2021年9月19日 (日)

新日吉神宮と後白河上皇の信仰

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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後白河上皇は、平安末期から鎌倉時代にかけての長期にわたって強大な権力を持ち、武士の台頭期に何度も幽閉、院政停止に追い込まれながらその都度復活しました。一方で、歴代天皇の中でも並外れて仏教を信奉したことでも知られます。

今日は新日吉(いまひえ)神宮の歴史と社殿をみながら、後白河上皇の信仰の謎に迫ります。参道左にある「山口稲荷社」 素盞鳴尊の子神・宇迦之御霊神(うかのみたまのかみ)を祀り、商売繁盛の信仰があります。

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「新日吉神宮」は、平安時代末の1160年、後白河上皇が御所「法住寺殿」を造営し、その鎮守社として今熊野神社とともに、比叡山東坂本の近江日吉山王七神(日吉大社)を勧請したのが始まりとされます。

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初代検校(けんぎょう)職に妙法院の僧・昌雲が任じられ、新日吉神社は妙法院の管轄になりました。当初の境内は現在地の南の智積院南にあったと考えられています。検校職とは寺社の事務を総括する職です。

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1162年平清盛の寄進により広大な境内に社殿が建立され、二条天皇によって小五月祭(こさつきのまつり)が行われました。陰暦の5月9日に競馬、流鏑馬、闘鶏が行われれ、以来勅祭となりました。(拝殿から本殿)

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勅祭とは天皇が勅使を遣わして奉幣(捧げもの)を行わせる祭祀で、そのような神社を勅祭社といい平安時代末には22社ありました(現在は16社)。(拝殿の南に社務所・授与所があります。)

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後白河上皇は1127年、鳥羽天皇の第四皇子として生まれました。平安時代に院政を敷いて権力を持った白河、鳥羽、後鳥羽上皇は、それぞれ幼くして即位あるいは立太子していますが、後白河上皇は天皇となるべく育てられたわけではありませんでした。

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後白河上皇の生誕時には兄崇徳は既に天皇で、12歳の元服時には腹違いの弟近衛が生まれ、生後3か月で立太子、3歳で崇徳天皇の後を継いで即位しました。(本殿は流造で、江戸時代後期の1835年に改造されました。)

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その後、近衛天皇の死によって29歳で天皇位につくまで、親王として気ままに過ごしたといわれます。北側の御神猿像(狛猿) 御幣を持っています。神猿(まさる)は日吉大社の神の使いです。

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その間、帝王学はむろん和歌や楽器など貴族の一般教養すら学ばなかったと考えられています。南側の狛猿は烏帽子姿で鈴と扇を持っています。これらの狛猿は1935年に安置、夜になると動き回ったので金網で囲んでいるとか。

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本殿には、祭神として後白河法皇(1958年合祀)と皇居守護神の山王七柱が祀られています。山王七柱とは、大山咋命、賀茂玉依姫命、大己貴命、田心比売命、菊理比売命、大山咋命荒魂、賀茂玉依姫荒魂です。

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後白河天皇は在位3年で嫡子二条天皇に譲位、院政を敷いて政治の実権を握ったのは二条天皇の死後、39歳になってからです。本殿左の「飛梅天満宮」菅原道真と飛梅の霊が祀られています。飛梅は道真邸にあった伝説の梅です。

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上皇となるまでの年月、異常なまでに今様(当時の歌謡曲)にのめり込んだことが知られています。詩歌の勅撰集になぞらえて、今様の『梁塵秘抄』二十巻の編者になりました。(本殿の右からもう一体の神猿が見えます。)

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今様は母の待賢門院が好んだといわれ、上皇19歳の母の死の頃から千手観音の信仰をはじめとして仏教にも傾倒していったと考えられています。(本殿向拝柱上部に扇をもった神猿が座っています。)

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「豊国神社」かっては樹下社(このもとのやしろ)といい豊臣秀吉を祀ります。江戸時代に豊国廟社が破却された際に、密かにご神体が当社に遷されたといわれています。「樹下」の名は徳川幕府を憚って秀吉の姓の「木下」から付けられたそうです。

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後白河上皇は新日吉神宮とともに、新熊野神社、三十三間堂を建立、1169年には落飾して法皇となりました。(秀吉の霊は長らく神供所に祀られていましたが、1785年になって社殿が造られ遷されました。)

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その後、武士の台頭、源平の合戦や鎌倉幕府の樹立などの激動期を迎えましたが、四天王寺での百日参篭をはじめ、嵯峨釈迦堂参篭10日間、比叡山・高野山・熊野山等にもその跡を残し、日吉社で数十日参篭した記録も残っています。 「愛宕社・秋葉社」

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本殿の裏にあるご神木の「すだじい」 椎の木の一種で江戸時代以前からここにあり樹齢500年~800年といわれています。2004年度に京都市保存樹に指定されました。

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生涯にわたって34度も熊野詣を行い、晩年は東大寺の大仏再建に力を注ぎました。(鎌倉時代、新日吉神宮には後鳥羽上皇、後嵯峨上皇の御幸があり、競馬、田楽、獅子舞、流鏑馬などが催され、後深草天皇も度々参詣したそうです。)

