2017年3月27日 (月)

はねず踊りと今様 随心院

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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3月の最終日曜日は随心院ではねず踊りが行われます。はねず(朱華)とはうす紅色のことで、随心院の紅梅もこの名で呼ばれています。

最初に昨年11月に選考された「ミズ小野小町」の3人の女性が紹介されました。随心院の法会や公式行事で活動して小野小町ゆかりの地をアピールしていくそうです。一番右は女優の風谷南友さんです。

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「はねず踊り」は昔、深草の少将がこの地に住んでいた小野小町に求愛して百夜通いの悲願をこめて通い続けた伝説を題材にした民謡踊りです。踊りは小学4~6年の女の子です。

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かっては、はねずが咲く頃に、里の子が家々を訪ね踊ったことが知られていますが、90年ほど前に途絶えてしまいました。脇に唄や、尺八、箏(こと)、太鼓、鈴・カネの奏者がいます。

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昭和48年の春、はねず踊りの復活を願う人々が、古老の記憶をたどり歌と曲と振りを再生させようとしました。歌詞の不備を補い、作曲家・大橋博氏、舞踏家・森本博子氏の協力を得て復活したのが現在のはねず踊りです。

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「これは楽しや 小野のお寺の踊りでござる」の前歌で始まり、1番は「少将様がござる 深草からでござる」、と深草の少将が百夜通いを始めたことを歌います。主に前列で踊る裾が緑の子供たちが少将、後が小町です。

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「かやの木の実で 九つ十を」と小町もまんざらでもなく、百夜通いを見守ります。今でも随心院の周辺に榧(かや)の古株があるそうです。

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2番で、「雪の夜道をとぼとぼござる 今日でどうやら九十九夜 百夜まだでも まぁおはいりと あけてびっくり よ~ おかわりじゃ」 少将は代理の者に行かせていたのです。

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3番は「小町さまでござる まんだらさんにござる」で始まり、「小野の梅の木 はねずでござる 雪がやんだら もう花つけて」と、少将のことは忘れて何事もなかったようにその年の春の情景を歌います。

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4番も「小町さまでござる まんだらさんにござる」で始まりますが、「小野のはねずは 紅梅でござる」、「わらわ集めて 手拍子そろえ はねず踊りに よ~ おうかれじゃ」と、毎年この時期に里の子たちと楽しく過ごしたと歌っています。

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ともかく可愛い踊りでした。

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この後、今様として白拍子の舞がありました。

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こちらも題材は深草の少将の百夜通いですが、大人の舞になっています。

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といっても、踊っているのは中学1年の女の子で、以前ははねず踊りをしていたそうです。

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この日のはねず踊りと今様は、午前と午後の4回行われました。

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最後は、「京都瓜生山舞子連中」による「大蛇」です。このお神楽は午前と午後の2回だけ行われました。題材は素戔嗚尊の八岐大蛇(やまたのおろち)退治です。桶に木の実を搾り出した毒酒を入れて大蛇を迎えるところから始まります。

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「京都瓜生山舞子連中」は、京都造形芸術大学によるプロジェクトで、島根県の石見神楽の研究や地元との交流を通じて、芸能の習得や地域の活性化を目指しています。高天原を追放された素戔嗚尊は、出雲の国で大蛇に悩まされている老夫婦と娘に出会います。

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やがて大蛇が現れて、組体操のように様々なポーズをして気勢を上げます。

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大蛇たちは酒を飲み始めます。興奮した大蛇どうして小競り合いがあったりして、どう猛さが伝わってきます。

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大蛇は酔いつぶれてしまいました。

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素戔嗚尊は、十束剣(とつかのつるぎ)を抜いて大蛇の首をはねます。

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娘が捕まってしまい、素戔嗚尊もピンチです。

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素戔嗚尊が自分を襲っていた大蛇を仕留めます。

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娘を助け出しますが、最後の一匹は手ごわい相手です。

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ようやく大蛇を全部退治して、素戔嗚尊は助けた娘・稲田姫と結ばれ八重垣神社に新居を設けます。おなじみの神話の大蛇を退治する場面だけでしたが、迫力がありました。

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2017年3月26日 (日)

豊国神社 秀吉没後から神社創建まで

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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智積院を出て、京都国立博物館の西の大和大路通を北に行くと豊国神社があります。「豊国(とよくに)神社」は、豊臣秀吉を祀る神社で、京都十六社朱印めぐりの一つです。

