2024年12月 6日 (金)

南禅寺 参道から三門・法堂へ

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

先日の記事に続いて、南禅寺橋から参道を通って南禅寺境内に向かいました。下は橋の上からインクライン、いつも桜の頃に訪れていてこの時期に歩いたことがないかも知れません。

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「うつわや あ花音」 1990年に開店、生活に花を添え会話の音色を楽しむきっかけとなるような器を販売しているそうです。常設展と年に6回ほど展覧会を開催しています。久しぶりに開いているところを見ました。

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「八千代」 小川治兵衛の庭を眺めながら、南禅寺名物の湯豆腐や旬の食材を使い継承の技を伝える京懐石が頂ける料理旅館です。八千代は 安土桃山時代に御所に出入りを許された魚問屋として始まり、

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天正16年(1588)聚楽第での盛宴の際にご用命を受けたと記録に残っているそうです。上は旅館・宴会場の入口で、料亭の入口はその左にあります。店先の紅葉が鮮やかでした。

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「南禅寺参道 菊水」 料亭旅館の「菊水」が昭和30年(1955)にこの地に開業、7代目「小川治兵衛」が作庭した庭園と数寄屋造りの建物を配しています。1階には庭園を望むダイニングルームやテラス席もあり、気軽に利用できるそうです。

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「ブルーボトルコーヒー 京都カフェ」 築100年を超える伝統的な京町屋をリノベート。重厚な柱や梁の骨組みに、大きなガラス窓や高い吹き抜け、広々とした空間を活かした照明など、開放感溢れる店内になっています。裏にテラス席があります。

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「南禅寺 順正」利尻の昆布だしを使いなめらかな舌触りの湯豆腐が名物。「順正書院」(登録有形文化)は天保10年(1839)学問所として開設、豊富な山水を使ったその広大な庭園を眺めながら食事ができます(右に入口があり、下は売店です)。

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「綾戸大明神」 詳しい創建の時期は不明ですが、亀山法皇の離宮であったこの地に牛を飼う人がいて、醇酒を醸して帝に献上したそうです。応永年間(1394-1428)南禅寺の伯英和尚が廟を設け、南禅寺の鎮守としました。

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「真乗院」 室町時代の宝徳2年(1450)南禅寺第139世・香林宗簡(こうりんそうかん)がこの地に庵を創建しました。武将・山名宗全が深草郷を寄進、師・月庵宗光より深草の末寺・栄松寺、大圓庵とその所領も譲られました。

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享徳2年(1453)に香林が亡くなると、後花園天皇は真乗院の創建を許可し、香林の塔所となりました。その後は、華屋宗厳(1428-1486)が継ぎ、応仁の乱(1467-1477)後、現在地に再建されました。山名宗全の墓があります。

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南禅寺「中門」は、慶長6年(1601)松井康之より、伏見城松井邸の門を勅使門として寄進されました。後に、天皇からの勅使門の拝領に伴い現地に移され、現在は表門の役割をしています。

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境内の中央の参道横に、杉洞の句碑「この門を入れば涼風おのづから」。杉洞は伊万里市にある南禅寺派圓通寺の森永湛堂老師の俳号で、熊本県の白髪岳から運ばれた15トンの石に自筆。老師はホトトギス派の同人・選者で、門弟三千人といわれます。

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「三門」 南禅寺開創当時の永仁3年(1295)西園寺実兼の寄進によって建立されました。その後、改築と焼失を経て、現在の三門は寛永5年(1628)に藤堂高虎が大阪夏の陣に倒れた家来の菩提を弔うために再建しました。

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三門とは、仏道修行で悟りに至るために通過しなければならない三つの関門、空、無相、無作の三解脱門を略した呼称です。主として禅宗寺院では、本堂を涅槃(悟りの境地)として、そこに至る門を三門と呼びました。

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振り返って、「勅使門」は寛永18年(1641)明正天皇より、御所にあった「日の御門」を拝領したものです。古くは天皇や勅使の来山の折に限って開かれ、現代では住持の晋山に限って開かれます。

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三門をくぐって右(南)に「天授庵」。南北朝時代の暦応2年(1339)南禅寺開山・無関普門の塔所として建立されました。下はいつも閉まっている正門で、右に拝観入口の山門があります。左に「開山大明国師(無関普門)霊光塔」の石標があります。

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「正因(しょういん)庵」 南北朝時代の至徳年間(1384-1386)に南禅寺49世・徳叟周佐(とくそうしゅうさ、1324-1400)が隠棲。徳叟は常陸に生まれ、夢窓疎石に師事、等持寺、鎌倉・瑞泉寺、天龍寺の住持となりました。

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「法堂」は、法式行事や公式の法要が行われる場所で、南禅寺の中心となる建物です。創建当時のものは応仁の乱で焼失、その後復興されました。慶長11年(1606)豊臣秀頼の寄進により大改築されましたが、明治26年(1893)の火災によって焼失しました。

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法堂須弥壇上中央には本尊の釈迦如来、右に獅子に騎る文殊菩薩、左に象に騎る普賢菩薩が祀られ、天井には今尾景年筆の幡龍図が描かれています。幡龍(ばんりゅう)は、天に昇る前にうずくまってとぐろを巻いている龍です。

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最後は振り返って三門、このあと水路閣に向かいました。お帰りの際には、ブログランキングの応援のクリック↓をよろしくお願いします。

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2024年12月 5日 (木)

