2023年10月 3日 (火)

新麩屋町通・南部を歩く

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

記事の場所があちこちに飛んで恐縮ですが、今日は先日から記事にしてきた仁王門通周辺の道です。前回は、左のサイドバーの「最近の記事」にあるように新柳馬場通で、仁王門通から三条通までを歩きました。

三条通に出てから西に歩いてもなかなか北に向かう通りがありません。三条京阪にある壇王法林寺の近くにきてようやく「新麩屋町通」に出会いました。

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下は仁王門通周辺の略図で、川端三条の交差点から一筋東にあるのが新麩屋町通です。この通りは孫橋通を過ぎて仁王門通まで続いていますが、孫橋通から仁王門通の間の東にまだ訪れていない新富小路通があります。

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この日は、まだ訪れていない全ての通りを歩くために、一筆書きのようにちょっと複雑な経路をたどりました。下は「美容室キミ」、黒板に細かく料金が書いてあって、「肌も心も満たす美のパワー エステ」という貼り紙も見えます。

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向かいは「コンセプト 三条孫橋パーキング」、京都の不動産会社コンセプトが運営する駐車場です。それぞれの名称はその場所を分かりやすく表現していて、ここは三条孫橋だそうです。

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通りの右(東)に焼き鳥屋さんの「つむぎ~紬~」 新鮮な部位を炭火でじっくりと焼いた焼鳥は、ジューシーでやみつきになる美味しさとか。一品料理や創作和食料理もあり、3時間飲み放題つきプランもおススメです。

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その隣は広い駐車場になっていて看板がありません。おそらく左に隣接するお寺(向うに本堂の屋根)が経営する駐車場だと思います。

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こちらは向かいの「心光寺」 山号を法城山晴明堂という浄土宗の寺院です。平安時代の陰陽師・安倍晴明が鴨川の治水祈願に五条橋(現・松原橋)付近に建立した法城寺が始まりで、後に英譽寿林和尚が心光寺として創建しました。

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当初は真言宗でしたが、後に浄土宗に改宗され、江戸時代初めの1607年に現在地に移されたといわれます。本尊として阿弥陀如来立像を祀り、 移転時に造仏された脇侍が安置されています。

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仁王門通周辺の寺は、宝永の大火(1708)の後に移転させられたので、それ以前にこの地にあったことになります。下は先ほどの駐車場の隣にある「超勝(ちょうしょう)寺」、浄土宗西山深草派の寺院で、創建やその後の変遷については不明です。

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江戸時代の『京羽二重』(1685年)には、三条大橋東の誓願寺末寺とあり、少なくとも江戸時代前期にはここにあったといえます。この寺も宝永の大火以前からこの地にあったことになります。

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墓地には陶工の錦光山茂兵衛とその孫・宗兵衛、陸田元義、望月珉峩、京舞井上流の初代と2代、祇園芸妓の中西君尾などの墓があるそうです。

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本堂には阿弥陀如来を祀ります。ちなみに、この辺りの新麩屋町通の東側は超勝寺門前町で、この地域では古くて代表的な寺だったことが伺えます。通りの向かい(西側)は法林寺門前町です。「本堂」

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壇王法林寺の前身が現在地に創建されたのが鎌倉時代、法林寺は江戸時代初めの1611年に創建されました。結局、江戸時代前期にはここは既にお寺がかたまっている地域だったことが分かります。北隣の建物は個人のお宅と思われます。

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「ライフビル」 こちら側にはスポーツジム「Studio vein」と訪問マッサージセンター「アイドゥ」、エステの「サロンカラーズ ボーテ」などが入っています。

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このビルの中の北側には、中華料理屋、「(株)エムケイプロジェクトジャパン」、「烏城(うじょう)ゼミ」、「総合企画 フラットジャパン」などが入っています。テナント募集中で飲食店居抜きだそうです。

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向かい(西)は「BAR BAR SHOPかみまる」、ご主人一人の完全予約制です。その他の情報はFacebookで発信しているそうですが、私は登録していないので見ることができません。「本田ビル」の1階です。

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「井上勝ビル」築1985年、4階建で2階より上は1Kのマンション。1階に「井上」の表札と「種三商店」の看板がかかっています。2009年までも全く同じ写真なので、マンション建設前のお店の看板を残しているのかも知れません。

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孫橋通との交差点角に「孫橋湯」があります。京都で一、二を競う小さな銭湯ですが、親しみやすい雰囲気で、ジェットバス、薬草風呂、サウナ、水風呂などの京都の銭湯の定番がそろい、シャンプーと石鹸も備えてあるそうです。

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孫橋通の東にあった柳湯は廃業したようなので、この地域唯一の銭湯です。この後、新麩屋町通の北部は後回しにして、孫橋通を東に歩いて(まだ訪れていない)新富小路通に向かいました。

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2023年10月 2日 (月)

三条大橋 その歴史と史跡めぐり

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

先日、壇王法林寺を訪れたあと三条大橋周辺を散策しました。ここでは時代によって様々な出来事や事件が起こり、その跡をたどりながら三条大橋の歴史をたどります(写真は必ずしも歴史の順番ではありません)。

京阪電車の三条駅はこの付近の開発に大きく寄与して、単に「京阪三条」といえば三条大橋東詰の地域を指します。

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京阪三条にある「高山彦九郎像」、先日、江戸時代の人物の銅像として紹介しましたが、彼は各地を遊歴して勤皇論を説き、三条に足を運ぶ度に御所の方角に向かって膝をついて拝礼をしたといわれています。

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最初に三条に橋が架けられた時期は室町時代といわれています。天正17年(1589)豊臣秀吉の命により五条大橋と共に増田長盛を奉行として石柱の橋に改修されました。

