2016年9月27日 (火)

伏見稲荷大社 重文の建物たち

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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先日、久しぶりに雨が止んで青空が見えてきたので、伏見稲荷大社を訪れました。上はJR奈良線伏見駅前の一の鳥居。

「伏見稲荷大社」は全国各地に祀られている稲荷神社の総本宮で、その創建は京都に都が造営される以前の奈良時代にさかのぼります。(参道には「外国人に人気の日本の観光スポット2016 日本国内3年連続第1位」ののぼりが並んでいます。

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5世紀前後、この地に渡来系豪族の秦氏が進出し、それ以来何らかの祭祀が行なわれていたとみられています。(二の鳥居)

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奈良時代初めの和銅4年(711)、稲荷大神(いなりおおかみ)が、稲荷山の三嶺の平らな所に示現したとの伝承があり、社伝ではこのときを創祀としています。楼門、楼門の左の北廻廊、右の南廻廊は重要文化財です。

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安土桃山時代の天正17年(1589)、豊臣秀吉は社領106石を寄進して、楼門を再建しました。

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楼門の両脇に随身像が安置されています。寺院の仁王像と同じように神に仕えて神を守護する役割をしています。左は「左大臣」で若者の姿をしています。

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右は「右大臣」で左大臣より位が高く、年上となっています。

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楼門の狛狐、稲荷大神の宝蔵、米倉を開く秘鍵をくわえ、右の狛狐は宝珠をくわえています。

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楼門を入ると外(げ)拝殿(重文)があります。こちらも楼門と同じく1589年に建立され、江戸時代の安土・桃山時代、1589年に造営された。江戸時代末の1839年に改築されました。

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「荷田東満(かだのあずままろ)旧宅」 伏見稲荷の社家だったそうで、ときどき特別公開があります。外拝殿の南(右)にあります。

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2016年9月26日 (月)

真如堂 諸堂を訪ねて

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真如堂の庭園を拝観した後、時間があったので境内のお堂を見て回りました。上の「三重塔」は、江戸時代の宝暦年間(1751-1764)に建立され、1817年に再建されました(京都府指定文化財)。

室町時代から江戸時代初めにかけて都を転々とした真正極楽寺は、1693年に現在地に戻りました。本堂(真如堂)は1703年に上棟、1705年に入仏供養が行われ、後に本堂の名称が寺の別称となりました。右に菩提樹、左に沙羅双樹があります。

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参道途中にある「茶所」 茶店ではなく「阿弥陀如来像(一光三尊善光寺如来)」を祀るお堂です。江戸時代の1694年に開帳され、50日間法会執行され、そのまま当寺に奉安された。

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「日本三大如来」一つにとされ(ほかは長野善光寺と清凉寺)、善光寺如来の分身といわれています。全身が黒いことから「黒如来」ともよばれています。

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三重塔の西にある「鎌倉地蔵尊」 中国殷から「白面金毛九尾」という狐が日本に渡り、才色兼備の女に変身して鳥羽上皇の寵愛を受け、上皇を病にかけ兄と謀略を企てました。安倍晴明の子孫の陰陽師・安倍泰観がこれを見破り、狐は空を飛び下野国那須野原へと逃れましたが、上皇の命によって殺されました。

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狐の魂は石となり悪霊が生き物を殺したので「殺生石」と怖れられました。室町時代の僧・玄翁禅師が石を柱杖で割り悪霊を成仏させ、割れた石で地蔵菩薩を刻み鎌倉に建てた堂に祀りました。この地蔵菩薩が江戸時代初期に真如堂に持ち込まれ、福寿、延命、無実の罪を晴らすとされています。

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三重塔の南にある「縣井(あがたい)観音堂」 鎌倉時代の承久年間(1219-1222)東洞院にあった「縣井」から夜な夜な光が放たれ、御経が聞こえました。順徳天皇の命により調べると、井戸の底に五寸あまりの仏が見つかり、真如堂に遷されました。

