2019年10月16日 (水)

興正寺 独立の歴史と伽藍

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

西本願寺の南に隣接する興正寺を訪れました。「興正寺」は山号を円頓山(えんとんざん)という真宗興正派の本山です。

「阿弥陀堂門」 明治45年(1912)の宗祖650回大遠忌を期して再建、阿弥陀堂の正面に位置する興正寺の正門です。四脚門の格調高い様式となっており、門扉には牡丹唐草、柱には龍の彫刻が施されています。

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「三門」 阿弥陀堂門と同年に建立され、御影堂の前に位置する二階建ての楼門(三解脱門)です。三つに仕切られた入り口があり、門扉には牡丹唐草に抱牡丹紋の彫刻が施されています。

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外観からは西本願寺と一体に見える興正寺は、その歴史も西本願寺と密接に関わってきました。
鎌倉時代、法然に師事して専修念仏に帰依した親鸞は、承元元年(1205)念仏教団への禁圧によって越後に流罪となります(承元の法難)。

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親鸞は建暦元年(1211)に赦免され、その翌年越後から京都に帰り山科に一堂を創建しました。「御影堂(ごえいどう)」の歴史については後程、昨年の地震と台風で大きな被害を受け修復工事中です。

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順徳天皇(1210-1221)の勅願によって、この寺は「興隆正法寺」後に「興正寺」と名づけられました。この名は、聖徳太子がめざした「興隆正法」(正しい法を興し栄えさす)という意味があるのだそうです。

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「経蔵」 江戸時代後期の嘉永元年(1848)建立、初層は唐破風付白壁土蔵造、二層は唐破風付楼造、屋根は宝形造の経蔵です。中には経・律・論のすべてを収録した一切経がおさめられています。「法宝蔵」の勅額は孝明天皇より下賜され、額字は右大臣近衛忠煕の筆です。建立当初の位置が唯一変わっていない貴重な建築物です。

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「阿弥陀堂」 本瓦葺二重入母屋造の興正寺の本堂で、明治35年(1902)それまでの本堂「ひとつ御堂」が焼失しました。現在の本堂は大正4年(1915)に再建されたものです。

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その後、親鸞は阿弥陀仏の本願をひろめるため関東に布教の旅に出ます。笠間郡稲田郷に設けた草庵を拠点として、20年近く関東で精力的に布教を行いました。

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元応2年(1320)興正寺第7世了源上人は寺を洛東の汁谷(しぶたに)に移しました。その頃 本尊が光明を放ったといわれたことから、後醍醐天皇から「阿弥陀仏光寺」の名前を賜り、一つの寺で二つの名前を用いることになりました。

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その後の文明13年(1481)第14世蓮教上人(経豪)は興正寺を山科西野に再興して、仏光寺は弟・教誉上人が継ぎました。これによって、二つの寺名がそれぞれの別の寺に分かれました。(阿弥陀堂に上がります。)

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蓮教上人は当時山科にあった本願寺の蓮如上人と力をあわせて念仏を広めることに奔走しました。(正面が阿弥陀堂門)

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ところが、戦国時代の天文元年(1532)、六角氏と法華宗徒の焼き討ちにより、興正寺は山科本願寺とともに焼失してしまいました。(塀の向こうに西本願寺の飛雲閣が見えます。)

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安土桃山時代(1585年)第15世蓮秀上人は、本願寺とともに大阪天満に移転し、無事だったご真影を祀って天満興正寺を開きました。

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1568年に本願寺が門跡寺院となったときは、本願寺末寺別格として興正寺も脇門跡寺院となり、本願寺に次ぐ位置を占めました。(本陣には本尊の阿弥陀如来、左右にインド、中国、日本の七高僧と聖徳太子の影像を安置しています。)

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天正19年(1591)第17世顕尊上人のとき、豊臣秀吉により本願寺とともに京都の現在地に戻り、1602年の本願寺の東西分裂では西本願寺に属しました。本尊の阿弥陀如来

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上の本尊の横に、御影堂に安置されていた「親鸞聖人御真影」が遷されています。聖人四十歳の姿を刻したものとされ、壮健な雰囲気をただよわせています。

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江戸時代を通じて興正寺は西本願寺の末寺でしたが、本山として独立しようとする気運も根強くあり、本末紛争も起こりました。

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幕末には、池田屋事件で幕府の信頼を得た新選組が大所帯となり、西本願寺を屯所としました。1867年に坂本龍馬らの殺害が紀州藩のしわざであると考えた海援隊・陸奥陽之助らが、天満屋を襲う事件が起こりました(天満屋騒動)。御影堂への渡り廊下。

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そのとき、紀州藩家老が滞在していた興正寺も襲われ、新撰組の土方歳三らがこれを防いだ事件も起こりました。(御影堂へは行けないようになっていました。)

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明治9年(1876)第27世本寂上人(1808~1877)の時に、ようやく本願寺から一派本山として独立を果たしました。

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明治35年(1902)不慮の火災により、日光の本廟、知恩院の三門とともに日本三建築の一つといわれた大伽藍のほとんどが焼失してしまいました。