以下では境内を散策しながら、秀吉が亡くなってからこの神社が創建されるまでの歴史をたどります。下は東西の正面通から。

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天下人となった豊臣秀吉は、二度目の朝鮮出兵中の1598年8月18日に伏見城で亡くなりました。当初は軍の士気に関わるとして公表されず、密かに東山三十六峰の一つの阿弥陀ヶ峰(193m)西麓で霊廟(豊国廟)と社殿(豊国社)の建設が始められました。

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この唐門(国宝)は伏見城の城門でしたが、廃城後、二条城、南禅寺・金地院を経て豊国神社に移されました。桃山時代らしい豪華絢爛な門で、かって極彩色の彫刻と金箔で飾られていて、西本願寺、大徳寺の唐門と合わせて国宝三唐門のひとつです。

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翌1599年4月13日秀吉の遺体は伏見城から運ばれ、阿弥陀ヶ峰山頂に葬られました。4月16日仮殿が竣工して方広寺の鎮守社と定められ、4月17日には神号宣命使により、豊国社には「豊国大明神」の神号が宣下され、正一位の神位が授与されました。

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4月18日から正遷宮儀式が行われて徳川家康、毛利輝元も参詣、社司は吉田神道の卜部兼従、社僧は卜部梵舜、祭祀の鑑は妙法院常胤法親王が務めました。このとき、大和四座による申楽が演じられたと伝えられています。(手前が拝殿、奥が拝所・本殿。)

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その後、豊臣秀頼が社領4万石を寄進して境内の整備を進めました。徳川家康も一万石の社領を寄進しました。この時、境内に56基の燈篭が建ち毎夜献灯されました。

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上は千成り瓢箪状の「ひょうたん絵馬」、下は「わらじ絵馬」 どちらも秀吉ゆかりのもので、出世・開運のご利益を祈願します。

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1604年の秀吉7回忌は7日間にわたり盛大に執り行われ、湯立、馬揃え、風流踊り、町衆の踊り、神楽が奏され、勅使の参拝と奉幣儀(天皇からのお供え)が行われました。

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1615年に大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡すると、事態は一変しました。家康の命により豊国廟、豊国社は破却されることになり、墓は方広寺裏に移されました。「豊国大明神」の神号は奪われ、法号「国泰院殿」を用いて仏教により供養されることになりました。

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1616年家康は秀吉の遺宝(甲冑、秋草蒔絵文台など多数)を妙法院・常胤法親王に寄進しました。1619年には新日吉神社が参道をふさぐように移築され、豊国廟は新日吉(いまひえ)神社に遷されました。

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高台院(秀吉の正室ねね)の嘆願によって豊国社の取り壊しは中止されましたが、その修理は禁じられ、間もなく朽ち果てたといわれています。下は大正14年(1925)に開館した宝物館で当時として最新鋭の鉄筋コンクリート製、展示ケースのガラスは「大正硝子」。

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1868年明治天皇の意向により、明治新政府は新日吉神社の神楽殿を仮社殿として豊国社を再建しました。この頃、若王子より鎮守社・槇本稲荷神社が遷座されました。

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「馬塚」 徳川幕府下のもとで秀吉の遺骨が密かにここに移され、供養が続けられたという伝承があります。五輪塔には秀吉の命日と梵字が刻まれており、「馬」は秀吉の名がはばかられたため、近くの「馬町」から付けられたとされます。(宝物館の裏にあります。)

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明治時代の1873年豊国社は別格官幣社となり、1881年社地を現在地(方広寺大仏殿旧地)に遷して豊国神社が創建され、遺宝も妙法院から返却されました。

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豊国神社の再興地として当初は大阪が考えられていましたが、京都への誘致運動が高まり、本社は京都、別社が大阪に祀られることになったそうです。

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上は「蜂須賀桜」 阿波徳島藩主・蜂須賀家に由来する寒桜の一種で、例年は2月中旬から3月上旬に見頃となるそうです。上賀茂神社にもあります。

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「槇本稲荷神社」 上で紹介したように若王子から移された鎮守社で、槇本稲荷大明神を祀り、商売繁盛、家内安全のご利益があるとされます。

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面白い形の絵馬です。

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1927年秀吉の正室・北政所(高台院、ねね)を祀る摂社・貞照神社が創建されました。下の拝殿の奥が本殿、その右に貞照神社があります。秀吉とねねは乱世の中、当時としては珍しい恋愛結婚によって結ばれ、天下を治める家を興し終生を共に過ごしました、

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400年の時を経てもなお、仲睦まじく寄り添って祀られている二人にあやかって、本殿と貞照神社の前で神前結婚式が行われるそうです。

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2017年3月25日 (土)

