、高野山から大伝法院を根来山へ移し、これにより根来山は学問の面でも大いに栄え、最盛時には2900もの坊舎と、約6000人の学僧を擁するようになります。智積院は、その数多く建てられた塔頭寺院のなかの学頭寺院でした。

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しかし同時に、巨大な勢力をもつに至ったため、豊臣秀吉と対立することとなり、天正13年(1585)、秀吉の軍勢により、根来山内の堂塔のほとんどが灰燼に帰してしまいました。
その時、智積院の住職であった玄宥(げんゆう)僧正は、難を京都に逃れ、苦心のすえ、豊臣秀吉が亡くなった慶長3年(1598)に、智積院の再興の第一歩を洛北にしるしました。

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そして慶長6年(1601)、徳川家康公の恩命により、玄宥僧正に東山の豊国神社境内の坊舎と土地が与えられ、名実ともに智積院が再興されました。
その後、秀吉公が夭折した棄丸の菩提を弔うために建立した祥雲禅寺を拝領し、さらに境内伽藍が拡充されました。再興された智積院の正式の名称は、「五百佛山(いおぶさん)根来寺智積院」といいます。(智積院HPより抜粋)

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智積院の大きな狛犬はかなり変わっています。

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庭園(名勝)、桃山時代の作庭といわれ、築山と苑池からなる観賞式林泉で京洛名園の一つに数えられている。庭園はこちらです。

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桃山時代に長谷川等伯らによって描かれ、祥雲禅寺の客殿を飾っていた金碧障壁画が収蔵庫は残されています。「楓図」「桜図」「松と葵の図」「松に秋草図」等は国宝に指定されています。 このほか、張即之筆金剛経(国宝)、南画の祖といわれる王維の瀧図(重文)をはじめ、仏画・経巻など多数の指定文化財を蔵している。
書院にはその襖絵のレプリカの襖が使用されています→こちらです。

夜桜の時のライトアップはこちら    綺麗ですよ。

京都駅からの散策コースとしては→こちらです。

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あまり記事にしなかったのは「新しい」ということから建物に魅力が無かったように思います。歴史を読むうちに「ちゃんとしておこう」という気になりました。次にはしっかり残っている諸堂の写真もあわせて記事にします。
今日は「梅・こぶし・桔梗」を予定してたのですが、なんだか途中変更で「様にならない」感じです。(いつもの事ですが)
この日行った時、梅の手入れと通路工事が行われていました。そしてたくさんの「桔梗の苗」が用意されていました。

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智積院といえば・・・桔梗の紋ですものね。ほらッ。紺地に綺麗。

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夏から秋にかけての桔梗がこれから植えてゆかれます。。。毎年放っておいても咲くのかと思ってた。(なんにも考えてませんでした)

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これも「梅」なのか? はたまた「桃」なのか?

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5時に鐘が撞かれました。

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2008年3月20日 (木)

法住寺

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「法住寺」、三十三間堂の東にあります。横が血天井の「養源院」、そちらにはお客が多いのにひっそりしています。養源院へは枝垂桜の頃に再び行くとして・・。
法住寺 (ほうじゅうじ) 
天台宗の寺で、永祚(えいそ)元年(989)右大臣藤原為光が、その夫人と女(むすめ)つね子(花山天皇女御)の菩提を弔うため建てた。
当時は、北は七条通、南は八条通、東は東山山麓、西は大和大路に及ぶ広大な地域を占めていた。しかし、のち火災にかかり荒廃した。
保元3年(1158)後白河天皇は、法住寺の地を院の御所と定められ、上皇となって住まわれた。その後、当寺の寺域内に、蓮華王院(三十三間堂)や長講堂を造営された。
明治維新後、後白河天皇陵が宮内庁所管となったので、御陵と寺城を別にして大興徳院と改め、渋谷より親鸞上人自作の阿弥陀如来像と自刻影像(そば喰い木像)を移したが昭和30年に法住寺の旧号に復した。(駒札より)

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本尊は不動明王像(身代わり不動尊像)
後白河天皇が法住寺殿に住んでおられる時に、法住寺合戦で木曽義仲が院の御所に攻め入ったとき、当時の天台座主が敵の矢に倒れ、法皇は難を逃れたことから「お不動様が身代わりになってくださった」と。方除け、厄除け、国家安泰の守護仏とされている。↓菊の花の中心が「三つ巴」ですね。

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播州赤穂の浪士、大石良雄が山科に隠棲中、山科街道を通って遊郭へ通う道すがら身代わり不動に義挙の成就を祈願しており、当寺に赤穂浪士四十七士木像を安置している。↓門の上にも見たことが無いようなものが。。。

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鬼瓦が何となく可愛い。

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討ち入りの日に、赤穂浪士と関係のあったお寺が行事をするので、このお寺にも来たかったのですが、来そびれてました。
赤穂四十七士の像の写真を幾つかのネットで見ていたので・・・・・わざわざ拝観料(500×2)を払って入ったのに・・・あ~あ・・・赤穂四十七士の像は撮影禁止だって。。。中は見るところがほとんど無いのにですぞ!(・・・不覚!)

