2017年10月19日 (木)

誓願寺 新京極の古刹とその歴史

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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矢田寺を出て、新京極通を下り六角通を過ぎると誓願寺があります。「誓願寺」は浄土宗西山深草派の総本山で、創建は古く飛鳥時代までさかのぼります。

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「迷子みちしるべ」 右側に「教しゆる方」、左側に「さがす方」と彫ってあり、落し物や迷子を捜す方、教える方が、紙に書いて張り出しました。幕末から明治中頃にかけて迷子が深刻な社会問題となり各地の寺社や盛り場に建てられたそうです(1882年建立)。

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誓願寺は飛鳥時代の天智天皇6年(667)に、天皇の勅願により創建されました。もとは奈良にあり、奈良時代(784年)に山城国乙訓郡に移され、平安遷都(794年)以前には相楽郡に移りました。(圓光大師霊場とは法然上人二十五霊場のことです。)

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平安時代(1175年)浄土宗開祖・法然が当寺で参籠し、21世・蔵俊が帰依したことから浄土宗に改められました。蔵俊は法然に寺を譲り中興の祖とし、それ以来浄土宗念仏門の寺となります。

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法然上人の高弟・西山上人証空の弟子円空(1213-1284)が深草に寺を建て布教したことから、現在は浄土宗西山深草派の総本山となっています。西山三派として、他に禅林寺派(永観堂)、光明寺派(光明寺)があります。

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鎌倉時代初期には一条小川(現在の上京区元誓願寺通小川西入る)に移転し、安土桃山時代(1591年)に豊臣秀吉の寺町整備によって現在の三条寺町に移されました。下は三井寺・三千院から大仏師の称号を受けた石彫家・長岡和慶の「南無地蔵大菩薩」。

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誓願寺には、清少納言、和泉式部、秀吉の側室・松の丸殿らが帰依したことから、女人往生の寺としても知られています。松の丸殿は、京極高吉と浅井久政の娘の間に生まれ、夫の若狭守武田元明は本能寺の変で明智光秀につき、秀吉らに討たれました。

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兄・京極高次の取り成しで秀吉の側室となります。1600年関ヶ原の戦い後に出家、1615年大坂夏の陣の後、処刑された秀頼の子・国松の遺骸を引き取り、帰依した誓願寺に埋葬しました。彼女の墓は誓願寺にありましたが、後に豊国廟の国松の傍に遷されました。

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「扇塚」 世阿弥の作と伝えられる謡曲「誓願寺」は、和泉式部と一遍上人が主な役となって誓願寺の縁起と霊験を物語ります。その中で、和泉式部が歌舞の菩薩となって現れることから、江戸時代から能楽をはじめ舞踊などの芸能の人々が誓願寺へ参詣しました。

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文化・文政・天保年間に京都で活躍した篠塚流の祖・篠塚文三郎(梅扇)の山村舞は、京阪で大いに流行したそうです。彼ら舞踊家の中に誓願寺の和泉式部信仰があり、芸道上達を祈願して扇子を奉納する習わしが今日まで続いています。

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本尊の阿弥陀如来像は京洛六阿弥陀仏のひとつです。もとは石清水八幡宮の八幡神の本地仏として安置されていましたが、明治初年(1868)の神仏分離令後の廃仏毀釈により、誓願寺に遷されました。平安時代後期の定朝様で鎌倉-南北朝時代の作とされます。

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創建時の本尊・阿弥陀如来像(火事で焼失)は、天智天皇が夢のお告げにより、当時仏師として名高かった賢問子(けんもんし)・芥子国(けしこく)父子に造立を命じました。二人は別々の部屋で仏の半身を彫り、合体すると寸分違わず合致したといいます。

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父子が制作中の夜、あまりの物音にあやしんだ人が部屋の中を覗くと、賢問子が地蔵菩薩、芥子国が観音菩薩になり、闇の中で光を放ちながら彫っていたそうです。本堂脇壇の「十一面観音菩薩」は弘法大師作とされ、こちらも他の寺から遷されました。

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かって新京極中筋町にあった長金寺は明治初年(1868)に廃寺となり、その一言堂(いちごんどう)の本尊だった菩薩像がこの十一面観音菩薩です。一言観音とも呼ばれ、一言で願いをかなえてくれるそうです。洛陽三十三所観音霊場第二番札所本尊です。

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誓願寺55世の策伝(さくでん、1554-1642)は、文人・茶人で安楽庵流茶道の流祖となりました。また、説教の名手ともいわれ、説教に笑いを取り入れ、話の最後には「落ち」を付けるなど、落語の祖とされます。醒睡笑(八巻)を表しました。

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1623年には誓願寺・竹林院に隠居して茶室「安楽庵」で過ごし、訪れた人々を笑いに包んだといいます。落語家からの扇の奉納も見られ、策伝忌法要では、落語が奉納されるそうです。

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江戸時代中頃には、誓願寺は6500坪もの境内に塔頭寺院が18あり、三重塔もありました。境内には盛り場ができて、「誓願寺さんへ行こう」とは、遊びに行くことを意味するほど、洛中一賑わいました。下は中村雁次郎改め坂田藤十郎記念舞扇

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新京極通の北端のたらたら坂のあたりに誓願寺の北門(黒門)があり、寺町通が三条で少し西にずれるのは誓願寺の境内があったからです。

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ところが、幕末の「蛤御門の変」で辺りは焼け野原となり、明治維新で都が東京へ移り、京都は沈滞の一途をたどりました。明治5年(1872)京都府参事・槇村正直は、京都の復興のため三条~四条間に新京極通を通し、一大歓楽街を作ろうとしました。