智積院 名勝庭園と講堂

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智積院の境内を回って、名勝庭園まで来ました。上は唐門。

拝観受付を過ぎると右手に宝物館があり、長谷川等伯らによって描かれた金碧障壁画があり、そのうち、「楓図」、「桜図」、「松と葵の図」、「松に秋草図」等は国宝に指定されています。

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「講堂」 灌頂(かんじょう)道場や各種研修の道場として使用されています。灌頂とは受戒や一定の地位に就くときに頭に香水を注ぐ儀式です。現在の建物は、平成4年(1992)の興教大師850年遠忌記念事業として計画し、平成7年(1995)に完成しました。

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高浜虚子の句碑「ひらひらとつくもをぬひて落花哉」 1930年に虚子が当院を訪れた際に詠んだ句で、「つくも」は太藺(ふとい)のことで、むしろや敷物を編むのに使い、夏に茎先から茶色い花が咲く草だそうです。

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実は名勝庭園は工事中との張り紙があり、どういう状況なのか伺うと池に水がなく枯山水になっているとのことでした。それも面白いかも知れないと思って入りました。講堂の裏に回ります。

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講堂の裏にある大書院(左)に上がります。

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この庭園は、「利休好みの庭」と伝えられ、豊臣秀吉が子・棄丸の菩提を弔うために建立した祥雲禅寺(智積院の前身の寺)の時代に原形が造られました。

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その後、智積院になってからは、第7世運敞(うんしょう)僧正が修復して、東山随一の庭といわれるようになります。築山・泉水庭の先駆をなした貴重な遺産ともいわれています。ツツジの花の咲く5月下旬から6月下旬にかけて、特に華やかな色合いになります。、

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黒い一文字手水鉢 池に浮かぶ舟に見立てているとか。

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庭園の池が縁の下に入り込んでいて、大書院そのものも船であるかのような演出になっています。池の北(左奥)に滝の石組があります。

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中国の盧山をかたどって、斜面に更に高い築山を造り、その中腹や裾に石組みを配して変化を付けています。庭師の方が中腹で作業をしています。

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細長い池は、長江(揚子江)を表しているとされます。あえて底に泥を堆積させて淀みを作り、大河の深い緑の色を出しているとか。底の方だけ水が残っていて、「枯山水」にはなっていませんでした。

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長谷川等伯の障壁画「楓図」の複製があります。息子・久蔵の急死の後に完成し、絵には父の悲哀が表されているともいわれています。火災の際に実物は持ち出され、現在は宝物館に収蔵されています(一部に焼け跡があります)。

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上段の間には等伯の「松に葵図」(複製) 祥雲寺時代に長谷川等伯一派により描かれ、3才で亡くなった鶴松(棄丸)にちなむ松の大木が、葵(徳川家)を覆い隠す意味があるとか。これ以外に、長谷川久蔵の遺作とされる「桜図」(複製)もあります。

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大書院と講堂の間にある内庭。中央に石と波紋を表す白砂、周囲に植栽がある枯山水庭園です。この庭の周囲を回って講堂の西に行きます。

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内庭の一角が入り江のように入り込んでいます。

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大玄関から、総門とその向こうに七条通が見えます。

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大玄関使者の間の「布袋唐子嬉戯の図」 明治大正期の画家・月樵(げっしょう)上人(田村宗立)の南画作品です。

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講堂の集会所に、後藤順一(1948-)の「百雀図」、他に「浄」8面があります。

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先ほど見た内庭を反対側から。

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小さい庭ですが、いろいろな草木が植えられています。

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最後に講堂の外縁を回ります。講堂には平成20年に奉納された田渕俊夫の障壁画60面がありますが、これらは撮影できません。

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かっての講堂は家康より寄贈された祥雲寺の法堂が基になっていましたが、1682年に焼失。その後幕府から与えられた東福門院の旧殿・対屋を基に1684年に再建されましたが、この建物も昭和22年に焼失してしまいました。

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ところで、智積院のあちこちのお堂には五色幕が掲げられています。五色は白、青、黄、赤、黒とされますが、現代の色では青は緑、黒は青(群青)で表されます。仏教寺院では釈迦如来の説いた教えを広く宣べて流布させることを表しているとされています。

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特に真言宗では五智如来の5つの智慧を表す色とされます。例えば、赤色は宝生如来の色で、平等性智(びょうどうしょうち)、即ちすべての現世のものが平等であることを知る智慧を表すのだそうです。

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多くの寺院では、大祭や法要など特別な場合に掲げられることが多いそうです。智積院ではいつも五色幕が掲げられていて、それぞれの建物に印象的な色彩を添えています。

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