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熊野や天王寺での参籠では、夜になると近臣らは1人2人と減り最後は法皇一人が読経したそうです。(新日吉神宮は応仁の乱で焼失。江戸時代初め豊臣家滅亡の後豊国廟社が破却、1655年豊国廟社の参道に妙法院宮堯然法親王により再建されました。)

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楼門を入った左に「京都市午砲の台座」 午砲とは時刻をしらせる大砲(空砲)で、正午に撃つことが多かったのでこの名があるそうです。

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明治時代の神仏分離令にしたがい新日吉神宮は妙法院から独立しました。1897年に豊国廟が再建され、新日吉神宮は現在地に再移転しました。

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この後、女坂を上り豊国廟の方に向かいました。

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2021年9月18日 (土)

産寧坂と明保野亭事件

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今日は産寧坂(三年坂)の石段にあるお店を見ながら、幕末に「明保野亭(あけぼのてい)」で起こった事件を紹介します。初めての記事で、写真の多くは未公開です。

先日の記事の興正寺霊山本廟の入口から産寧坂の石段(上の写真)。石段の中央左上に明保野亭の看板が見えます(下の写真)

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1864年、幕府から池田屋事件の残党の捜索を命じられた新選組は、東山の料亭「明保野亭」に長州系浪士が潜伏しているとの情報を得ました。下は陶器専門店「松韻堂」*以下のお店の説明はほとんどありません。

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当時の新選組は池田屋事件で多数の死傷者が出たため、会津藩から応援が派遣されていました。6月10日、武田観柳斎率いる新選組隊士15名と会津藩士5名が探索に出動。「瓢箪屋」

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明保野亭に踏み込むと座敷にいた武士が逃げようとしたため、会津藩士の柴司が追いかけて庭先に追い詰め、背後から手槍で腰を突いて後ろ傷を負わせました。「京の版画と陶器の店 しまだ」

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直後に相手が「自分は浪士ではない、土佐藩士の麻田時太郎である」と名乗り、確認が取れたため解放し、麻田は土佐藩邸に引き取られました。 「おちゃのこさいさい 産寧坂本店」

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会津藩は事情聴取の上、柴の行為は正当な職務遂行であって問題なしと裁決し、念のため土佐藩邸に見舞の使者と医師を送りました。当初は、土佐藩側も最初に名乗らなかった麻田に落ち度があるとして穏便に処理する姿勢でした。

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しかし翌11日に土佐藩が、現場で逃走を図った上、武士にあるまじき後ろ傷を受けたことを「士道不覚悟」として咎め、麻田を切腹させたことで事態が一変しました。(現在もこの地に京料理「明保野亭」が営業していて、この日はここでお食事をしました。)

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当時、土佐藩は山内容堂の方針で公武合体を支持しており、会津藩との関係も良好でした。しかし、内部には土佐勤王党など倒幕を目論む勢力もあり、土佐藩に不公平な処理として反発、新選組・会津藩への報復を主張する者も現れました。

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山内も藩内強硬派の意向を抑えかね、事態は会津と土佐の衝突に発展しかねない状況になってきました。(この日は京弁当を頂きました。*明保野亭は新型コロナによる観光客激減のため、昨年2月から休業中です。)

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会津藩主・松平容保は、事態の処理に苦慮します。京都守護職という立場上、他藩との抗争で自ら京の治安を乱すことはできず、一方で土佐藩の面子を立てて両成敗で事態を収拾するには、柴を処断する以外にありません。

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しかし、いったん正当と裁決したので柴に切腹を命じる名分がありません。藩主の苦悩を聞いた柴は兄とも相談の上、自主的に切腹することで藩の苦境を救う決意をします。

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結局、12日に柴が兄の介錯で切腹し、会津藩と土佐藩の衝突は回避されました。柴の葬儀には会津藩士の他、新選組隊士たちも参列してその死を惜しんだそうです。墓所は金戒光明寺にあります。(向かいの「比沙屋」)

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当時の明保野亭は料亭と旅宿を兼ねており、倒幕の志士たちが密議に利用していました。二階からは京の町が一望でき、敵の動きが把握しやすいという地の利もありました。石段からは坂本龍馬の写真が目印です。

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上隣りの和雑貨「あけぼの亭 井和井」の前にある石碑「維新 明保野亭跡」 かっての明保野亭はこの石標よりやや北東にあったといわれ、下隣りの現在の明保野亭の座敷あたりと思われます。

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阿闍梨餅の「満月」 ここに店を出して10年目の昨年(2020年)6月21日、賃貸借契約期間の満了に伴って閉店しました。

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司馬遼太郎の『竜馬がゆく』では、坂本龍馬が土佐藩家老息女・お田鶴さんと密会を重ねた場所が明保野亭とされています。ただし、お田鶴様は架空の人物で、土佐藩士の娘・平井加尾がモデルといわれています。

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龍馬の幼馴染で、和歌や文筆をたしなみ、坂本家とは家族ぐるみの付き合いがあり、龍馬の初恋の相手とする説もあります。加尾は明治維新後に土佐勤王党の西山志澄を婿に迎え、夫は衆議院議員や警視総監を歴任しました。

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休業中でも明保野亭の入口には坂本龍馬の写真が貼ったままになっていて、いずれ営業を再開する決意を表しているように思えます。

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