2020年9月24日 (木)

慧光寺 野本輝久と七面天女

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日の記事の浄福寺の赤門の向かいに慧光寺(えこうじ)の山門があります(上の写真)。山門の横に鐘楼がありますが、梵鐘が見えません。

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「慧光寺」は山号を智照山という日蓮宗の一般寺院で、旧本山は大本山本圀寺(六条門流)です。日蓮宗では昭和16年に本山と末寺の関係を解消して、個々の寺院を祖山、霊跡寺院、由緒寺院、一般寺院に分けています。山門の内側から見た鐘楼。

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戦国時代末期の天文年間(1532-1555)、野本式部少輔輝久(13代足利義輝の家臣)の正室伊佐が夫の菩提を弔うため自ら剃髪して妙法尼と号し、屋敷を寺に改めたのが始まりです。(庫裏)

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寺名は夫の法名・慧光から付けられました。野本輝久は、三好長慶の足利義輝暗殺計画に加わるように誘われましたが断ったため、長慶の家臣・松永久秀によって謀殺されました。

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今出川通大宮東入あたりにあった伊佐の屋敷(後の慧光寺)は「伊佐殿」と呼ばれ、現在でも「元伊佐町」という町名が残っています。

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「玄関」の横に立派な石標があります。

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その後、上長者町烏丸付近(新在家)に移り、弘通所(ぐずうしょ)の名で呼ばれました。弘通とは仏教を布教することです。さらに、天正年間(1573-93)に現在地に移りました。イチョウの大木は上京区民誇りの木となっています。

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本堂は江戸時代中期の享保15年(1730)に火災で焼失し、その後再建されました。本尊として三宝尊を祀っています。日蓮宗では、三宝尊は仏・法・僧の三宝を象徴した本尊を意味し、様々な形があります。

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山門を入った正面にある「七面堂」は七面(しちめん)大明神を祀ります。七面大明神は、七面天女とも呼ばれ日蓮宗において法華経を守護するとされる女神です。この女神について伝承があります。

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日蓮は見延に隠棲して信者たちに説法をしていました。見知らむ美女が何度も話を聞きに来るので、人々はいぶかしがっていました。日蓮が「あなたの本当の姿を皆に見せてあげなさい」というと、女は「お水を少しいただきたく思います」といいます。

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日蓮が水差しの水を一滴たらすと女はたちまち緋色の紅龍の姿となって、「私は七面山に住む大明神です。末法の世に法華経を修め広める人々を末代まで守護します」といい、七面山の方に飛んでいってしましました。

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日蓮が七面大明神を祀ることはできませんでした。日蓮没後16年目、弟子の日朗上人らが初めて未踏の七面山に登りました。

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すると、大きな石の上に七面大明神が姿を現したので、日朗はこの石を影嚮石(ようごうせき)と名付け、その前に祠を結んで七面大明神を祀りました。境内の東に墓地があります。

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後に法華経とともに七面天女の信仰も全国に広がりました。七面天女は吉祥天とも弁財天ともいわれ、眼病平癒のご利益があるとされます。

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慧光寺では明治時代頃まで秘伝の目薬を製造して販売していたそうです。

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2020年9月23日 (水)

浄福寺 その歴史と赤門寺

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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「浄福寺」は山号を恵照山という浄土宗の寺院です。赤門寺とも呼ばれていますが、その理由は後ほど。上と下は一条通に面する南門。

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「浄福寺」の創建は9世紀後半とみられ、延喜7年(907)の官符に「浄福寺は、東院皇后(班子女王)の御廟にして、定額僧四口、聴衆・立義おのおの一人を置く」とあり、班子女王(853~900)の御願として建立されました。鎮守社の「弁財天社」

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班子女王は、仲野親王(792~867)の王女で桓武天皇の孫にあたり、仁明天皇の第3皇子・時康親王の夫人でした。時康親王は有力な皇族の一人でしたが、当初は皇位継承の望みは薄かったといわれています。「引摂(いんじょう)地蔵堂」と墓地(右)