機嫌をとり直して・・・  本堂、新しいです。

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普段はこのように石庭になってますが、護摩を焚くところ。

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一本の木に紅白二色の梅の花が咲いています。

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一応中からの写真も1枚。

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枝垂れ梅も可愛かったですよ。

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こちらは南にある門です。

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屋根の「しゃちほこ」(でいいのかな?) 尾が左右違いますね。オス・メスでしょうか? 

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「狩野永徳展」で食べそびれた甘春堂のお昼のお膳。(1050円) 和菓子屋さんだから食後は・・・甘~く。甘春堂での「菓子膳抹茶」はこちら

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2008年3月19日 (水)

三十三間堂 (蓮華王院)

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HP用に写真を撮りに行っただけでスッカリご無沙汰していた「三十三間堂」。
京都駅からも近く、あまりにも有名な「三十三間堂」をブログで紹介していなかったなんて・・・(散策コースの中でチョッピリだけ入れてましたが)。
「撮影禁止」の処には行かないので、「三十三間堂」を記事にするなんて思うこともしませんでした。何というか・・・^_^;。博物館あたりを歩いた日(16日)も外回りしか撮ってませんが、過去の写真と合わせて紹介します。場所はこのあたり

三十三間堂 正式には 蓮華王院(れんげおういん)といいます。
現在は天台宗「妙法院」の管理になるお堂で、長寛2年(1164)鳥部山麓(現・阿弥陀ヶ峯)にあった後白河上皇・院政庁「法住寺殿」の一画に平清盛が造進しました。
一度、焼失したが、直に復興に着手し文永3年(1266)に再建。その後、四度の大修理を経て750年間護持されています。

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長大なお堂は「和様入母屋・本瓦葺」「総檜造り」で、南北に約120メートルあり、お堂正面の柱間が33あることから「三十三間堂」と呼ばれます。
「三十三」という数は、観音菩薩の変化身三十三身にもとづく数を表しています。

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豊臣秀吉は当時交通の要所だったこの地に目を向け、後白河院や清盛の栄華にあやかろうと思い立ち、権勢を天下に誇示するため奈良大仏を模した「大仏殿方広寺」を三十三間堂の北隣に造営、お堂や後白河上皇の御陵をも、その境内に取り込んで土塀を築きました。今も、その遺構として南大門・太閤塀(ともに重文)が残ります。 お堂の修理も千体仏をはじめ念入りに遂行され、その意志を継いだ秀頼の代まで続きました。
大仏殿は、文禄4年(1595)9月に完成し、千人の僧侶により落慶供養されたといいます。
秀吉は、死後「豊国大明神・とよくにだいみょうじん」という神格として祀られ、お堂東隣の阿弥ケ峯には壮麗な社殿が造営されました。(公式サイトより)

「大仏殿方広寺」「豊国大明神(豊国神社)」「法住寺」は引き続き記事にします。「大仏殿石垣」は昨日の記事です。

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通し矢  (成人の日のニュースといえばこれでしたね)
桃山時代には、すでに行なわれたと伝えられています。お堂西縁の南端から120メートルの距離を弓で射通し、その矢数を競ったものです。
江戸時代、殊に町衆に人気を博したのは夕刻に始めて翌日の同刻まで、一昼夜に何本通るかを競うもので、京都の名物行事となりました。
「矢数帳」には、通し矢法を伝承した〈日置六流・へきろくりゅう〉の江戸期の試技者氏名、月日、矢数などが編年で書き留められており、最高記録は、総矢13,053本、通し矢8,133本で、紀州・和佐大八郎(試技年齢は18歳)と記されているそうです。

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本尊は「中尊」(国宝)と、左右各500体(重文)の合計1001体です。

中央の丈六の「中尊」(正しくは「十一面千手眼観世音」)は像高が3メートル余、檜材の寄木造りで全体に漆箔が施されています。42手で「千手・せんじゅ」を表わす通例の像形で、鎌倉期の再建時に、大仏師湛慶(たんけい)が、同族の弟子を率いて完成させたものです。
千体の中、124体は、お堂が創建された平安期の尊像、その他が、鎌倉期に16年かけて再興された像です。その約500体には作者名が残され、運慶、快慶で有名な慶派をはじめ、院派、円派と呼ばれる当時の造仏に携わる多くの集団が国家的規模で参加したことが伺えます。観音像には必ず会いたい人に似た像があると伝えられています。
※堂内は撮影禁止のためにパンフレットの写真です。

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風神・雷神、観音二十八部衆という30体の仏像(国宝)も祀られています。

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「三十三間堂」って、あまりにもポピュラー過ぎる京都の名寺院で、ついつい忘れているというか敬遠しがちですが・・・1001体の仏像の壮観さを是非・是非見てください。
私は感激、感動しました。

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南大門
境内の南端に建つ通称「太閤塀」といわれる本瓦葺の南大門。巨大な八脚門で秀吉ゆかりの桃山期の重要文化財建造物。慶長5年(1600)、豊臣秀頼によって建立された。。。離れているので いつもこの位置からしか見たことがありません。

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周りの塀も綺麗に塗り直されて鮮やかです。

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