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鐘楼は1759年に造営、梵鐘は、叩き方や天候で音色が変わる名鐘とされ、戦争中に供出されました。しかしながら、潰される前に終戦となり戦後奇跡的に寺に返還されたものといいます。材質を確認するために開けられたという二つの小さな穴が開いているそうです。

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「唐金(からがね)弥陀如来」 江戸時代の1719年、木食(もくじき)正禅により造立されました。像の作製のため、正禅自ら作った像の首模型を担いで廻り勧進を行ったといわれています。

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本堂の南に来ました。

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「たてかわ桜」 立皮の名のとおり幹に縦に筋が入っています。徳川家光の乳母・春日の局が、父の斉藤内蔵介利三の菩提を弔うために植えたといいます。水上勉の小説『桜守』の題材になっていますが、実際は桜守ではなく当寺の貫主が接木に成功したそうです。

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本堂の裏(東)にある「万霊堂」、1934年に三井財閥本家の寄進により、地蔵菩薩を安置しています。

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この石は燈籠の台座で、戦時中に供出されて銅製の燈籠が失われてしまいました。

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平成2年(1990)に建立された「三井二木会物故社員慰霊塔」 二木会は三井グループの中核企業で、塔の裏には寄進した二木会会員会社名が刻まれています。

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「石薬師堂」 平安遷都の頃、地面から光沢のある蓮華の蕾のような大石が現れ、桓武天皇が石の頭で薬師如来を彫り、石の上に建てたお堂に安置しました。江戸時代、正親町天皇が命じて、真如堂の僧・全海が本尊として祀ったといいます。

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建物は、1966年に金光院(東山五条)から移されたものです。

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境内の北東にある「真如山荘」(左)と寺務所(右) 真如山荘は二木会が寄進した研修道場で、宿泊や会議ができます。

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「元三大師堂」 平安時代の天台座主・元三大師(慈恵大師良源)の肖像画を祀ります(京都府指定文化財)。大師は魔除けの符として貼られる角大師(つのだいし)やおみくじ「観音籤」の発案者でも知られています。京洛十八大師めぐりの三番です。

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「赤崎弁天」 室町時代の1519年、美作国の善阿弥という念仏行者が、真如堂が完成行事のため周防国赤崎弁財天前で祈念し、京の近くで勧進を行ってようやく費用が工面できたそうです。感謝のために真如堂の境内に赤崎弁天を勧請して祀ったといわれています。

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「京都映画誕生」の碑 1908年に牧野省三は横田商会(横田永之助)の依頼により、日本で最初の時代劇映画「本能寺合戦」を真如堂境内で撮影しました。境内を本能寺に見立てて、森蘭丸の奮闘場面が撮影されたそうです。

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「伝教大師巡錫之像」 天台宗を開iいた最澄が東国を巡り(815)、上野国・下野国に宝塔を建てた時の姿をイメージして、仏師・西村公朝師が作ったブロンズ像。平成11年に池のほとりに設置され、これを原型として、群馬県藤岡市の浄法寺に大きな像が造られました。

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「新長谷寺」 平安時代、越前守・藤原高房は西国に子を連れて赴きました。猟師が殺そうとしている亀を助けると、翌朝、過って海に落ちた子をその亀が救いました。子は後に中納言・藤原山蔭となり、子を授かりましたが妻が病死して後妻を迎えました。

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実子が生まれると継母は先妻の子が疎ましくなり、山蔭が九州に赴く船上から、子を海へ突き落としました。すると、かっての亀が現れ、その子を助けました。山蔭は、二度も命を救った亀は、観音のご加護であるとして、神楽岡に新長谷寺を建立しました。

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そして、長谷寺十一面観音像を写した像を作り、前立として春日仏師による八尺の大像を祀りました。寺は吉田神社の神宮寺となりましたが、明治の廃仏毀釈によって真如堂に遷されました。

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2016年9月25日 (日)

真如堂 庭園を巡る

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昨日の記事の知恩寺を出て、真如堂まで来ました。いろいろな季節に訪れていますが、この日は久しぶりに有料拝観区域に入りました。本堂、書院など建物の内部は撮影できませんので、以下では庭園を紹介します。

