2017年2月21日 (火)

雪の大原 寂光院

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

雪の大原で最後に訪れたのが寂光院です。「寂光院」は山号を清香山、寺号を玉泉寺という天台宗の尼寺です。その創建は古く、推古2年(594)に聖徳太子が父・用明天皇の菩提を弔うために建立したと伝えられています。

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初代住持は聖徳太子の御乳人であった玉照姫(たまてるひめ)です。玉照姫は敏達13年(547)に出家して慧善比丘尼と称し、日本で最初の三人の比丘尼の一人といわれています。

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善比丘尼の後、代々高貴な家門の姫君らが住持となり法燈を守り続けてきたとされますが、史料が消散して名前は伝わっていません。

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当初の本尊は聖徳太子作と伝えられる六万体地蔵尊でした。鎌倉時代に作られた旧本尊(重要文化財)は、平成12年(2000)の火事で焼損したため、現在は模刻された地蔵菩薩像が本堂に安置されています。

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桃山時代頃の建築の特色を残しているといわれていた本堂は、平成12年の火災で焼失した後、5年の歳月を経て平成17年6月2日に当時の姿に再建されました。

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歴代住持の記録が失われてしまいましたが、寂光院では他の資料から判明している阿波内侍(あわのないじ、藤原信西の息女)を第2代住持と位置づけているそうです。(本堂の右手にある書院。 この横から渡り廊下を通って本堂にお参りします。)

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本堂横(東)にある「四方正面の池」 池の周囲に回遊できる小径がつけられ、四方のどこから見ても正面となるように、周りに植栽が施されています。

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阿波内侍は建礼門院徳子に仕え、崇徳天皇の寵愛をうけた女官でしたが、出家のあと平安時代末の永万元年(1165)に入寺し、証道比丘尼と称しました。(北側の背後の山腹から水を引き、三段に分かれた小さな滝を設けています。)

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寂光院のある草生の里では柴売りで有名な「大原女」のモデルとされた女性です。

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本堂の右手前にある「雪見灯籠」 鉄製灯籠で豊臣秀頼が本堂を再建した際に伏見城から寄進されたものと伝えられています。

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本堂の左手前の「汀の池 (みぎわのいけ)」のそばに、「千年姫小松」があります。古来より桜と松が寄り添うように立っていて、松を「姫小松」といいました。樹齢数百年になる五葉松の大木でしたが先の火事で焼けてしまいました(右)。左に「汀の桜」があります。

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「諸行無常の鐘楼」 江戸時代に建立された鐘楼には「諸行無常の鐘」と称する梵鐘が懸かっています。鐘身の銘から時の住持は本誉龍雄智法尼で浄土宗僧侶であることが分かったそうです。

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建礼門院(平清盛の息女、高倉天皇の皇后)は、文治元年(1185)に入寺して真如覚比丘尼と称し、後に第3代住持となりました。

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建礼門院は、源平の合戦に敗れ長門国壇ノ浦で滅亡した平家一門と我が子・安徳天皇の菩提を弔いながら、この地に侍女たちとともに閑居して終生を過ごしました。(西門を出て、本堂の北西にある「建礼門院庵室跡」に向かいます。)

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建礼門院の夫・高倉天皇は8歳で即位、父の後白河法皇の院政の下で、1181年に病で亡くなっていました。文治2年(1186)の4月下旬、後白河法皇は忍びの御幸で寂光院の建礼門院の閑居を訪ねました。「大原行幸」とよばれる故事です。

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後白河法皇が見た建礼門院の庵室は、「軒には蔦槿(つたあさがお)這ひかかり、信夫まじりの忘草」「後ろは山、前は野辺」という有様で「来る人まれなる所」だったそうです。「建礼門院庵室跡」の石碑が建っています。

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大原行幸では、法皇が建礼門院の身の上を哀れんだのに対し、建礼門院は自らの人生を仏教の六道になぞられて語った「六堂語り」が知られています。庵室跡の右手奥に建礼門院が使用したという井戸があり、今も水が湧いています。

