2021年9月20日 (月)

平岡八幡宮 花天上と京都最古の八幡宮

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

先日の記事の道風神社を後に、府道31号を杉坂口まで行き、国道162号(周山街道)を京都方面に向かいました。過去の記事に写真と説明を追加、再編集してお届けします。

「中川トンネル」 かっては狭い道幅の国道が清滝川に沿う中川地区を通っていましたが、2000年にう回路としてこのトンネルが開通しました。

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トンネルを抜けると梅ヶ畑地区となり、しばらくすると高雄三山(高山寺、西明寺、神護寺)を通ります。

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さらに京都市内に近づき、国道沿いに民家が立ち並ぶようになるあたりに平岡八幡宮の鳥居があります。ここもまだ梅ヶ畑地区です。

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「平岡八幡宮」 平安時代初めの大同4年(809)神護寺の鎮守として空海が大分県の宇佐八幡宮から勧請したのが起源です。山城国最古の八幡宮で、当初は神護寺の境内にありました。表参道は、椿ともみじの参道として知られています。

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梅ヶ畑八幡宮ともよばれ梅ヶ畑一帯の産土社でした。舞殿の前の広場に土俵があり、毎年10月の祭礼で「三役相撲」が 行われます。子供と大人が取り組み、神の加護を受けて必ず子供が勝つという古くから伝わる神事です。

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平安時代の末期に一時廃絶しましたが、鎌倉時代初めの1190年神護寺の文覚上人により再興されました。そして、鎌倉時代の1222年に文覚の高弟・浄覚上人により現在地に遷されました。(手水舎)

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「地主(じぬし)社」 平岡八幡宮が創建する以前から梅ヶ畑に祀られていて、祭神は大地主大神(おおとこぬしのおおかみ)です。古くから最初にこの社に詣でる習わしがあるそうです。

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「若宮社」 巫女をつうじて怨霊を封じるために誉田別命(ほむたわけのみこと)を祀り、鎌倉時代には社の前に鳥居と参道があったそうです。

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室町時代の1407年に社殿が焼失し、将軍・足利義満により再建されました。足利氏は八幡神を信奉する清和源氏の末裔でした。さらに、住んでいた北山第に近かったので、尊氏、義満、義持らは当社にたびたび参詣したといいます。

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江戸時代後期の1826年仁孝天皇の命により現在の社殿が再建されました。明治元年(1868)、政府の神仏分離令後によって神護寺から独立しました。「舞殿」

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祭神として応神天皇(誉田別命、ほむたわけのみこと)を祀り、勝運、財運、出世、音楽、芸能などの信仰があります。神殿は歌舞伎「靭猿(うつぼざる)」の舞台背景にもなり、そこでは本殿左右に紅白梅が置かれます。

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神殿内陣の天井に、江戸時代末期の1827年、画工・綾戸鐘次郎藤原之信により描かれた極彩色の花や植物44面が飾られ、「花の天井」とよばれています。クリックするとかなり大きな写真が見れます。

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梅ヶ畑一帯は、かつて薬の産地で多様な草花が植えられていたので、それらの植物が描かれたといいます。4X11の格子に配列され、上が左、下が右につながっています。花の天井は、毎年春、秋の2期公開されます。

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蟇股には平岡八幡弁財天(琴弾き弁財天)や軒の飾りつけには豊臣秀吉が寄進した証として瓢箪の紋の透かしが入っています(写真はありません)。下は花の天上の花の名前で、一つだけ?がついています。

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また、内陣の鴨居に紅白の熨斗(のし)袋にさした紅白梅、紅白椿の絵があります。梅ヶ畑はその名の由来となった梅の産地でもあり、境内に多数自生している椿とともに描かれたと思われます。(以上は神殿前に掲示してある写真です。)

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願い事をすると白玉椿が一夜で花開き願い事が成就したという「白玉椿伝説」が伝えられています。絵馬には椿が描かれていますが、つぼみと花が咲いているものがあります。

