桜の高瀬川 木屋町通り
今日は写真が少ないのを選んで「木屋町・高瀬川」にしました。場所はここです。高瀬川・一之船入りに合わせています。
木屋町通 (きやまちどおり) 北は二条通から南は五条通まで。
角倉了以(すみのくらりょうい)による高瀬川の開削に伴って横に開通しました。
通り名は高瀬川で搬入する木材、薪炭を商う店が多かったためで、初めは「樵木町通」と呼んだのが、江戸期から生洲、貸座敷などが並ぶ遊興の地となり、現代に至る。
道幅は狭かったが、明治28年(1895)の電気軌道敷設で拡幅。
瑞泉寺 晩年の秀吉のために殺された秀次やその家族たち39名の菩提をひっそりと弔っています。記事はこちらです。
三条小橋から上がって歩いています。(写真の順序が違うかも知れません)
鴨川に架かる橋を「四条大橋」、「三条大橋」など「大橋」というのですが、すぐ西側を流れる高瀬川に架かる橋を「小橋」(こばし)と呼んでいます。
川沿いには桜と柳が交互に植えられています。
高瀬川 (たかせがわ)
中京区木屋町通二条下ル付近から鴨川を分流し、鴨川と平行に南流、中京・下京・南区陶化橋付近で鴨川に注ぎ、東山区福稲から再び分水を経て伏見区へ貫流し宇治川に入る人工川。全長10キロ、幅7メートル。
大村益次郎
長州藩の医師、兵学者で、長州征討と戊辰戦争で勝利の立役者となった。初代の兵部省兵部大輔(後の陸軍次官)を務め、事実上の日本陸軍の創始者とされる。
木屋町には諸藩の屋敷や尊攘派の寓居があったので、幕末から明治維新にかけての遺跡がいろいろあります。
江戸初期の豪商角倉了以(1554~1614)素庵(1571~1632)父子によって慶長16年(1611)開削。京都―伏見間の物資を輸送する舟運を盛んにし、京都の経済に重要な役割を果たした。森鴎外の『高瀬舟』の舞台。
高瀬川の船入は二条~四条間に9ヶ所作られ、起点の木屋町二条を「一之舩入」という。荷物の積み下ろしと船の方向転換の場所であった。(柵の向こうで回転さすのかな)
いつもここに舟が一艘浮んでいて、、、私の好きな場所です。
島津製作所の創業記念館、文明開化の頃からの実験装置やノーベル賞の田中耕一さん関係の展示があります。こちらの記事をどうぞ。
道幅がぐっと広がります。
◆ いつもクリック有り難うございます。今日も宜しく。
--------------------------------------------------------------
是非よろしく→ こちらも →
--------------------------------------------------------------
最近のコメント