2019年11月13日 (水)

月読神社 福慶をもたらす月の神

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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松尾大社を後に、山沿いの道を南にしばらく行くと「月読(つくよみ)神社」があります。この神社の創建にはちょっと興味ある物語が伝わっています。下は前にある月読公園。

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現在は松尾大社の境外摂社ですが、それは明治になってからで、月読神社は松尾大社より古い歴史があります。

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「月読尊(つきよみのみこと)」は、『古事記』や『日本書紀』において、天照大神の兄弟神、夜を司る神として登場します。しかし、この神社の祭神はそれとは別の神と考えられています。

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『日本書紀』によれば、第23代顕宗(けんぞう)天皇3年に大陸への使者の阿閉臣事代(あへのおみことしろ)に月神から神託がありました。(手前は拝殿)

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それは、「私は月神で、祖先は天地を熔造(ようぞう)した功績がある高皇産霊(たかみむすび)である。もし土地を用意して自分を奉(たてまつ)れば、福慶(ふくけい)があるだろう。」というものでした。

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事代は都に還り、このことを朝廷に奏上すると、月神の要求にしたがい山背国葛野郡の「歌荒樔田(うたあらすだ)」の地が用意されました。 そして月神の末裔と称する壱岐の押見宿祢(おしみのすくね)が神社を造営し、祠官として奉仕しました。

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日本書紀に記されたこの神社が月読神社の始まりであると考えられています。押見宿祢の子孫は出身地の壱岐(伊岐)を氏の名とし、世襲祠官として永く神社に仕えました。(本殿は流造です。)

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この伊岐氏は、後に壱岐国の県主(島造)となった氏族で、押見はその祖に当たる人物です。壱岐は地理的に大陸に近いので、壱岐氏は早くから中国の亀卜(きぼく)の術を我が国に伝え、神祇官として卜占(ぼくせん)に関与して卜部(うらべ)氏を名乗りました。

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祭神の月読尊は、元来は天文・暦数・卜占・航海の神でした。時代とともに疱瘡の神として崇められることもあり、近世以降はむしろ農耕の神として地元農民の崇敬を受けて今日に至っています。

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壱岐島にはもともと「月読神社」があり、日本書紀の記述はその神を山城国に勧請したものと考えられています。壱岐氏が中央の祭祀に関わる時期を考慮すると、この月読神社の創建は6世紀中頃から後半と推測されています。

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当初の鎮座地の歌荒樔田については、現在も月読の地名が残っている桂川左岸、あるいは、右岸の桂上野のあたりともいわれていますが確定していません。 「穢解(かいわい)の水 」、手水鉢です。

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文徳天皇の斉衝3年(856)に現在地に移った理由は、度重なる桂川の氾濫を避けて安全地帯の松尾山麓を選んだからとされています。以後この地も、祠官の家名も松室(まつむろ)と呼ばれるようになりました。「穢解の池」、穢解の水の水源です。

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「御船社」は天鳥舟命(あまのとりふねのみこと)を祀り、松尾大社の末社でもあります。松尾大社神幸祭の際には、御船社で渡御の安全祈願祭が行われます。この神は天上界「高天原」と地上界とを丈夫な船で通り、航海や航空の守護神とされます。

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延長5年(927)の『延喜式』では、名神大社に列するとともに月次祭・新嘗祭で朝廷からの供物に預かったと記載されています。同じ神名帳で小川月神社(京都府亀岡市)の記載があり、大堰川流域における月神信仰が広がっていたことが指摘されています。

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明神は特に霊験があらたかと認められる神の称号で、それを祀るのが明神(大)社、国家的事変の解決を祈願する臨時の祭が明神祭です。「腰掛け陰陽石」

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この葛野郡一帯は早くから、帰化族の秦氏の勢力圏で、当神社や松室氏も秦氏の庇護を受け親密な関係にあったようです。世襲祠官の松室氏は、秦氏が管理する松尾大社にも代々奉仕していました。

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中世には周辺に「禰宜田」と称する田畑のほか若干の社領がありましたが、松尾大社の勢力に押されたと見られています。これらの社領は織田信長の入京後も安堵されています。「聖徳太子社」は月読尊を崇敬した聖徳太子の霊を祀ったものといわれます。

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「月延石(つきのべいし)」は「安産石」とも呼ばれ、安産・子授かりの神として信仰されています。

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『雍州府志』に記載の伝説では、この石は元は筑紫にあり、神功皇后が応神天皇を産む際にこの石で腹を撫でて安産し、後の舒明天皇の時に月読神社に奉納されたといわれます。安産祈願の小石を月延石にお供えします。

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「むすびの木」、根本が一つになっています。神社の背後の斜面には昨年の台風による倒木の切り株が多数みられます。

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江戸時代には、月読神社は完全に松尾大社に従属していて、社領として松尾神社神供料1,000余石のうちから月読禰宜分100石1斗、月読祝分16石が配分される立場でした。「社務所」

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明治維新後の明治10年(1877)に月読神社は公式に松尾大社の摂社となり、現在に至ります。安産祈願に参拝できない方は「郵送」での「祈祷」も受けられるそうです。

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必要事項を記入した申込書と祈祷料を「現金書留」で送ると、「戌の日」に祈祷をした後、撤下品として「安産守・お洗米・岩田帯・安産梅」が送られてきます。祈願石は神社がお供えするそうです。