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火事で焼損した本尊は財団法人美術院において修理を施されて、現在は庵室跡の西の耐火構造の収蔵庫に安置されているそうです。

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「平家物語」によれば、後白河法皇に会った建礼門院は、最初に激しい恨み言を述べたといわれています。その内容は、平家の都落ちの際に法皇が比叡山に脱出したこと、法皇の命令による大宰府攻撃などだったそうです。

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平家物語では、大原行幸で後白河法皇が詠んだ歌が載っています「池水に汀の桜散り敷きて 波の花こそ盛なりけれ」。 

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2017年2月20日 (月)

雪の大原の里を歩く

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日の記事まで三千院とその近くの寺院を巡ってきました。最後に少し離れた寂光院を訪れるのですが、今日はそこまでの道で気になったものや風景を紹介します。参考のために京都大原観光保勝会による「大原散策MAP」を載せておきます。

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上の地図で大原のバス停から三千院の参道に入ると直ぐに志ば久さんのしそ畑があります。その前に「女ひとり」の歌碑、永六輔作詞、いずみたく作曲でデューク・エイセスの歌でおなじみです。

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呂川沿いの参道は「大原女の小径」ともよばれ、漬物屋、お土産屋、茶店などが並んでいます。そのうち一つだけを。「呂川茶屋」、はいからそば、はいからうどんなどの麺類やお団子など甘いものがあります。

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三千院の参道の坂道を上ると十字路になり、左(北)に行くと右は三千院の石垣、左は比較的大きな土産物屋や茶店があります。

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石垣の途中に小塙(こはなわ)徳女(生年不詳)の句碑 「魚山の名 ここと千年 冬木立」 。徳女はこのあたりにあった「四季の茶屋」の女将で、他に「大原や 日もすがらなる 冬がすみ」、「白梅に 大原の夜の かく(客)来る」。

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律川にかかる橋を渡ると左に実光院があり、その前に「大原法華堂」があります。鎌倉時代の仁治2年(1241)に建立され、後鳥羽天皇の遺骨が埋納されました。

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後鳥羽天皇は、安徳天皇が平氏とともに西国にのがれたため祖父の後白河法皇の命で神器なしに4歳で皇位につきました。19歳で譲位した後23年間も院政をしきます。鎌倉幕府の打倒をくわだた承久の乱に敗れて隠岐に流され、延応元年(1239)に亡くなりました。

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隣にある「後鳥羽天皇陵 順徳天皇陵」 順徳天皇は後鳥羽天皇の第3皇子で、父の院政の下で行動を共にし、最後には佐渡に流され仁治3年(1242)に亡くなりました。右にある13重塔が後鳥羽天皇の墓、左の円丘が順徳天皇の墓だそうです。

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もう一度、呂川沿いの参道との交差点に戻ります。石段の下には三千院の標柱(左)と「後鳥羽天皇 順徳天皇 御陵参道」の石柱(右)があります。

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呂川沿いに坂道を上り来迎院の参道入口の手前まで行くと、左に「淨蓮華院(じょうれんげいん)」があります。

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平安時代後期の1109年、声明梵唄の根本道場として建てられた融通念仏の本堂です。宿坊を営んでいて、おつとめ、法話は自由参加、希望により写経有り、夕食には山から取れるわらびやつくしなど季節ものの精進料理が頂けるそうです(要予約)。

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もう一度、石段下の交差点まで戻り、呂川を渡ったところに「魚山園」があります。民芸風の料理旅館で、創業300年(この地に来て90年)の老舗です。こだわりの四季の料理や天然温泉(露天風呂)を楽しめます。

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近くの駐車場から。

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大原念仏寺を出てさらに南に行くと、「同志社大学 農縁館」があります。農家を利用した社会実験拠点だそうです。