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このため誓願寺は、4800余坪の土地を没収されました。また、京都の中心地に位置するため戦乱等により、これまで10回も火災にあいました。そのたびに信者たちによって再建され、現在の鉄筋コンクリートの本堂は昭和39年(1964)に建てられました。

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最後に逸話をひとつ。鎌倉時代、貧困の中で死んだ武士の妻が、夫が気にかけていた義父を養うため、やむを得ず仁和寺街道に卒塔婆を建て歌を書いて子を捨てました。「子を捨てる形見の卒塔婆いかばかり、さらではいかに親を助けん」 寺の前の広場。

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子は比叡山の大徳に拾われ学匠となり、賢問子・芥子国の話を知りると、都に下りて誓願寺の門前に卒塔婆の歌を書きかえて張り出しました「子を捨てる形見の卒塔婆いかばかり、さらではいかに親をたづねん」。やがて寺を訪れた母に再会でき、母子共に誓願寺の阿弥陀如来の恵みに感謝したそうです。

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2017年10月18日 (水)

矢田寺 満慶上人と矢田地蔵

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寺町通三条にある矢田寺に行ってきました。寺町通の御池から三条の間は「寺町専門店街」と呼ばれアーケイドで覆われています。下の写真で矢田寺は右手前にあります。

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「矢田寺」は山号を金剛山という西山浄土宗の寺院で、洛陽四十八願所地蔵めぐり(京都四十八願寺)の第28番札所です。

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矢田寺の創建は古く、平安時代の初め(845年)大和国・矢田山金剛山寺(こんごうせんじ)の別院として五条坊門(下京区)に創建されたのが始まりです。開山は金剛山寺の住持・満慶(まんけい)上人です。

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本尊の地蔵菩薩(矢田地蔵)は、満慶上人が地獄で見た亡者を救う僧侶の姿を彫らせたものだそうです。代受苦(だいじゅく)地蔵とも呼ばれ、人々の苦しみを代わってくださるといわれています。

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一度お参りすると、10種の福を得、8大恐怖を取り除き、28種のご利益があるとされます。特に、縁結び、安産守護、学業成就、病気平癒、土地豊穣、家宅永安、子孫繁栄などの信仰があるそうです。

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満慶上人が地獄に行った理由は、閻魔大王から冥界で菩薩戒(菩薩が守るべき戒律)を授ける者を尋ねられた小野篁が、満慶上人を紹介したからです。満慶上人は六道珍皇寺の井戸から冥途に出かけ、閻魔大王に菩薩戒を授けたといいます。

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大王が礼を与えるというと、満慶は地獄を訪れたいと申し出て、阿鼻城で人々に代わり責め苦を受ける地蔵菩薩を見ました。

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炎熱地獄では亡者を救出する一人の僧を見ました。僧は自らを地蔵菩薩といい、上人に娑婆に帰ったら地蔵菩薩像を造るようにと伝えたのです。

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また、閻魔大王は土産に箱を与えました。箱には米が入っており、取り出しても減ることがなく、食い逸れがなかったといいます。そのため、満慶は満米(まんまい)上人ともよばれたといいます。

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南北朝時代(1359年)に鋳造された「梵鐘」は、六道珍皇寺の「迎え鐘」に対して「送り鐘」と呼ばれています。8月16日の精霊送りの日、あるいは葬礼の精霊送りの時にも撞かれ、死者の霊を迷わず冥土へ送るのだそうです。

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矢田寺はその後衰退し、南北朝時代の1359年に綾小路西洞院矢田町で復興されました。「賓頭盧(びんづる)尊者」、神通力をむやみに使って釈迦に叱責され、涅槃を許されず衆生の救済を命じられました。なで仏としてお堂の外(といってもアーケイドの下)にいます。

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室町時代(1417年)に焼失後、綾小路町尻(下京区矢田町)に移りました。さらに、安土桃山時代、(1579年)豊臣秀吉の都市改造により現在地に移されました。下は「水子地蔵」と「ぬいぐるみ地蔵」

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江戸時代には、宝永の大火(1708年)、天明の大火(1788年)、蛤御門の変(1864年)で焼失しますが、その都度再建されました。ぬいぐるみ地蔵は、胎内にお札が入っていて、お守りにして持ち帰るか奉納します。手作りなので、すべて表情が違うそうです。

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「しあわせ大日如来」 左手前の石柱に「東山若王子」と刻んであります。上の部分が切り取られているので、正東山若王子のことだと思われます。熊野若王子神社は、江戸時代まで聖護院門跡院家として「正東山(しょうとうさん)若王子乗々院」という名でした。

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明治初年の神仏分離によって神社だけが残り、観音菩薩像や鰐口とともに碑(いしぶみ)が矢田寺へ移されたという記録があります。こちら側には、「所第一番」とありますが、実際には洛東三十三所第一番(若王子乗々院)だと思われます。

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中央の像は宝冠、首飾り、腕飾りがあり、どう見ても如来ではなく、菩薩のように思われます。この像が若王子乗々院から遷された観音菩薩像だとしたら、つじつまがあうのですが。*その後矢田寺さんに問い合わせたところ、中央の木像は大日如来が現実世界に菩薩の姿として現れたもので、新しく造られたそうです。矢田寺に遷されたとされる観音菩薩像について、熊野若王子神社、矢田寺ともに記録がなく、行方が分からないそうです。

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年中行事として、節分(2月3日)、花まつり(4月8日)、送り鐘(8月16日)、かぼちゃ供養(12月23日)、除夜の鐘(12月31日)などが行われます。

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