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「貴布弥社」 水、雨などの自然を司る神として、罔象女神(みずはのめのかみ)が平岡八幡宮創建当時から祀られています。

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「山の神石」 江戸時代の『都名所図会』には、神殿傍らに大石があって、里人は山神として怖れたといいます。さざれ石で、獅子にも見えるといいます。

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下は、抜弓の名手といわれた源為朝が射抜いたという石で、後に俳人・鈴鹿野風呂の句碑にもなっています。「眞開らきの龍胆(りんどう)玉の如き晴れ」

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「平岡八幡やぶ椿」 樹齢300年あるいは500年ともいわれ、通常のヤブ椿がラッパ状なのに対し、こちらのヤブ椿は三角に花を開く珍しい種類だそうです。

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「武内社」 武内宿禰(たけしうちのすくね)を祀ります。武内宿禰は、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代の天皇に仕え、古代大和朝廷を支えた忠臣です。

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毎年10月上旬の日曜日には例祭が行われ、氏子地域の安全や繁栄・五穀豊穣を願って神輿が巡行します。また、三役相撲や鉾さしが行われます。2009年の平岡八幡宮創建1200年では、神輿や剣鉾が神護寺の山門内に入り神事が行われました。

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平岡八幡宮の氏子総代や関係者に加えて神護寺と西明寺の住職も出席しました。明治の神仏分離令で別れた寺院と神社が、140年を経てようやく交流することになりました。(西明寺は神護寺の別院として創建されました。)

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平岡八幡宮は映画やTVドラマのロケ地になっています。参道から舞殿は、鬼平犯科帳の「おしま金三郎」や「おしゃべり源八」、舞殿は市村泰一監督の「燃えよ剣」、上と下の写真の玉垣周囲と西参道は水戸黄門「帰ってきた風の盆」に登場します。

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2021年9月19日 (日)

新日吉神宮と後白河上皇の信仰

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※写真は全てクリックで拡大します。

後白河上皇は、平安末期から鎌倉時代にかけての長期にわたって強大な権力を持ち、武士の台頭期に何度も幽閉、院政停止に追い込まれながらその都度復活しました。一方で、歴代天皇の中でも並外れて仏教を信奉したことでも知られます。

今日は新日吉(いまひえ)神宮の歴史と社殿をみながら、後白河上皇の信仰の謎に迫ります。参道左にある「山口稲荷社」 素盞鳴尊の子神・宇迦之御霊神(うかのみたまのかみ)を祀り、商売繁盛の信仰があります。

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「新日吉神宮」は、平安時代末の1160年、後白河上皇が御所「法住寺殿」を造営し、その鎮守社として今熊野神社とともに、比叡山東坂本の近江日吉山王七神(日吉大社)を勧請したのが始まりとされます。

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初代検校(けんぎょう)職に妙法院の僧・昌雲が任じられ、新日吉神社は妙法院の管轄になりました。当初の境内は現在地の南の智積院南にあったと考えられています。検校職とは寺社の事務を総括する職です。

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1162年平清盛の寄進により広大な境内に社殿が建立され、二条天皇によって小五月祭(こさつきのまつり)が行われました。陰暦の5月9日に競馬、流鏑馬、闘鶏が行われれ、以来勅祭となりました。(拝殿から本殿)

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勅祭とは天皇が勅使を遣わして奉幣(捧げもの)を行わせる祭祀で、そのような神社を勅祭社といい平安時代末には22社ありました(現在は16社)。(拝殿の南に社務所・授与所があります。)

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後白河上皇は1127年、鳥羽天皇の第四皇子として生まれました。平安時代に院政を敷いて権力を持った白河、鳥羽、後鳥羽上皇は、それぞれ幼くして即位あるいは立太子していますが、後白河上皇は天皇となるべく育てられたわけではありませんでした。

