2020年5月27日 (水)

詩仙堂のサツキと建仁僧堂

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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今日はサツキが咲く詩仙堂です。現在、新型コロナウイルス感染拡大防止のため拝観休止中で、5月25日(月)~27日(水)に予定していた「丈山翁遺宝展」も中止となっています。

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「詩仙堂」 山号を六六山、正式名称を丈山寺という曹洞宗の寺院で、永平寺の直末寺です。上の「小有洞」という山門には石川丈山筆の扁額が掲げられています。

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江戸時代の文人・石川丈山が、寛永18年(1641)隠棲のため建立した山荘で、山際のでこぼこした土地に建つので凹凸窠 (おうとつか)とも呼ばれます。

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3階建ての本堂の1階から前庭を眺めます。この日は開門に合わせて行ったので、誰もいない風景を撮ることが出来ました。

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丈山は安土・桃山時代の1583年三河・徳川家の家臣の家に生まれました。武芸に優れ、関ヶ原の戦い(1600年)で戦功をあげ家康の信望を得ました。

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ところが、旗本として出陣した大坂夏の陣(1615年)では、禁じられていた先陣争いをして家康の機嫌をそこね、浪人となってしまいました。

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叔父の本多正信は何とかとりなそうとしましたが、丈山は髪を切って妙心寺に入って隠退しました。手前に蹲(つくばい)があります。

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そして、儒学者・藤原惺窩(せいか)門下となり儒学を学びました。この頃、文武に優れるとの評判になり、各所から仕官の誘いがありましたが、乗り気ではありませんでした。

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しかしながら病気がちの母を養うために、41歳のとき和歌山の浅野家に仕官し、その後浅野家の転封に従って安芸(広島県)に赴き、そこで13年ほど過ごしました。 サツキに埋まった石塔。

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丈山53歳の時に母が亡くなり、引退を願い出ますが藩主はなかなか許しません。ついに病気療養のため有馬温泉に行くと称して、広島を去ってしまいました。

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浅野侯は、丈山は有馬に入湯し、ついで京都に帰ったもので、正式に辞職したものではないとして、4年間の俸禄四千石を給付したそうです。

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寛永13年(1636)相国寺の近くに睡竹堂を建てて隠棲し始めました。その後寛永18年(1641)に、洛北の一乗寺村に適地を見つけ、凹凸窠を建て終(ついえ)の棲家と定めました。 書院からお庭に出ます。

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丈山は、洛東の隠者・木下長嘯子の歌仙堂をまねて小堂を建て、中国歴代の詩人を36人選んで三十六詩仙とし、狩野探幽に肖像を描かせて堂内2階の四方の小壁に9面ずつ掲げました。

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いつしか、凹凸窠は詩仙堂の名で知られるようになりました。「鹿(しし)おどし」農民が猪や雀をおどすために考えたもので、この地が山麓にあるので、鹿や猪が庭を荒らすのを防ぐために設けられたそうです。

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丈山は、作庭にも長じたといわれ、桂離宮や東本願寺枳殻邸(渉成園)の庭園は丈山の手が入っていると伝えられています。清浄を好んで、邸内に一葉の塵も落ちていないほどに、隅々まで掃き清めるのを日課としたそうです。それはいまも守られているとか。

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丈山の庵には、林羅山、尾形乾山、霊元天皇などが訪れ、角倉素庵や小堀遠州とも親交があったといいます。中でも親しく交わったのが、松花堂昭乗と佐川田喜六で、一休寺(酬恩庵)の庭園はこの3人の合作によると伝ええられています。

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丈山は清貧を旨として学問に没頭し、この庵で30数年を過ごして寛文12年(1672年)に90歳で亡くなりました。生涯独身でした。

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後水尾上皇からお召しがあったとき、「渡らじな瀬見の小川の浅くとも老の波たつ影は恥かし」と詠んで断った話はよく知られています。

 

今日の「気になっていたもの」は、建仁寺の境内の東南にある霊洞院(れいとういん)です。建仁寺26世 高山慈照の入寂後に、その塔院として建立されました。

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現在の霊洞院の堂舎は江戸時代末期の嘉永6年(1853年)に建てられたもので、建仁寺の僧堂(建仁僧堂)となっています。(境内の東南に門柱が立っています。)

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方丈前の庭園(回遊式庭園)は江戸時代中期の享保年間(1716-1735)の作とされ、昭和49年(1974)国の名勝に指定されました。「都林泉名勝図会」(1799年刊行)の図とほとんど変わっていないそうです。

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昭和を代表する臨済宗の禅僧・竹田益州(えきじゅう、1896-1989)が師家(しげ)となったことでも知られます。師家は禅堂を主宰し、修行僧に印可を与える資格を有する禅僧です。山門は開いていることが少ない気がします。

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竹田益州は大分県上真玉村の土田家の三男として生まれ、6歳のとき他家の養子となりますが、主人が日露戦争出征のため同家を出ました。明治39年(1906)大津市堅田の大徳寺派祥瑞寺に入寺、翌年11歳で得度、厳しい禅寺生活に入ります。

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地元堅田の尋常高等小学校を卒業後、大徳寺山内にあった京都紫野連合般若林に入学、4年間の寮生活を送りました。大正4年(1915)建仁僧堂に掛搭(かとう、修行)し竹田黙雷(臨済宗建仁寺派管長)に厳しく鍛錬されました。