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出世稲荷神社を過ぎると、道端に「南無阿弥陀仏」の石碑がありました。どのような由来か分かりませんが、このような石碑は旅人の安全を祈願するものが多いといわれています。

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もう一度、大原のバス停に戻り寂光院の方に向かいます。しばらく高野川に沿って下ります。大原バス停から寂光院までの道も「大原女の小径」と呼ばれています。

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高野川にかかる小さな橋を渡ります。この手前に茶房があります。大原女まつりや大原女時代行列もこの道を通ります。

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橋を渡ると鯖街道(国道367号)があり、大原女の小径は国道を横切って北に続いています。この道は寂光院道とも呼ばれています。

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少し高い山は雪が深いようです。

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「朧の清水」 建礼門院が京都から寂光院に向かう途中、このあたりで日が暮れてしまいました。月光のもとで、清水の水面に写る自分のやつれた姿を見て嘆いたとされます。

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高野川の支流の草生川にかかる橋のたもとに「落合の滝」があります。

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建礼門院の歌、「ころころと 小石流るる谷川の 河鹿なくなる 落合の滝」。

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民宿「大原の里」 大原には温泉が湧きその湯元の一つ。日帰り入浴もでき、自家製味噌鍋が名物です。ライブカメラがあって、インターネットで大原の積雪状況が分かります。

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こちらは「大原山荘」、ここも湯元で大きな温泉旅館です。

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駐車場の片隅に温泉の自動販売機があります。

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手前の建物では足湯カフェや陶芸体験もできるそうです。10分間で焼上がると書いてあります。

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寂光院の塀の向こうに入口の門が見えてきました。右には建礼門院の陵墓があります。

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2017年2月19日 (日)

雪の大原 出世稲荷神社と念仏寺

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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昨日の記事で、三千院の石段下まで来ました。最初に来た大原のバス停からの参道を戻らず、三千院とは逆方向の山沿いの道を行きます。呂川の橋のたもとに出世稲荷神社の標識を見つけて、ちょっと嬉しくなりました。

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*朝10:30頃まで、私の不注意で記事の最後にあるブログランキングがクリックできないようになっていました。応援して下さる方はお手数ですがもう一度お願いします。

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すぐに「大原念仏寺」の山門があります。駒札やホームページがなく、その由緒が長い間分からなかったお寺です。

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一昨年の秋に、「後醍醐天皇の皇子で、後の天台座主・尊雲法親王によって、三千院の塔頭寺院として開山された」ということが分かりました。

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「護良(もりよし)親王」は鎌倉時代の延慶元年(1308)に生まれ、6歳の頃に「尊雲法親王」として梶井門跡(後の三千院に)入りました。17歳の時(1325)には門跡を継承して梶井門主となります。

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この大原念仏寺を建立したのはこの時期だと思われます。この頃の梶井門跡は、市中に寺院を持つ一方、大原にもお堂や(塔頭)寺院がありました。

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さらに、親王は19歳から22歳の間に2度にわたり天台座主となりました。この頃大塔宮と呼ばれたのは、東山岡崎の法勝寺九重塔(大塔)付近に門室を置いたからです。

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親王は武芸を好み、日頃から鍛練を積む珍しい座主であったといいます。元弘元年(1331)に後醍醐天皇が2度目の鎌倉幕府討幕運動「元弘の乱」を起こすと、護良親王は還俗して参戦します。

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鎌倉幕府滅亡後の後醍醐天皇による「建武の新政」では、護良親王は征夷大将軍、兵部卿に任じられます。しかしながら、もう一人の討幕の功労者、足利尊氏とは相容れず、父の後醍醐天皇とも不和となります。

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一説では、父・後醍醐天皇の密命を受けて足利尊氏を討つ計画を立てていたともいわれています。いずれにしても、状況を変えようとして護良親王は自ら令旨を発して兵を集め尊氏討伐に乗り出します。