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引摂とは仏や菩薩が衆生を救い、悟りに導びくことだそうです。寛文年間(1661-1673)に引接地蔵は洛陽四十八願所の霊場のひとつになりました。

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陽成天皇が時の権力者・藤原基経によって廃位され、時康親王は894年に即位して光孝天皇となりました。不遇時代の伝承があります。自ら炊事して薪で煤けた部屋を黒戸として保存。下の「本堂」は1731年-1733年の再建で、阿弥陀如来像を祀っています。

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町人から多くの物を借用、即位すると彼らが参内して返却を迫り宮中納殿の物で返却した等です。班子女王も自ら市に出て買い物をしていたので、夫の即位後も一日に一度は「物が買いたい」と市巡りをしたといわれます。

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897年光孝天皇が崩御すると子の宇多天皇が即位、さらに醍醐天皇が即位すると娘の為子内親王が妃となりました。

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しかし、899年為子内親王は産褥のため死去し、班子女王も翌年亡くなりました。下は1734年に再建された「玄関」、後ろに「書院」があります。

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室町時代には知恩院・超誉存牛に帰依した後柏原天皇の勅許によって三昧堂が建立されて浄土宗との兼学となり、1571年に崇林(そうりん)が入寺して浄土宗に改められ、翌年知恩院末寺となりました。

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安土桃山時代の1587年には相国寺門前北に移転、江戸時代初めの1615年に現在地に移りました。「釈迦堂」(1756年再建)には、鎌倉時代作の、京都で唯一残っている清凉寺式釈迦如来立像を安置しています。
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江戸時代前期の1666年に幕府は建物の上屋の梁間を3間(5.9m)内に制限するとの御触書を発し、全国の寺院に適用されました。一方、梁に直角に渡す水平材の長さ(桁行)の規制はありませんでした。

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そこで、浄福寺は本堂の再建時に、南の礼堂と北の仏殿の間を繋いで本堂とし、外観は二つの建物、内部は一続きの奥行き9間の大広間を造りました(上の写真)。下は「千体薬師堂」

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役人は違法ともいえず黙認したとされ、「日本最古の違法(脱法)建築」として建築家や研究者の間では知られていたそうです。千体薬師堂の厨子

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幕末には、西郷隆盛が薩摩藩士700名を伴って上洛、錦小路の京都藩邸や相国寺西の二本松藩邸に宿泊しました。それでも収容できずに、浄福寺の客殿や本堂などが下級武士の宿所となりました。彼らは「浄福寺党」と呼ばれたそうです。東門の方

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明治時代の1887年、境内に浄福寺、建仁寺、本圀寺、妙覚寺による共済学校が開校し、その後現在の「浄福寺幼稚園」(下)に発展しました。教育方針として、「宗教的情操を育てる」とともに、

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「丈夫な身体をつくる」、「自然に親しむ」等を重視しているそうです。貼り紙には「虫を取ってはいけません」とあります。「宝蔵」

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ところで、江戸時代の天明の大火(1788年)では京都中が炎に包まれ、住民の80%が被災したといわれます。寺にも火が迫りましたが、17世紀前半に再建された赤門(東門)の前で止まったといわれます。

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笹屋町通に住む男性が、鞍馬から天狗がこの赤門の上に下りてきて、巨大なうちわで火を防いだのを目撃したという伝承が残っています。赤門を入って右手に「護法堂」があり、

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火災から寺を守ってくれた天狗を「護法大権現」として祀っています。

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奥に「諸天善神」を祀るお堂があり、その中の右側に天狗がそこから飛んできたとされる鞍馬山への遥拝所があります。諸天善神は護法善神とも呼ばれ、仏法および仏教徒を守護する主として天部(天界)の神々のことです。

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上の写真の左の石碑も遥拝所で、穴から鞍馬山を拝むようです。お堂の裏に樹齢300年以上というクロガネモチの大木があり、天狗がこの木にとまって火を団扇であおいだといわれています。

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この地域では奇跡的にこの一角だけが火災を免れ、火災をくい止めた門にちなんで浄福寺は「赤門寺」ともいわれています。

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