出世稲荷神社 2024秋

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先日、大原の念佛寺を訪れたあと、山沿いの旧道を南に歩きました。この道は三千院の裏参道(車参道)でもあります。下はおやつ処「玄印」 京わらび餅、ずんだ餅、黒豆大福、栗きんとん餅など餅菓子のお店です。

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喫茶「IRORI(いろり)」 喫茶を利用すると、駐車場を終日無料で利用することができるそうです。しば漬けの「志ば久」さんも、ここに駐車することをお勧めしています。ここで、山の斜面に沿って少し右に曲がります。

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同志社大学 大原農家キャンパス「農縁館」 現在では少なくなった茅葺(かやぶき)の建物です。左に「京都大原里づくり協会」の看板がかかっています。 

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この道や三千院周辺の寺院は高野川の河岸段丘の上にあり、はるか向こうの対岸の段丘にもかって茅葺屋根だった民家が見えます。高野川は出町で賀茂川と合流して鴨川と名を変えますが、実際は賀茂川よりはるかにスケールの大きな一級河川です。

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山側に鳥居がありますが、地図の上では神社は見当たりません。ちゃんとした石段があり、いつも気になっているのですがまだ行ったことがありません。

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「愛宕大神」と刻まれた石灯籠があり、このあたりでは愛宕信仰が盛んだったと思われます。愛宕灯籠、あるいは愛宕常夜灯ともよばれ、街灯の役割をしていたようです。

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この石垣はいまから訪れる出世稲荷神社まで続いています。

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「出世稲荷神社」天正15年(1587)に豊臣秀吉が聚楽第を造営するときに、邸内に日頃信仰していた稲荷神を勧請したのが始まりです。(左に社殿・授与所がありますが、最初に坂を上り奥の宮に向かいます。)

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翌年、後陽成天皇が聚楽第に行幸して稲荷社に参拝したときに、立身出世を遂げた秀吉にちなんで「出世稲荷」の号を授けたとされます。のちに、秀吉が関白職を甥の秀次に譲り、聚楽第はその邸宅となりました。

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聚楽第が取り壊された後も、出世稲荷は元の場所に鎮座していましたが、江戸時代前期の寛文3年(1663)に二条城西の千本通沿いに遷座しました。

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この狛犬は表情が可愛くて「笑う狛犬」として人気があるようです。その奥には一対の狐が社殿を護っています。

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「奥の宮」には出世稲荷大神(稲倉魂命)が祀られ、開運出世、衣食住、地位名望、衆人愛敬、農工商その他一切の生業に大繁盛、延命長寿と病気平癒、千客万来、武運長久、善知識、金銀財宝をもたらす10種類のご利益があるとされます。

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千本通では開運出世の神として大名や公家から庶民にいたるまでの崇敬を受け、江戸時代後期には庶民が寄進した300本を超える鳥居が立ち並んでいたといいます。(一番奥の「水天宮」には、子供の守護、水難除けなどのご利益があります。)

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奥の宮の左の「三石大神」(右から福石、寿石、禄石) かっては博徒相場師が信仰しており、現在では勝負の神として強運祈願が行われます。狛犬は江戸時代後期の町火消で侠客の新門辰五郎の奉納。

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辰五郎は文政4年(1821)の浅草花川戸での火災現場で纏を掲げて屋根に上り、遅れてきた柳川藩の大名火消しを落として負傷させ、両陣営が大喧嘩となりました。当時は屋根で幟を掲げた一番乗りの火消が、その消火活動を仕切る習わしでした。

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鎮火後に辰五郎は単身で柳川藩藩邸に乗り込み、下手人は自分であるため好きにしろと啖呵を切るも、柳川藩は処分できませんでした。この事件は世間の評判となり、を組の火消の辰五郎は江戸の町で名を上げました。

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明治以後には千本通界隈が映画興行の街として繁栄し、映画俳優や監督らが鳥居を寄進しました。下は牧野省三・尾上松之助等の寄進で向拝が新築された記念碑で、かっての社殿の前に建っていました。現在では遥拝所になっているようです。

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近年、千本通がビル街となり氏子も減少、狭い境内を駐車場にして社殿を維持してきました。「大神宮」には伊勢神宮内宮と同じ天照大御神を祀ります。

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しかし、老朽化した社殿の全面的な修復費用が工面できず、平成24年(2012)7月に境内地を売却して大原のこの地に移転しました。

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宮司さんは「苦渋の決断だが、場所が変わっても出世稲荷神社を残すことが一番と考えた」とおっしゃったそうです。社殿・授与所はかって旅館だった建物を利用しています。

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社殿には、清水焼陶工・六代目清水六兵衛作の御神体を安置しています。下は5年前の冬に特別に撮影させていただいた写真で、中央の厨子の中に御神体があります。(現在は撮影禁止になっています。)

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室内には堂本印象が奉納した「雲龍図」をはじめ、様々な奉納品が安置されています。かっては旅館の受付だった建物の入口は授与所になっています。

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御朱印や二対の鈴からなる「出世鈴」が人気で、二つの鈴は神様と自分に出世を誓うのだとか。また、節分に魔除けや厄除けに柊鰯(ヒイラギいわし)を玄関に飾る風習がありますが、鰯の代わりに出世鈴を飾った「ひいら木」があります。

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堂本印象がこの旅館を愛用していたことが後に分かり、三千院の客殿が聚楽第の資材を利用したこともあり、宮司さんはこの地に不思議な因縁を感じているそうです。ここから、少し遠いですが最後の目的地の寂光院に向かいました。

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