2022年9月25日 (日)

勝念寺 萩振る舞いと身代わり蛙

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

Jni_3110a
※写真は全てクリックで拡大します。

今日は「カワセミ」さんに教えていただいた伏見丹波橋の勝念寺です。今の時期、さほど大きくない境内いっぱいに萩が咲き乱れます。以下では過去の記事に今年の情報を加えて再編集しました。

境内の萩は、現在のご住職が最近植えたもので、十数種、約百株の萩が植えられています。道行く人に自由に萩を見て頂くため「萩振る舞い」として今年は9月11日~28日の期間、門を開放しています。

Jni_3117a

「勝念寺」は正式名称を安養山往生院勝念寺と号する浄土宗知恩院の末寺で、通称の「かましきさん」の方が知られています。山門の横に「天明義民柴屋伊兵衛墓所」の石標があります。

Jni_2807a

天正10年(1582)明智光秀軍の襲撃によって、織田信長は本能寺で、嫡男の信忠は御池御所(烏丸二条)で自刃しました。(山門の脇にはお地蔵様がいます。)

Jni_2799a

正親町天皇の勅命により、信長・信忠父子の菩提を弔うため、聖誉貞安(ていあん)上人に信忠自刃の地である御池御所を賜りました。天正15年(1587)貞安上人は信忠の法名にちなんで大雲院という寺院を開創しました。

Jni_3115a

同時に、天下人となった豊臣秀吉の城下町、伏見丹波橋のこの地に、布教の拠点とするべく一寺を開創したのが勝念寺です。文禄4年(1595)現在の地蔵堂が建てられました。

Jni_2981a

「身代釜敷地蔵尊」 地獄で釜茹での責めに苦しんでいる人の身代りとなって、自ら煮えたぎった釜の中に入り、地獄とこの世で苦しむ人の苦を取り除き、幸せへと導いてくれる地蔵尊です。織田信長から貞安に賜ったといわれています。

Jni_2830a

「身代わり釜」があります。「身代り蛙」は、身代釜敷地蔵尊の「身代わり」の言葉から、みがわり→かわる→かえる、の語呂合わによって生まれたそうです(勝念寺のHPから)。苦しみを取り除き幸せへの願いを込めて境内のあちこちに置かれています。

Jni_2832a

江戸時代の安永8年(1779)火災により本堂、庫裏および創建当初の本尊・阿弥陀三尊坐像、文書などが焼失しましたが、山門と地蔵堂は難を逃れました。安永8年/天明元年(1781)には本堂と庫裏が再建されました。

Jni_2854a

現在の本堂は昭和51年(1976)の再建で、明治14年(1881)に造られた本尊・阿弥陀如来像が祀られています。

Jni_2858a

本堂の前には「子安延命地蔵菩薩」も祀られています。新たに生まれた子供の安全を守り、その寿命を延ばすといわれています。

Jni_2867a

今年は9月29日から花が残っていても萩を刈り取るそうです。これはご住職の都合で、10月の諸行事の準備のため、外の仕事を早めにして後に室内の仕事にかかりたいためだそうです。

Jni_2969a

JR東海の「そうだ 京都、行こう」のHPでスタッフブログ「いま訪ねたい! 京都・見頃の花名所(2022/9/22更新)」に勝念寺の萩が紹介されました。

Jni_2949a

織田信長から貞安上人に賜った像がもう二体あります。閻魔法王自作霊像(左)と金銅多羅観音菩薩(右)です。どちらも通常は非公開ですが、10月8日(土)、9日(日)の10時~15時の間、寺宝として公開されます。写真が地蔵堂の前に貼ってありました。

Jni_3028a

平清盛の頃、摂津の国の清澄寺の慈心坊尊恵が閻魔法王より自作の閻魔像を賜り、翌日蘇生しこの像を手の中に握っていました。その後、伊勢大神宮の参詣の後、伊賀上野に立寄り十王堂にこの閻魔像を安置し勤行して、再び往生しました。

Jni_2896a

数百年後、織田信長が伊賀上野に鷹狩に来た時この像を見て、城に持ち帰り信仰しました。その後信長より賜った貞安上人が当寺に安置したそうです。閻魔の真の心を伝えるため閻魔自身が松材で慈悲の相に彫った「閻魔法王自作霊像」といわれています。

Jni_2904a

「多羅観音菩薩(金銅天竺仏坐像)」の多羅とは梵語で瞳のことで、苦しむ衆生のあまりの多さに観音菩薩が瞳から流した涙から多羅菩薩が生まれました。女性の姿をして、ふくよかな胸を示し、苦しむ衆生を直ちに救済に行けるように右足を前に出しています。