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後白河上皇の生誕時には兄崇徳は既に天皇で、12歳の元服時には腹違いの弟近衛が生まれ、生後3か月で立太子、3歳で崇徳天皇の後を継いで即位しました。(本殿は流造で、江戸時代後期の1835年に改造されました。)

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その後、近衛天皇の死によって29歳で天皇位につくまで、親王として気ままに過ごしたといわれます。北側の御神猿像(狛猿) 御幣を持っています。神猿(まさる)は日吉大社の神の使いです。

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その間、帝王学はむろん和歌や楽器など貴族の一般教養すら学ばなかったと考えられています。南側の狛猿は烏帽子姿で鈴と扇を持っています。これらの狛猿は1935年に安置、夜になると動き回ったので金網で囲んでいるとか。

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本殿には、祭神として後白河法皇(1958年合祀)と皇居守護神の山王七柱が祀られています。山王七柱とは、大山咋命、賀茂玉依姫命、大己貴命、田心比売命、菊理比売命、大山咋命荒魂、賀茂玉依姫荒魂です。

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後白河天皇は在位3年で嫡子二条天皇に譲位、院政を敷いて政治の実権を握ったのは二条天皇の死後、39歳になってからです。本殿左の「飛梅天満宮」菅原道真と飛梅の霊が祀られています。飛梅は道真邸にあった伝説の梅です。

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上皇となるまでの年月、異常なまでに今様(当時の歌謡曲)にのめり込んだことが知られています。詩歌の勅撰集になぞらえて、今様の『梁塵秘抄』二十巻の編者になりました。(本殿の右からもう一体の神猿が見えます。)

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今様は母の待賢門院が好んだといわれ、上皇19歳の母の死の頃から千手観音の信仰をはじめとして仏教にも傾倒していったと考えられています。(本殿向拝柱上部に扇をもった神猿が座っています。)

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「豊国神社」かっては樹下社(このもとのやしろ)といい豊臣秀吉を祀ります。江戸時代に豊国廟社が破却された際に、密かにご神体が当社に遷されたといわれています。「樹下」の名は徳川幕府を憚って秀吉の姓の「木下」から付けられたそうです。

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後白河上皇は新日吉神宮とともに、新熊野神社、三十三間堂を建立、1169年には落飾して法皇となりました。(秀吉の霊は長らく神供所に祀られていましたが、1785年になって社殿が造られ遷されました。)

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その後、武士の台頭、源平の合戦や鎌倉幕府の樹立などの激動期を迎えましたが、四天王寺での百日参篭をはじめ、嵯峨釈迦堂参篭10日間、比叡山・高野山・熊野山等にもその跡を残し、日吉社で数十日参篭した記録も残っています。 「愛宕社・秋葉社」

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本殿の裏にあるご神木の「すだじい」 椎の木の一種で江戸時代以前からここにあり樹齢500年~800年といわれています。2004年度に京都市保存樹に指定されました。

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生涯にわたって34度も熊野詣を行い、晩年は東大寺の大仏再建に力を注ぎました。(鎌倉時代、新日吉神宮には後鳥羽上皇、後嵯峨上皇の御幸があり、競馬、田楽、獅子舞、流鏑馬などが催され、後深草天皇も度々参詣したそうです。)

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熊野や天王寺での参籠では、夜になると近臣らは1人2人と減り最後は法皇一人が読経したそうです。(新日吉神宮は応仁の乱で焼失。江戸時代初め豊臣家滅亡の後豊国廟社が破却、1655年豊国廟社の参道に妙法院宮堯然法親王により再建されました。)

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楼門を入った左に「京都市午砲の台座」 午砲とは時刻をしらせる大砲(空砲)で、正午に撃つことが多かったのでこの名があるそうです。

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明治時代の神仏分離令にしたがい新日吉神宮は妙法院から独立しました。1897年に豊国廟が再建され、新日吉神宮は現在地に再移転しました。

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この後、女坂を上り豊国廟の方に向かいました。

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