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赤門の前で季節外れの桜が咲いていました。この桜は春に咲くヤマザクラですが、虫食いなどで葉が落ちると、勘違いして花を咲かすのだそうです。

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「真如堂」は正式には鈴声山真正極楽寺という天台宗の寺院です。

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比叡の戒算(かいさん)上人が平安時代中頃の永観2年(984)一条天皇の母、東三条院藤原詮子の願いによって神楽岡東の離宮内に堂を建て、慈覚大師の作と伝える阿弥陀如来の像を安置したのが始まりです。(拝観は本堂から入ります。)

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その跡は、現寺地の東北に当たり、「元真如堂」といいます。のち何度か寺地を変え、文明17年(1485)足利義政が旧地に再興しました。その後また他に転じ、元禄6年(1693)旧地の西南の現在地に戻りました。 (藤袴が植えられていました。)

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今の堂舎は宝永2年(1705)の再建で、本堂の本尊阿弥陀如来立像(重文)は平安時代後期の作です。(本堂の北の方)

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本堂の裏から渡り廊下で書院に向かいます。この廊下は戦争中火災の類焼を防ぐために取り外したそうです。

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途中にある三井家が寄進した建物、真如堂に参詣した三井家の家祖・三井高利が自らの墓所に希望したことが由縁で、真如堂は三井家の菩提寺となりました。

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以来、真如堂には三井各家累代の墓があり、300年以上にわたって祭祀が続けられています。鬼瓦に三井家の家紋の「隅立て四つ目結」があります。

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広大な寺領を持つ真如堂でしたが、本坊に檀家はありませんでした。高利の遺言を受け、三井家が話し合い、元禄7年(1694)塔頭の一寺である真如堂東陽坊の檀家に迎えられました。その後、明治に入って真如堂本坊の大檀家となり、今日に至っています。

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ここでいう三井家とは七本家を含む三井十一家のことです。

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書院の南庭

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「燈明寺燈籠」 もとは相楽郡加茂町の燈明寺にありました。燈明寺は天平年間に行基が開創したともいわれ、その後興廃を繰り返しました。灯籠は新町三井家第3代高弥氏が同寺より入手し、後の昭和50年同家第10代高遂氏が真如堂に寄進しました。

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和系六角型石燈籠で、鎌倉時代の作。中台の上端は小蓮弁で側面は走獅子、火袋中区の意匠は、竪連子に唐草上の円窓と花菱つなぎ、牡丹など名物の名にふさわしい造りです。後に多くの模造品が造られますが、真如堂のこれが本歌です。

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書院の東庭は「涅槃の庭」とよばれ、1988年、曽根三郎氏によって作庭された枯山水庭園です。

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釈迦が亡くなるとき、北(左)を頭に、顔を西に向けて横たわり、まわりを弟子や釈迦の生母、生類たちが囲んで嘆き悲しんでいる様子を、石で表しています。また、白砂はガンジス川を、桧などは沙羅の林を表しています。生母は上の写真の木の左の石です。

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東山三十六峰を借景にして、大文字山(如意ヶ岳)Iが近くに見えます。

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この庭に面した3部屋の襖には、前川文嶺・孝嶺による孔雀、鶴、松が描かれています。前川文嶺は明治初期における京都画壇の中堅作家で、孝嶺は文嶺の子です。

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「随縁の庭」 2010年に重森千青(ちさを)氏によって作られた庭で、背後にある仏堂(位牌殿)の蟇股に付けられた四つ目の家紋をモチーフにデザインされました。「随縁」とは、真実は縁に因って様々な現れ方をするが、本質は変わらないことを意味するそうです。

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庭の石は、千青氏が境内から拾い集めたり、玉垣や縁石を再利用しものです。ちなみに、重森三玲は千青氏の祖父、四つ目は三井家の家紋のことです。この建物も三井家の寄進のようで、三井家の仏事はこの仏堂で行われるそうです。

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書院北に露地庭があります。

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書院の西庭には茶室や待合があります。

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「玄関」

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もう一度本堂に戻り、今度は裏から正面に回ります。

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本堂の南

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三重塔が見えます。

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