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江戸時代には五街道のひとつ東海道五十三次の西の起点となりました。そのため幕府直轄の公儀橋に位置付けられました。その後、元禄、明治、大正の各時代に橋の架け替えが行われました。上は歌川広重筆『東海道五十三次 三条大橋』。

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「駅伝の碑」大正6年4月27-29日の3日間にわた「東海道駅伝徒歩競走」が開催されました。三条大橋から東京・上野不忍池の博覧会正面玄関までの508㎞を23区間に分けて競ったのが、駅伝の始まりです。同じ碑が東京にもあるそうです。

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現在の橋本体は昭和25年(1950)4月に完成した鋼単純H型橋で石橋ではありません。橋長73m、幅員16.7mで木製欄干は2度更新されています。現在も工事が行われていますが、説明は後ほど。

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橋の上から上流、向うに見えるのは「御池大橋」、その奥は北山。広い河川敷は、昭和10年(1935)の大洪水の後に治水対策として高水敷が整えられ、緑地化して公園となっています。

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右岸(西)には納涼床が設けられています。納涼床は一級河川の河川敷に施設を設置するので、毎年、京都府土木事務所の許可が必要です。今年はコロナの外出自粛が解除されて昔の風景が戻ってきました。

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西詰北側の広場は「高札場」で、幕府が定めた「法度」や「掟書」を木の板に書いて高く掲げた場所です。東海道の終点で人々のたまり場だったので、目につきやすい場所です。ここでは、幕末に「三条高札事件」が起こりました。

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慶応2年(1866)9月12日、江戸幕府の制札を引き抜こうとした土佐藩士の一団が、警戒にあたっていた新選組と乱闘となり、土佐側の一名が斬殺、一名が捕縛されました。かっての石造りの橋脚が展示されています。

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西詰から2番目の擬宝珠に、池田屋事件で付いたとされる刀傷の跡があります。元治元年(1864)6月、三条小橋の旅籠池田屋に集まった尊攘派を、近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助ら新選組が襲撃し、多数の死傷者と逮捕者を出した事件です。

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幕末史に残るこの騒動によって新選組の名が世間に広まることとなりました。池田屋は三条大橋の西にあり、最近その跡に旅館が建っています。上は南側で、北側にも西から二本目の擬宝珠に刀傷があります。

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西詰の南側に来ました。擬宝珠の刀傷あとの説明板の左に、三条小橋商店街の看板があります。ここにある枝垂れ桜は賑わい創出事業の一環だそうです。右は同商店街の町掟で、上の高札場にならっています。

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こちらも先日紹介した「弥次喜多像」、十返舎一九の東海道中膝栗毛で珍道中をする二人が銅像となっています。この銅像は平成6年(1994)三条小橋商店街が建立したもので、彫刻家の小山由寿の作です。

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その横に地蔵尊を祀る祠があります。かって三条大橋の下には地蔵尊が捨てられていて、鴨川を管理する京都府土木事務所が処理に困って「この物件の所有者は速やかに撤去...」という広告を出して、その表現が批判されたことがありました。

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幸い前にある「瑞泉寺」(下はその裏門)が引き取ることになりました。上の祠の地蔵尊も同様だと思われ、祠の下には「宗教法人阿字大霊宗」の奉納と刻んであります。同法人は昭和12年山科に生まれた高嶋泰象氏が創始しました。

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河川敷に下りる橋、手前はみささぎ川。この橋はかっての「車道」の跡です。かっての橋は牛が引く荷物の通行が許されず、川の中を渡りました。そのため、橋の近くに荷車が通行する道があり、同様の車道の跡が荒神橋にもあります。

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「珉珉 三条大橋店」 昭和28年(1953)大阪千日前に1号店(本店)をオープン、京都には四条、祇園、桃山にも直営店があります。ギョウザで有名ですが、他の中華料理も美味しいと評判で、定食やランチもあります。

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三条大橋の近隣の川岸はかつて「三条河原」と呼ばれ、処刑や処刑後の晒し首が行われました。ここで処刑や晒し首にされた人物には、盗賊の石川五右衛門、1600年の関ヶ原の戦いに敗れた石田三成(六条河原で処刑、三条河原で晒し首)。

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新撰組局長「近藤勇」慶応4年(1868)板橋で処刑されたあと、首が塩漬けにして運ばれ三条河原で晒し首となりました。(石の椅子には、何故かロックバンドのMAN WITH A MISSIONのステッカーが)。

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幕末には祇園の芸妓「たか女」が三条河原で晒し者になりました。彼女は井伊直弼の愛人で京都の反幕府勢力の情報を江戸に送るスパイとなり、1860年の桜田門外の変で直弼が暗殺され、翌年長州と土佐藩士は報復のためにたかを尼姿で晒しました。

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3日後、たかは宝鏡寺の尼僧に助けられ、清凉寺、圓光寺を経て、一乗寺にある金福寺の尼となりました。晩年は金福寺で直弼らの菩提を弔いながら過ごしました。下は山門の脇ににたかが建てた弁天堂。

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三条大橋は様々な歴史の舞台となりましたが、木製の欄干などは傷みが激しく最後の更新後約40年が経過して「三条大橋の補修・修景」が必要となっていました。そこで、財政難の京都市はふるさと納税寄付金を募りました。

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京都市出身だけでなく、学生時代を京都市で過ごしたり、観光で京都を訪れたことのある方などからの寄付が目標額を越えて集まり、現在平成5年3月をめどに工事が行われています。

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最後は鴨川の水位を監視する京都府土木事務所ライブカメラで、クリックをすると現在の三条大橋が見えます(写真は1分毎に更新します)。

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