2022年10月 7日 (金)

壬生狂言と円覚上人

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

10月8日から10日の3日間、壬生狂言が行われます。舞台となる壬生寺は新選組ゆかりの寺として知られていますが、今日はこの寺を中興した円覚(えんがく)上人と壬生狂言の物語を紹介します。(上は坊城通に面する表門⑦。)

今年の壬生狂言の情報をもとに、過去の記事を再編集してお届けします。下は壬生寺の境内図で、文章中の建物の番号は地図のものと同じです。

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「一夜天神堂」⑥ 菅原道真が左遷されたとき壬生の親戚で一夜を明かした伝説があります。江戸時代前期に支院・寂静庵の開祖・託願上人の夢枕に道真が立ち、託願は神像を刻み、一夜で知恵を授かる一夜天神としました。江戸時代の1852年の再建。

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「壬生寺」は平安時代の正暦2年(991)園城寺(三井寺)の快賢僧都によって創建された律宗の寺院で、古い名を地蔵院あるいは宝幢三昧寺などと称しました。 (「本堂」①、中央の参道の両側にお堂がありますが、後で立ち寄ります。)

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快賢は仏師・定朝に命じて3尺の地蔵菩薩坐像を造らせ本尊としました。都の表鬼門の比叡山に対して、裏鬼門を守護するためともいわれます。その後、朝廷や大名、幕府などからの庇護が続きました。「鐘楼」⑧ 嘉永4年(1851)に再建、梵鐘は嘉永元年(1848)の鋳造。8月の精霊迎え鐘や、大晦日の除夜の鐘として希望者が撞くことができます。

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特に、平安時代の白河天皇に篤く信仰され、「地蔵院」の勅額、寺号を贈られ、その発願によって毎年2月に節分厄除大法会が始められました。鎌倉時代には円覚上人によって中興されましたが、詳しい話は後ほど。「南門」

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昭和37年(1962)本堂を全焼し、本尊地蔵菩薩像を含む多数の寺宝を失ってしまいました。本堂の左隣にある「千体仏塔」⑨は千体の石仏がパゴダ状に祀られています。

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新たに延命地蔵菩薩立像(重文)が、律宗総本山唐招提寺から遷されて本尊とし、昭和45年(1970)に新本堂の落慶法要が行わました。他に「鑑真和上坐像」が安置され、これは姉妹寺院の中国揚州・文峰寺との間で造立された2体の像の一つです。

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表門からの参道に戻り「阿弥陀堂」④は阿弥陀三尊(阿弥陀如来、観音如来、勢至如来)」を祀ります。お堂を通り抜けた先に弁天池があり、その中ノ島が「壬生塚」⑬と呼ばれ、歴代住持や新選組隊士の墓や供養塔があります。

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阿弥陀堂の隣に「弁天堂」⑪があります。清水寺の延命院から遷された辧財天(秘仏)が祀られています。かって境内の西北にあった池の畔に鎮座して、戦後に現在地に移されました。水神で、寺の鎮守、蓄財、子孫繁栄、金運上昇のご利益があるとか。

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鎌倉時代に壬生寺を中興したのは律宗の僧「導御(どうぎょ)」(1223-1311)で、円覚上人はその通称です。(「水掛地蔵堂」③ 江戸時代の1649年作の石仏「水掛地蔵菩薩」が安置されています。)

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円覚は大和国(奈良県)の大鳥広元の子としてに生まれましたが3歳のときに父が死に、再婚した母は彼を養育することができずに捨て子にしました。(地蔵菩薩に水を掛けて祈ると願いが一つかなうといわれます。)

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向かいに「中院(ちゅういん)」⑩があります。壬生寺に唯一残る塔頭で、本尊は鎌倉時代作の十一面観音菩薩、洛陽三十三所観音霊場第28番札所、福寿無量、健康長寿の信仰があるそうです。

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円覚は東大寺に拾われて養育され、18歳で唐招提寺中興第2世長老証玄の弟子として出家。以後、法隆寺、法起寺の勧進・修造活動に奔走しました。(「歯薬師如来」は、京都十二薬師第4番札所の本尊で、歯の病平癒の信仰を集めています。)

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文永5年(1268)ごろ、法隆寺夢殿に参籠して融通念仏を弘めるようにとの聖徳太子の託宣を得て活動の拠点を京都に移し、法金剛院、壬生寺、清涼寺などの勧進・復興活動を行いました。(本堂の右横にも石仏・石塔があります。)

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円覚上人の教えは大人気で、数十万人の人々が集まったといわれます。上記の寺院において融通大念仏会を催し、その結縁者が10万人に達するごとに供養を行ったので「十万上人」と呼ばれました。(「寺務所」⑮ 中に庭園があり、御朱印が頂けます。)

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円覚は、正安2年(1300)に「大念佛会」を行い、大群衆に声が届かないので、身ぶり手ぶりの無言劇にした持斎融通(じさいゆうづう)念佛を考案しました。(境内の北西には寺が経営する老人ホーム「ウェル・エイジみぶ」があります。)