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市街地よりかなり高い場所にいるようです。

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2019年11月12日 (火)

松尾大社 松風苑三庭

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日の記事につづいて、松尾大社の庭園を拝観しました。庭園の入口付近にある「祓戸(はらえど)大神」、心の穢れを祓い、身に付いた悪運、悪縁、病が取払われ、心身を清めて生きる力も再生するという神です。

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下の写真の奥に拝観受付があり、そこから右に入ります。重森三玲が作庭した「松風苑」は、四国・吉野川産の青石(緑泥片岩)を200余個用いて昭和50年に完成、昭和を代表する現代庭園といわれます。

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松風苑のひとつ「曲水の庭」は、王朝文化華やかなりし平安貴族の人々が、慣れ親しんだ雅遊の場を表現したものです。その頃、当社は都を守る西の「松尾の猛霊」と崇められて隆盛を極めていました。

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この庭は、当時の時代背景を顕わして、艶やかな中にも気高い当時の面影を内に秘めて、しかも極めて現代風に作庭されています。向うの建物「葵殿」は結婚式場です。

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左の建物は「神像館」、平安初期に造られた三体の重要文化財をはじめ、21の神像が収められています。

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滑らかな曲線を基調に、洗練されたデザインで鑓水が表現されています。かなりの水量が流れています。

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「上古(じょうこ)の庭」 上古の時代には神社も社殿もなく、山中の巨岩などが神霊のやどる聖地とされ、磐座(いわくら)と呼んでいました。松尾大社でも後方の松尾山頂上近くにある磐座で祭祀が営まれていました。

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その古代祭祀の場を模して造られたのがこの庭で、中央の二つの巨石は松尾大社の祭神の男女2神を表し、その後方の岩は随従する神々を表します。また一面に植えられているミヤコ笹は高山の趣を表現しているそうです。

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「磐座登拝口」 特に希望する場合は、神社の許可を得てここから磐座に上ることができます。ただし、人数、時間、服装、携帯品などの制約や登拝の心得を守らなければななりません。

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拝観順路は神像館、葵殿の裏を通り、いったん拝観区域の外に出ます。山の斜面には昨年の台風による倒木がかなり見られました。TOPの写真はこのあたりからで、曲水の庭が垣間見えます。

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斜面の取水槽には「松尾大社 献茶会、珈琲処 松楽館」と書いてあります。献茶会は毎月第1日曜日に催され、釜は裏千家社中と表千家社中が輪番で懸けられます。松楽館は二の鳥居の傍にあります。

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左の三宮社は山城国開拓の功労神・玉依姫命を祀り、右の四大神社(しののおおかみのやしろ)は四季それぞれの神・春若年神、夏高津日神、秋比売神、冬年神を祀り、一年を通じて平安を司ります。

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松尾山は七つの谷を持っていますが、この大杉谷の御手洗川に霊亀の滝があります。元正天皇の和銅7年(714)8月、「首に三つの星を戴き、背に七星を負い、前足に離の卦を顕わし、後足に一支あり、尾に緑毛・金色毛の雑った長さ八寸の亀」が現れました。

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「離の卦」は横三本線の中央が欠けている印で、二陽が一陰を囲み、外に陽気が発散するとされます。これを朝廷に奉納すると、元正天皇は「嘉瑞なり」と、翌年元号を「霊亀」へと改め、亀は再び元の谷に放たれたといいます。

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嘉瑞(かずい)とはめでたいしるし(吉兆)のことです。上の写真の左の岩肌に天狗の顔があります。

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霊亀の滝の下流に「亀の井」という霊泉があります。酒造家はこの水を酒の元水として造り水に混ぜて用い、また「延命長寿」、「蘇り」の水としても有名だそうです。

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また、茶道や書道の水あるいは家庭用水として、早朝から開門と同時に汲みに来られる方もいるそうです。

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実は、奈良時代には他に3度も亀を理由に改元されています。めでたい白い亀が献上され「神亀」と「宝亀」、甲羅に「天王貴平知百年」という文字がある亀が献上され「天平」という元号になりました。

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「うま酒に神の韻ある初泉」 作者の桂樟蹊子(しょうけいし、1909-1993)は、京都生まれ、京都帝国大学農学部卒、京都府立大学名誉教授。水原秋櫻子に俳句を学び、京都馬酔木会を結成、俳誌「学苑(霜林)」主宰。

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こから境内を横切り、三番目の庭園に向かいます。向うの中門を出た正面にある茶店の裏が入口です。

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「蓬莱の庭」は重森三玲、最晩年の作です。池の奥に滝が流れ、園路は池の周囲を一周します。蓬莱とは不老不死の仙界の意味で、その島にあこがれる蓬莱思想が鎌倉時代に流行し、作庭のテーマに採用されて来ました。

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下の亀は焼き物ですが、水の中には鯉や亀が泳いでいました。

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松尾大社は、鎌倉時代以降将軍・源頼朝を始め、豊臣秀吉、徳川幕府など武家にも崇敬され、明治維新まで続きました。中央の池に立つ石が蓬莱の島を表しています。

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この庭は、そのような鎌倉期に代表される池泉回遊式庭園を取り入れ、全体が羽を広げた鶴を形どっているそうです。全体の形は、上から見ないと分かりませんが。

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池の畔の建物では結婚式の披露宴や先ほどの献茶会が催されます。

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