Jni_2924a

多羅仏母、救度仏母ともいわれ、母親のように親しみやすく、小さな悩みごとも聞いてくれる仏様です。戦国時代に異国よりもたらされた大変珍しい観音様だそうです。

Jni_2932a

ところで、開山の貞安上人(1539-1615)は、後北条氏一族の子として相模国に生まれ、4歳で母、5歳で父と死別し、7歳で小田原大蓮寺・堯誉上人に師事、天正3年(1575)能登七尾西光寺にいるとき上杉謙信の穴水城攻より逃れ、翌年近江・妙金剛寺へ移りました。

Jni_2894a

その後帰依した信長の命で、安土宗論に臨んで法華宗の3名を論破して信長の信任が深まったといわれます。石川五右衛門や三条河原で処刑された豊臣秀次の子女らに引導を授けたことでも知られます。

Jni_2887a

本堂の裏の墓地に貞安上人の供養塔(右)があります。左は歴代住持の供養塔。

Jni_3055a

山門の横に石標があった「柴屋伊兵衛」(?-1785)は江戸時代の薪炭商です。天明5年(1785)当時の伏見奉行・小堀政方(まさかた)の悪政を、文珠(もんじゅ)久助ら7人が幕府に直訴、伏見奉行は罷免され伏見町民の苦難が救われました。

Jni_3077a

しかし禁を犯した7名は捕らえられ相次いで獄死しました。明治20年(1887)彼らを「伏見義民」と称えた顕彰碑(勝海舟撰、三条実美書)が御香宮神社に建てられました。大正5年(1916)勝念寺で伊兵衛の名が刻まれた墓が発見されました。

Jni_3080a

伊兵衛は勝念寺の檀家で、事件の時には既に高齢でした。直訴にあたり死を覚悟していたとみられ、永代回向料として藪地を当寺に寄進し、両親と先祖の墓を当寺に残しました。当時の直訴は大罪で、本人は罪人として他所に葬られました。

Jni_3090a

最近ではテレビでコロナについてあまり放送されなくなりましたが、ご住職は9月24日に30回目の新型コロナウイルス感染症終息の祈願法要を勤めたそうです。

Jni_2815a

お帰りの前に、ブログランキングの応援のクリック↓をよろしくお願いします。

★こちらを是非よろしく→   ブログ村→にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
-------------------------------------------------------------------

Jni_2991a

| | コメント (0)

2022年9月24日 (土)

常林寺 萩の花と謎の帯刀僧形像

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

Jny_6930a
※写真は全てクリックで拡大します。

「常林寺」は正式には光明山摂取院常林寺、「萩の寺」としても有名で、仏像を始めとする貴重な寺宝を所有しています。昨年の外出自宿中にも記事にしましたが、謎とされている帯刀僧形像について新たな情報を追加しました。

昨年の9月の特別公開は新型コロナのために中止となり、今年の特別公開の情報はありません。ただし、萩の咲く境内は参拝自由です。

Jny_6506a

常林寺は安土桃山時代の天正元年(1573)、魯道上人を開山として寺町通荒神口付近に創建された浄土宗寺院です。「本堂」

Jny_6403a

寛文の大火(1671年)で類焼して現在地へ移転、元禄11年(1698)7世英譽上人によって現本堂が建立されました。

Jny_6389a

常林寺は知恩院の有力末寺で、総本山が末寺へ発布した通達には、役番として常林寺の書判がみられるそうです。(参道横には詩碑や蹲踞などがありますが、萩に隠れて見えません。)

Jny_6441a

この寺の萩は、宮城野萩・垂れ萩という種類で、花が咲き終った10月から11月に地表近くで刈り取ると、次の年の5月に新しい芽が出てくるのだそうです。

Jny_6396a

2018年の京の冬の旅で初めて公開され、それに先立って行われた寺宝の調査や建物の修理によって様々な事実が判明しました。本堂横に庫裏の玄関があります。

Jny_6394a

本堂には本尊の阿弥陀三尊像を祀っています。中央が阿弥陀如来、左に知恵の化身の勢至菩薩、右に慈悲の化身の観音菩薩です。脇壇には、戦火を免れて常林寺に遷されたという聖観世音菩薩像と菊桐紋入りの衣に高下駄姿の帯刀僧形像が祀られています。