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持斎融通念佛が壬生狂言の始まりと伝えられ、仮面をつけた演者が、鉦や太鼓、笛の囃子に合わせ、無言で演じます。近世には大衆の娯楽としても発展、能や物語などから題材が取り入れられました。 寺務所の西にある「壬生寺保育園・壬生寺会館」

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北門の横に「三福川(みぶがわ)稲荷堂」⑫があります。近くを流れる壬生川にちなんだ名で、かって壬生寺の鎮守社だったといわれます。稲荷神は子孫繁栄、商売繁盛のご利益があるとされます。

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「大念仏堂」②は安政3年(1856)の再建で、綱わたりの芸をする「獣台」や鬼などが飛び込んで消える「飛び込み」などの装置を持つ、他に類例を見ない特異な建造物として、 昭和55年に国の重要文化財に指定されました。

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壬生狂言は一般の能狂言とは異なり、演者が仮面をつけ一切「せりふ」を用いず、勧善懲悪、因果応報を教える宗教劇としての性格を残し、昭和51年に京都で初めて国の重要無形民俗文化財に指定されました。現在、演目は全部で30あります。下はおなじみの演目「道成寺」。

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「炮烙(ほうろく)割り」 毎年、春・秋の壬生狂言の毎日初番として演じられ、多数の炮烙を割ります。2月の節分に参詣して、厄除開運の素焼きの炮烙を求めて寺に奉納したものです(壬生狂言の演目の写真は壬生寺のHPからの転載です)。

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今年の演目は以下のとおりです。

10月8 日(土)1 炮烙割 2 道成寺 3 土蜘蛛 4 大黒狩 5 餓鬼角力 6 棒 振
10月9 日(日)1 炮烙割 2 桶 取 3 紅葉狩 4 花 折 5 大江山  6 棒 振
10月10日(祝) 1 炮烙割 2 玉藻前 3 花盗人 4 賽の河原 5 蟹  殿  6 棒 振

「桶取」 壬生狂言で最も重要な曲目。壬生寺の近くの「照子」という美しい白拍子を金持が見初め、さんざんにロ説いて馴染みとなりますが、懐妊中の妻は嫉妬のあまり狂死してしまいます。両人は悔いて妻の霊を慰めるために円覚上人の導きで出家しますが、何故か妻が狂乱する所までしか演じられません。照子の独特の踊りが見ものです。

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「大黒狩」 かつて僧侶は戒律によって妻帯は許されなかった。しかし密かに妻を持つ者が露見すると、僧侶の身分を剥奪され、寺を逐われるという制裁があった。大黒天は福の神で台所を守る神という性格も持ちます。このことから、特にお寺の奥さんを「大黒さん」とも呼ぶ。この狂言は、この「大黒さん」を隠し持つ僧侶を戒める教訓劇です。

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「餓鬼角力」 壬生寺の本尊は地蔵菩薩です。その地蔵菩薩はいつも弱い餓鬼(亡者)の味方であり、地獄の鬼から守って下さるということを、鬼と餓鬼の相撲試合によって表現した狂言です。

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「紅葉狩」 名将の誉れ高い平維茂は、狩りの途中に一人の美女に魅せられ、酒宴で毒酒をもられます。神のお告げで鬼女であることを知り授けられた刀で鬼女を退治します。壬生狂言では神の代わりに壬生寺の本尊・地蔵尊が維茂を助けます。壬生狂言の演目の中で歴史が古く、格調高いものの一つだそうです。

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「棒振」 春、秋の狂言公演の最終日の、最後の演目です。この棒振だけは覆面と赦熊をするだけで仮面はつけず、囃子もかねだけで、太鼓と笛は入らない。大念佛講全員が素面で舞台に並んで扇子を持ち、かねに合せて「チョウ、ハ、サッサイ」と棒振をはやす。この棒振は筋書きがなく、厄が払われ、悪病にかからないと信じられていました。

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ところで、円覚上人は持斎融通念佛会によって生き別れた母と再会したといわれます。その母子再会譚は「嵯峨大念仏会」(下)を舞台とする謡曲「百万」の題材になっています。

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2022年10月 6日 (木)

妙蓮寺 秋の境内

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

「妙蓮寺」は山号を卯木山(うぼくさん)という本門法華宗大本山です。「山門」は江戸時代後期(1818年)建立、御所から移築され、左右に両袖番所が付いています。

今日は、過去の今頃の妙蓮寺の記事に、最新の情報を加えて再編集しています。下は妙蓮寺の境内図です。

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妙蓮寺は鎌倉時代の永仁2年(1294)宗祖日蓮聖人より京都での布教の遺命を受けた孫弟子・日像上人によって創建されました。境内のあちこちに彼岸花(曼殊沙華)が咲いています。

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日像上人が遺命を果たすため鎌倉から上洛した時、 五条西洞院の柳酒屋が聖人に帰依し、未亡人が邸内に一宇を建立して上人を開山に招き、卯木山妙法蓮華寺と称したのが始まりです。