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本堂(阿弥陀堂)の再建の際に、両堂様式の御影堂建造を望む声が多く、明治45年(1912)新たに本瓦葺入母屋造の御影堂が建立されました。「興正派宗務所」  

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三門の脇に紅白の梅があります。最後に見頃の時期の写真があります

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「鐘楼」 安永3年(1774)建立、本瓦葺入母屋造の袴腰楼造の鐘楼で、梵鐘の大きさは直径約1mあります。同年の桃園天皇13回忌に際し、皇太后恭礼門院(一条富子)から梵鐘とともに寄進されました。経蔵とともに明治35年の火災を免れました。

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「興正会館」 地上3階、地下1階の近代的な名建物といわれ、宿泊施設の外、各種会議室、和洋兼用ホール、1階にカフェがありましたが、残念ながら閉鎖されています。

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耐震性に問題があるといわれていて、まだ建て替え、耐震補強などの情報がありません。こちらは七条通りに面した入口。

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親鸞聖人が開いた浄土真宗は、様々な歴史的な事情から現在、本願寺派、大谷派、興正派など十派に分かれています。それらは「真宗教団連合」をつくって共通の課題について行動をしているそうです。

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2019年10月15日 (火)

西本願寺 その歴史と伽藍

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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先日東本願寺を記事にしましたが、今日は西本願寺です。創建からの歴史をたどりながら伽藍を見て回ります。東西の本願寺が分立した経緯は、それぞれで少し見方が違います。

「本願寺」は浄土真宗本願寺派の本山で、その所在地から「西本願寺」ともいわれます。下は「御影堂門」(重文)、門の向こうは江戸後期建造の「目隠塀」(重文)。

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親鸞聖人が弘長2年(1263)に90歳で亡くなると、東山の鳥辺野(とりべの)の北、大谷に石塔が建てられ、遺骨が納められました。しかし、その墓所はきわめて簡素なものでした。(御影堂前の「大銀杏」天然記念物で「水吹き銀杏」、「逆さ銀杏」ともいわれています。)

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10年後の文永9年(1272)、晩年の聖人の身辺の世話をした末娘の覚信尼(かくしんに)や門弟達は吉水の北に六角の廟堂を建て、親鸞聖人の影像を安置し遺骨を移しました(大谷廟堂)。「御影堂」(重文)は寛永13年(1636)の再建。

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この大谷廟堂は、敷地を寄進した覚信尼が廟堂の守護をする留守職(るすしき)となり、以後その子孫が門弟の了承を得て就任することにになりました。(「手水舎」は重文、右に「お茶所」があります。)

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大谷廟堂の留守職の第3代には覚信尼の孫の覚如(かくにょ)上人が就任し、元亨元年(1321)ころに本願寺と公称しました。「安穏殿」、本願寺内務室、ブックセンターがあります。

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「経蔵」(重文) 納められている『大蔵経(一切経)』は天海僧正の開版で、寛永12年(1635)江戸の寛永寺で発起し、12年をかけて完成、天海版または寛永版と呼ばれます。幕府の要請と第13代良如宗主の希望により銀27貫目で購入しました。

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経蔵の右奥に「太鼓楼」があるのですが、手前にプレハブの建物が建っていて見えません。下は外からの写真で、つるされている大きな太鼓は江戸時代に時刻を告げていたそうです。

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覚如上人の晩年から次の善如(ぜんにょ)上人にかけて、廟堂内の親鸞聖人の影像の横に本尊の阿弥陀仏像を安置しました。これが本願寺に御影堂と阿弥陀堂が並置される始まりです。「浄土真宗本願寺派伝道本部」、新しい建物です。

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第7代の存如(ぞんにょ)上人のとき、北に5間四面の御影堂、南に3間四面の阿弥陀堂を並置して建て、それぞれに親鸞聖人の影像と阿弥陀仏を安置しました。「阿弥陀堂」(国宝) 宝暦10年(1760)再建された本堂です。

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室町時代中頃の第8代蓮如上人は、教えをだれにでも分かるようにやさしく説き、本尊を統一、「御文章(ごぶんしょう)」を著して積極的な布教を展開、教えは近江をはじめとする近畿地方や東海、北陸に急速に広まり、本願寺は興隆しました。

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上人の布教は比叡山を刺激し、寛正6年(1465)比叡山衆徒によって大谷本願寺は破却されました。聖人は難を避けて近江を転々とし、親鸞聖人像を大津の近松坊舎(ちかまつぼうしゃ)に安置して、越前(福井県)吉崎に赴きました。

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上人が説いた教えは、古い支配体制からの解放を求める声となり、門徒たちは武装して一揆を起こすに至りました。上人は争いを鎮めようと吉崎を退去し、河内(大阪府)出口を中心に近畿で布教しました。(内陣が工事のため本尊・阿弥陀如来は御影堂に遷されています。)

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文明10年(1478)には京都山科で本願寺の造営に着手、同12年に念願の御影堂を再建、ついで阿弥陀堂などの諸堂を整えました。上人の布教によって、教えは北海道から九州に至る全国に広まりましたが、明応8年(1499)85歳で亡くなりました。「阿弥陀堂門」(重文)