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大正7年(1918)に堅田祥瑞寺の住職となりますが、翌年4月自分の掃除の火の不始末により祥瑞寺が全焼してしまいました。懺悔の念から同年秋に建仁僧堂に再び掛搭しました。

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しかし僧堂での生活は殊の外厳しく、当時の師家・黙雷老師から徹底的に嫌われて身辺に近寄せてもらえなかったそうです。老師とは僧堂師家の尊称です。(最後に詩仙堂に戻りました。)

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その黙雷老師が末期の病床に呼んで、「よう辛抱した、亡き後は後任古渡庵老師をよく補佐してもらいたい」とおっしゃり、流れ落ちる涙がとまらなかったそうです。

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昭和8年(1933)に念願の堅田祥瑞寺の再建を果たし、その後、禅門高等学院教授、大徳寺大仙院住職、大徳寺執事長を歴任、昭和20年(1945)建仁僧堂師家、昭和29年臨済宗建仁寺派管長となりました。

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2020年5月26日 (火)

妙心寺派 退蔵院と多福院

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

緊急事態宣言が全国で解除され、京都の寺社も拝観を再開したところがでています。あらためて最新の情報をお知らせしますが、今日はいままでのように、過去の季節の写真と気になったものを紹介します。

退蔵院は妙心寺山内寺院の中でも屈指の古刹で、国宝の瓢鮎図を所蔵しています。

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「退蔵院」は室町時代の応永11年(1404)に越前(福井県)の豪族・波多野重通が、妙心寺3世の無因(むいん)禅師を開山として創建したのが始まりです。(右に拝観受付があり、順路は正面の庫裏の左に回ります。)

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当初は、波多野家の下屋敷(千本松原)に建てられ、その後妙心寺境内へ移転。応仁の乱で焼失しましたが、1597年に亀年禅師によって再建され、現在に至ります。(猫ちゃんの横に、小さな布袋さん)

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「大玄関」(重文)江戸初期の富豪・比喜多宗味居士(ひきたそうみこじ)の寄進で、高貴な方の出入り以外は使用されませんでした。 唐破風が直線になっていて、袴の腰のような形から「袴腰(はかまごし)造り」と呼ばれます。

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「方丈」(重文)は、慶長年間(1596-1615)の建築で、織田信長が足利義昭のために建立した将軍邸を移築したともいわれています。  

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左は「瓢鮎図(ひょうねんず)」(国宝、複製)。瓢箪でなまずを押えるという禅の公案(こうあん)を、相国寺の僧・如拙(じょせつ)が足利将軍のために描いたものです。如拙は中国水墨画の新様式を学び、日本の水墨画の先駆者となりました。

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方丈の西にある「鞘の間」から「元信の庭」が見えます。室町時代の絵師・狩野元信(もとのぶ、1476-1559)の作庭の枯山水とされ、国の史跡・名勝に指定されています。

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枯滝・蓬莱山・亀島と石橋など多数の庭石が豪快に組まれ、全体としてみごとに絵画的な調和を保っている名園とされています。

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つづいて・・・余香苑に入ります。 門の上にも「瓢箪となまずが2匹」、正面に大きな紅枝垂桜があり、左右に枯山水の「陰陽の庭」があります。

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左は、白川砂を用いて明るい「陽」を表現、砂紋の美しい石庭です。

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右の庭は、黒っぽい安曇川の砂を用いて「陰」を表現しています。天気が良過ぎて、おまけに強烈に暑い日でした。

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「余香苑」は造園家の中根金作が昭和36年(1961)に作庭した池泉回遊式庭園です。散策路は枝垂桜で左右に別れ、左を行くと「羅漢石」があります。青もみじの下を進みます。

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広々したお庭「余香苑」。中根金作氏作庭で昭和の名庭です。

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「サツキの花で一面ピンク」とはなりませんが、今が見頃だとか。

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庭の西端の藤棚が陽を遮り、憩いのひとときを与えてくれました。

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藤棚の下から

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花菖蒲、蓮、睡蓮・・・と、これからも花の季節が続きます。

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暑くても水を見ると一息つきますね。

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今日の「気になったもの」は、龍安寺塔頭の多福院です。龍安寺の参道の途中、南門のそばにあります。

龍安寺も臨済宗妙心寺派で、門の前に「大雲山龍安寺」という大きな石標が立っています。こちらの写真は初秋に龍安寺を訪れたときのものです。

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「多福院」 室町時代中期(戦国時代)の文明14年(1482 )鉄船宗熈(てっせんそうき)によって創建された妙心寺の塔頭です。鉄船は妙心寺四派の開山と同参(同じ師のもとで修行)ですが、法嗣を出さず諸国行脚したといわれます。

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晩年の1482年、龍安寺の中興の祖・特芳禅傑が鉄船を惜しみ、多福院を創建して住させました。龍安寺石庭の作庭者ともいわれています。(拝観はしていません。)

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北隣に地蔵尊が祀られています。「衣笠の麓に座す地蔵尊 病み患いを救わせ給へ」という奉納歌の額がかかっていました。

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退蔵院に戻り、藤棚の下で・・・時を過ごしました。

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