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その後、たびたびの法難にあいましたが、室町時代の応永年間(1420年頃)本勝迹劣(ほんしょうじゃくれつ)、本迹一致(ほんじゃくいっち)の論争を契機に妙顕寺を出た日慶上人によって柳屋の地に本門八品門流として再興されました。

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さらに、寺域を堀川四条に移し、皇室ならびに伏見宮家と関係が深い日応僧正を迎えると、皇族を始め足利将軍義尚らの参詣が多くありました。「本堂」

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上述の本勝迹劣、本迹一致は法華経の解釈に関する論点だそうです。天台法華経を構成する28章は、前半の「迹門」、後半の「本門」に二分されます。(本堂には本尊として十界曼荼羅を祀ります。)

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本勝迹劣は本門に法華経の極意があるとし、その流派は本門流と呼ばれます。本迹一致は、本迹の違いを認めつつも28章を一体として所依(しょえ、よりどころ)とすべきという主張で、その諸派は一致派と呼ばれます。本堂の西にある塔頭「本妙院」

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妙法院には江戸時代前期の作と思われ、大ぶりの石を多用した豪快な枯山水庭園があり、京都市の名勝に指定されています。

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今出川家の公達だった日忠上人は、改宗して三井寺から当寺に移り、学室道輪寺を創立、本化教学の道場を開きました。この頃、当寺の教義は隆昌を極めて寺院の格式も高いものとなりました。右隣に塔頭「常住院」

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本堂の周りを右回りに廻ります。本堂の西には妙法院、常住院に加えてに慈詮院(南)の計3院の塔頭があります。本堂の裏には渡り廊下があり、その下をくぐります。フヨウが咲いていました。

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本堂の北(裏)には表書院(下)と宝物殿などの建物があります。*表書院、奥書院、会議室などは貸席として利用できます。諸教室・稽古、学校のクラブ・合宿などの文化的な活動が対象です。

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天文5年(1536)法華宗の隆昌を妬む比叡山天台宗らの僧俗10万人によって襲撃される天文法華の乱(法難)が起こり、妙蓮寺をはじめとする日蓮聖人門下21本山は、ことごとく焼失、堺に避難しました。

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天文11年(1542)大宮西北小路に復興され、天正15年(1587)には、豊臣秀吉の聚楽第造営に際して現在地に移転しました。ムクゲ

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江戸時代前期には、1km四方の境内に塔頭27院を有する大寺院となりました。しかし天明8年(1788)の大火によって、そのほとんどが焼失、わずかに宝蔵・鐘楼 を残すだけでした。「本坊」

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本坊は本山寺務所となっていて、拝観入口でもあります。書院庭園である「十六羅漢石庭」は桂離宮を造庭した当寺の僧・玉淵坊日首の作で、白河砂に16の石を配置し、北山杉を植え込んだ枯山水庭園です。

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中央の大きな青石は豊臣秀吉の寄進と伝えられる臥牛石で、白砂は宇宙を表し、15石は苦悩する民衆の中から立ち上がる菩薩(羅漢)を表現しているそうです。

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この日は遅かったので拝観しておらず上は別の日の写真です。

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妙蓮寺は、寛政元年(1789)から漸次復興して現在に至り、塔頭8院を残しています。

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塔頭「玉龍院」 家庭料理がいただけるようです。他に、恵光院、本光院、円常院、堅樹院の計5院がこの通りにあります。*宿坊はただ今お寺の都合により受け付けていないそうです。

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本堂の右(東)に松に加えて桜の木が並んでいます。

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「御会式桜(おえしきざくら)」 日蓮聖人入滅の10月13日頃から咲き始め、4月8日のお釈迦様の誕生日の日くらいまで咲く桜です。以下の数枚は春の写真です。

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この桜の花びらを持ち帰ると「恋が成就する」といわれます。ただし、散ったのを拾って下さいということです。10月から咲き始める桜がこれほど満開になるのは珍しいそうです。

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戦時中は国の宗教統制により本門法華宗は日真門流、日陣門流と合流して法華宗が結成されました。戦後の昭和21年(1946)合同三派が解散、昭和27年(1952)本門法華宗が再興され本山となりました。

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「鐘楼」は江戸時代初期の1617年に建立、天明の大火(1788年)でも焼失を免れました。全国的にも珍しい本格的な袴腰型鐘楼で日本建築史上、江戸時代を代表する建築物だそうです(重要文化財に未指定)。

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細部の、腰組の蓑束や頭貫木鼻、軒組拳組や隅木上の持送りなどの絵樣や彫刻等は すべて江戸時代初期の年代的特色をよく現し、全体として和様と禅宗樣の二つの様式が巧みに折衷されているそうです。

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*今年(令和4年)10月12日は宗祖・日蓮聖人没後800年になります。本門法華宗大本山妙蓮寺では午後2時から「宗祖御会式法要」が行われ、僧侶・檀信徒がオンラインで参列可能なリモート参加型法要だそうです。

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オンラインでどなたでも参加でき、メッセージも送信(YouTubeチャット)できるそうです。

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