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この後、山科本願寺は次第に発展しましたが、第10代証如(しょうにょ)上人の天文元年(1532)六角定頼や日蓮衆徒によって焼き払われました。そこで蓮如上人が創建した大坂石山御坊(いしやまごぼう)に移り、両堂などを整備して発展の一途をたどります。

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天下統一を目指す織田信長にとって本願寺の大きな勢力が障害となり、ついに元亀元年(1570)両者の間に石山戦争が勃発しました。以後11年にわたり戦いは続きました。「お茶所」

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各地の一揆勢も破れたため、第11代顕如(けんにょ)上人は仏法存続が第一と天正8年(1580)信長と和議を結び、大坂石山本願寺を退去ました。その際、長男・教如(きょうにょ)上人は徹底抗戦をとなえ籠城しました。

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顕如(けんにょ)上人は紀伊(和歌山)鷺森に移り、さらに和泉(大阪府)貝塚の願泉寺を経て、豊臣秀吉の寺地寄進を受けて大坂天満へと移りました。

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天正19年(1591)秀吉の京都市街整備計画にもとづいて本願寺は再び京都に帰ることになり、顕如上人は六条堀川の現在地を選び、阿弥陀堂・御影堂の両堂が完成した文禄元年(1592)、積年の疲労で倒れ50歳で亡くなりました。(御影堂内陣には阿弥陀堂にあった本尊が中央に置かれ、親鸞聖人御真影が脇壇に遷されています。)

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長男・教如上人が跡を継がぎましたが、三男の准如(じゅんにょ)上人にあてた留守職譲状(遺言)があったので、教如上人は隠退して裏方(うらかた)と呼ばれました。これには、石山合戦での穏健派(和睦派)と籠城派(強硬派)の対立があったといわれています。下は節穴を補修する埋め木、これは新しいもののようです。

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穏健派と如春尼(教如の母)が顕如上人の遺言状を持って秀吉に直訴し、秀吉から10年後の隠退を勧告され、教如上人は従うつもりでした。ところが、強硬派の僧たちが遺言状の真偽を言い立てたため、秀吉の怒りをかい即刻隠退させられたのが実情でした。「沓石(くついし)」、向拝の柱を支えていて、表面に木が貼ってあります。

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その後、教如上人は徳川家康に接近し、慶長7年(1602)家康から烏丸七条に寺地を寄進され、翌年ここに御堂を建立しました。これが大谷派本願寺(東本願寺)の起源で、この時から本願寺が西と東に分立しました。(御影堂前の天水受けの四隅を天邪鬼が支えています。)

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東本願寺の説明では、接近したのは家康の方からとなっていました。いずれにしても、家康が東本願寺の創立を支援したのは、二つを分立させて教団の力をそぐ狙いがあったとされます。寺務所の「龍虎殿」、御影堂の左にあります。

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これより前ですが、本願寺は慶長元年(1596)の大地震で御影堂をはじめ諸堂が倒壊し、阿弥陀堂は被害を免れました。翌年に御影堂の落成をみたものの、元和(げんな)3年(1617)には失火により両堂や対面所などが焼失しました。

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翌年、仮御堂の阿弥陀堂を再建し、18年後の寛永13年(1636)に御影堂が再建されましたた。このころ対面所などの書院や飛雲閣、唐門が整備されました。「旧仏飯所」、近々再建工事が行われるそうです。

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宝暦(ほうれき)10年(1760)本格的な阿弥陀堂が再建され、ここに現在の本願寺の伽藍が整備されました。「書院」は「対面所」と「白書院」からなります。ほかに、「黒書院」と「伝廊」があり、いずれも国宝に指定されています。(倒壊した塀の再建工事中でした。)

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「大玄関」 公式の行事に来客を迎える門で、詳しい創建年は不明ながら、宝暦10年(1760)の親鸞聖人五百回忌には存在していたことが分かっているそうです。

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「唐門」(国宝) 桃山時代の豪華な装飾彫刻を充満した檜皮葺き・唐破風の四脚門で、伏見城の遺構とも伝わります。彫刻の見事さに日の暮れるのを忘れることから「日暮らし門」とも呼ばれています(修復工事中です)。

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「鐘楼」(重文) 安土・桃山時代の建造で、梵鐘は平成8年(1996)製。

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鐘楼の右手にある「飛雲閣」(国宝)は、金閣、銀閣とともに京都三名閣の一つとされます。秀吉が建てた聚楽第の一部ともいわれ、三層からなる楼閣建築です。修復工事中で下はお茶所にある模型です。

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寛延2年(1749)から宝暦10年(1760)にかけての阿弥陀堂再建の時、大阪堺の「泉州接待講」の方々が12年間にわたり工事にたずさわった職人らに食事の接待を続けました。その功績から、阿弥陀堂の余材をもらい受けて「お茶所」が建設されました。

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それ以来350年以上にわたって泉州接待講の方々は来訪者にお茶の接待を続けています。(下は12月初旬のお茶所で銀杏が色づいています。)

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