Img_20180218_0003aa

本堂の天井にはご住職の叔母で日本画家の野村はるみによる77枚の四季折々の花が鮮やかな色彩で描かれています。常林寺では初めての特別公開にあたって本堂の修理をおこない、その落慶記念に奉納していただいたそうです。

Img_20180218_0005aa

野村はるみは昭和9年生まれ、植物との共生を描き日展特選を2度受賞しましたが、残念ながら特別公開前に亡くなりました。この日は「萩図」という作品も展示されていました(最後の写真)。下は本堂横の内庭。

Jny_6383a

常林寺は、戊辰戦争時に幕府側代表として西郷隆盛と会談し「江戸城無血開城」を成し遂げた勝海舟の京の常宿でも知られます。下は、海舟が海軍伝習生として長崎や神戸に赴いたときに滞在したと伝わる「勝海舟逗留之間」。

Img_20180218_0001da

時には、坂本龍馬とともに逗留することもあったそうです。子母沢寛の長編小説「勝海舟」に常林寺が登場して、勝海舟はこの東山の眺めがよい部屋に泊まり、龍馬など同行者は障子をあけると墓が見える部屋に泊まった場面が出てきます。

Jny_6363a

ところで、菊桐紋入りの衣に高下駄姿の帯刀僧形像は異形とされ他に例がないようです。誰を表しどうして常林寺にあるのかが謎です。一般的には、門跡寺院や院家、院御所を警護した侍法師の可能性が高いと思われます。

Jny_6373a

常林寺が知恩院の有力末寺であったことから、知恩院宮を警護する侍という可能性を第一に検討すべきだと思います。知恩院宮は知恩院に入寺した法親王で、慶長12年(1607)徳川家康が後陽成天皇に奏請、皇子八宮を宮門跡としたのに始まります。

Img_210922c

門跡領1045石、宮御殿は知恩院境内下段の今の華頂学園付近に設けられました。宮門跡の組織は院家、坊官、家老、僧衆、小姓、侍、下部、医者からなり、家老は坊官のもとで、小姓、侍、下部の侍衆を統括しました。

Img_20210922a

また、菊桐紋は時の政権や皇室が使用した紋章で、皇室から下賜されたものに使われることが多いそうです。また、知恩院宮里坊が京都御所近くにあり、常林寺の旧地の荒神口とは近い場所にありました。

Img_20210922b

知恩院宮家は明治になると華頂宮を称しました。明治2年(1870)華頂宮博経親王は東京に移住し、翌年明治政府は門跡寺院を廃止ました。

Jny_6409a

山門の近くの「地蔵堂」には世継子育(よつぎこそだて)地蔵尊が祀られ、常林寺の創建以前から今出川口にあり、若狭街道を往来する人々が旅の安全を祈願しました。また、子授け・安産の信仰を集め、遠国からお参りする人もあったといわれます。

Jny_6457a

右手前の石標はかって山門の外にあり、京の街を往き来する人々の道しるべでしたが、40年前に折れているの分かりここに移したそうです。

Jny_6468a

左手前に『菊の紋入り灯篭』があります。平成27年檀家の湯口家が引越するにあたり、菩提寺の常林寺に預けていったものです。

Jny_6495a

明治天皇は幼い頃、御所を脱け出して旧有栖川邸の近くにあった湯口家の当主・音七さんを訪ねて遊んだそうです。天皇家が東京に移る際に、『お世話なりました』としてこの灯籠を湯口家に贈ったそうです。

Img_20180218_0006

また、湯口家の建替工事の際に地中から掘り出された「地蔵尊」も常林寺に預けられ、中央の世継子育地蔵尊の左に祀られています。

Jnl_4967a

右手前にある石標はかって山門の外にあり、京の街を往き来する人々の道しるべでしたが、40年前に折れているの分かりここに移したそうです。

Jny_6481a

地蔵堂の横に鎮守社だと思われる小さな祠があります。その裏に菊の紋入りの瓦が置いてありますが由来は不明です。上の華頂宮の邸宅(明治3年廃絶)のもので、帯刀僧形像とともに譲り受けた可能性もないわけではありません。

Jny_6484a

帯刀僧形像についての以上の内容は推察に過ぎず、謎はまだ解決していません。

Jny_6567a

お帰りの前に、ブログランキングの応援のクリック↓をよろしくお願いします。

★こちらを是非よろしく→   ブログ村→にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
-------------------------------------------------------------------

Jny_6577a

| | コメント (1)

«梨木神社 今日から萩まつり