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しかしながら、尊氏がこの令旨について後醍醐天皇に詰め寄ると、天皇はあずかり知らぬことと突き放しました。結局、護良親王は皇位簒奪(こういさんだつ、資格がないものが皇位を奪うこと)を企てたとして、役職を追われ捕えられてしまいました。

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その後、関東各地で足利軍が北条軍に敗れると、その復権を恐れた足利氏の勢力によって護良親王は殺害されてしまいます、享年28歳でした。

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長年、護良親王が皇室に対する反逆者とみなされてきたことが、大原念仏寺の由緒が広まっていない理由だと考えられます。ただし、現在では護良親王の皇位簒奪は濡れ衣であるというのが定説だそうです。

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念仏寺を後に、さらにこの道を南に行きます。

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この道は三千院に近いのですが、あまり人通りが多くありません。ところどころに駐車場がありますが、多くの観光客は呂川沿いの参道を上ってきます。

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「出世稲荷神社」 かって上京区の千本通にありましたが、数年前にこの地に移転してきました。

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出世稲荷神社は、天正15年(1587)に豊臣秀吉が聚楽第を造営するときに、邸内に日頃信仰していた稲荷神を勧請しました。(最初に斜面の上にある奥の宮に行きます。)

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翌年、後陽成天皇が聚楽第に行幸して稲荷社に参拝したときに、立身出世を遂げた秀吉にちなんで「出世稲荷」の号を授けたとされます。(奥の宮)

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聚楽第が取り壊された後も元の場所に鎮座していましたが、江戸時代前期の寛文3年(1663)に二条城西の千本通沿いに遷座しました。(ここの狛犬はなんとなく愛嬌があります。)

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出世開運の神として大名や公家から庶民にいたるまでの崇敬を受け、江戸時代後期には庶民が寄進した300本を超える鳥居が立ち並んでいたといいます。(笑う狛犬という方もいます。)

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近代には、千本通界隈が映画興行の街として繁栄したため、牧野省三や尾上松之助が鳥居を寄進しました。奥の宮には出世稲荷大神(稲倉魂命)が祀られています。

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近年になると、近くの千本通がオフィス街となり、地域に氏子はいなくなり、多額の寄進をする信者もなくなったため、最近はさい銭やお守りの販売、5台前後の駐車場の収入で運営してきたそうです。(左右の鳥居は、牧野省三・尾上松之助等の奉納)

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当時の社殿は明治以降に建てられ、文化財の指定がありませんでした。(この石柱は、牧野省三・尾上松之助等の寄進で向拝が新築された記念碑で、かっての社殿の前に建っていました。前に台があり遥拝所を兼ねているようです。)

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老朽化した社殿の全面的な修復費用がないので、境内地を売却して移転し、出直しすることを決めたそうです。宮司さんによると「苦渋の決断だが、場所が変わっても出世稲荷神社を残すことが一番と考え」、平成24年7月に大原のこの地に移転しました。(大神宮)

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三石大神(右から福石、寿石、禄石) かっては博徒相場師が信仰しており、現在では勝負の神として強運祈願が行われているそうです。狛犬は侠客・新門辰五郎の奉納。

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実は、出世稲荷神社が移転したこの場所を知ったのは一昨年(平成27年)の秋でした。(一番奥にある「水天宮」)

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その後、気になって大原に来るときはいつも訪れるようにしています。

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かって旅館だった建物を社殿・授与所として利用しています。

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社殿には、清水焼陶工・六代目清水六兵衛作の御神体や堂本印象が奉納した「雲龍図」などを安置していて、自由に拝観できます。

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堂本印象がこの旅館に滞在してここの景色を好んだことが、移転した後で分かったそうです。また、三千院の客殿は聚楽第を取り壊した廃材で作られていて、宮司の山内堅五氏は「この地に導かれたかのような気がしている」と語ったそうです。

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かって程ではないですが、全国から参拝に訪れる方も増え、昨年と今年の節分祭は盛大に行われたそうです。

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