2018年2月22日 (木)

御香宮神社 表門から御香水へ

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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久しぶりに御香宮神社を訪れました。上は大手筋通にある大鳥居、下の「表門」(重文)は元和8年(1622)、 徳川頼房(水戸黄門の父)が伏見城の大手門を拝領して寄進したものです。正面を飾る蟇股には中国二十四考の物語が彫られています。

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「御香宮神社」の詳しい創建年は不明ですが、当初は御諸(みもろ)神社と呼ばれていて、平安時代前期の823年、筑前の香椎宮から豊前の宇佐八幡宮と山城の御諸神社に神功皇后(香椎明神)を勧請したという記録があるそうです。

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平安時代の862年、境内の椎の木の根元から香のよい清泉が湧き、病人が飲むと病が治ったといいます。清和天皇は「御香宮」と名づけ、勅令により社殿を修復させたといわれます。

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安土・桃山時代の1590年、小田原北条氏を破り天下統一をした豊臣秀吉は願文と太刀を奉納しました。さらに、伏見築城に際して鬼門除けの神として大亀谷に遷し、当社に社領300石を献上しました。参道の右手に「大杉大明神」が祀られています。

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その隣に「桃山天満宮」があります。南北朝時代の崇光上皇(北朝第3代)は、伏見殿から御香宮神社の東の木幡山の中腹、月見の丘の北の別御殿に移り、そこで亡くなりました。その後、別御殿は寺に改められ、その鎮守社としてこの天満宮が祀られました。

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安土桃山時代の伏見城の築城にともない、寺は臨川寺の東に移され天満宮はそのまま残り、荒廃しました。江戸時代に観音寺住職らが20年以上の歳月をかけて観音寺南に新たな社殿が建てられ、1969年に周辺の開発に伴い御香宮神社境内に遷宮されました。

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祭神として学問の神の菅原道真を祀り、御朱印もあります。大きな摂社で「厳島社」、「老松社」、「白太夫社」、「紅梅殿」など天満宮の摂社として祀られる末社が揃っています。大杉大明神もこの天満宮の末社と思われます。

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桃山天満宮の前に「迎賓館」があります。ここの庭園は、昭和に作庭されましたが、枯川が流れ、滝組、石橋、石組などに伏見城の残石を多く用いています。また、残石により造られた手水鉢や織部燈籠、五葉松、椿などの植栽があります。

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江戸時代になると、徳川家康は慶長10年(1605)に現在地に再び戻して本殿を造営して社領300石を献じました。下は「拝殿」(京都府指定文化財) 寛永2年(1625)、徳川頼宣(紀州徳川家初代)の寄進。正面軒唐破風は、手の込んだ彫刻によって埋められています。

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特に、五三桐の蟇股、彫刻は大瓶束によって左右に区切られ、右は「鯉の瀧のぼり」、左はこれに応ずるように、琴高仙人が鯉に跨って瀧の中ほどまで昇っている光景を描いています。

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本殿には祭神として神功皇后を祀り、安産、子育て、開運厄除などのご利益があるとされます。

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本殿の左手前に「御香水」が湧いています。伏見七名水の一つで、徳川家代々の産湯にも使われたといわれています。昔、諸国を回ってきた猿曳が息も絶え絶えにたどり着き、肩に乗っていた猿がこの水を飲ませるとたちまち元気になったという伝承もあります。

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水質検査で一時期飲用不可という結果がでたので、御香水をろ過したものが隣にあります。現在でも霊水として、病気平慰、茶道、書道用に持ち帰る人が多いそうです。

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本殿の右(東)に御香水の源の井戸があります。水が涸れていたのを1982年に復元したもので、現在は地下150mから汲み上げ、環境庁の「名水百選」(1985)に認定されています。

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本殿の左に社務所があり、その奥に伏見奉行だった小堀遠州が作庭した石庭があります。上洛して庭を見た家光がよろこび、小堀に5000石を加増して大名に列したといわれています。この日は遅かったので入っていません。

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拝殿の左の「能舞台」

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社務所の北にいる神馬、可愛いです。

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本殿の周りに摂社・末社が並んでいます。「稲荷社」

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踏みつけてしまいそうな小さな狛狐が社殿を守っています。

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「弁天社」の周囲は中根金作の作庭とされ、弁天池の島に社殿があります。池に架かる石橋は四つの長石からなり、常盤御前ゆかりの常盤井の井筒といわれています。1156年の平治の乱で源義朝は藤原信頼とともに平清盛に反攻するも敗北して討たれてしまいます。

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常盤御前は義朝との間に生まれた牛若ら3人の幼子を連れて都落ちします。大和街道を南下して、伏見の叔母を訪れますが災禍を恐れて追い払われます。隣家の女が母子に同情し家に迎え入れ、常盤御前らは家の井水を使い身を清めたといいます。

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これが「常盤井の井筒」として伝わり、後に御香宮神社に寄進されました。その隣は「松尾社」で松尾大神を祀ります。酒造りの彫刻があります。

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境内の一番奥に「東照宮」があり徳川家康を祀ります。

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家康は秀吉が伏見城の東北に遷した神社を再び現在地に戻して本殿を造営、徳川幕府によって社領が安堵、社殿が造営されるなど、御香宮神社再建の功労者といえます。

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本殿の裏(北)にある末社の「六社」、右から春日大明神、天満大神、新宮、熊野社、那智、金札宮。これらは境内の東北にあり、このあたりは「鎮守の森」だそうです。金札宮は当社の北西にある伏見で最も古い神社の一つです。

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境内の東北隅にある「太神宮」 伊勢神宮の内宮と外宮の祭神、天照坐皇大神と豊受大神を祀ります。皇室の氏神を祀る伊勢神宮は、明治から第二次世界大戦末までは全ての神社の上に建つとされ、摂社として勧請したり、遥拝所が設けられました。

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「豊国社」 本殿の東北にあり、当社再建のもう一人の功労者・秀吉を祀ります。秀吉は死後に後陽成天皇から「豊国大明神」の神名を賜りました。

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本殿の東に「四社」、右から、八幡、八坂、蛭子社、住吉大明神を祀ります。

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2018年2月21日 (水)

光福寺 六斎念仏と秀吉と勧進相撲

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叡電出町柳駅の東北に光福寺があります。「光福寺」は、正式には干菜山(ほしなざん)斎教院安養殿光福寺という浄土宗知恩院派の寺院です。俗に「ほしな寺」とよばれ、先日の砂川の三軒寺が出ていた古地図にはこの名で記載されています。

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寺伝によると、鎌倉時代前期の寛元年間(1243~47)に道空上人が西山安養谷(あんようがたに、長岡京市)に建立した一寺(斎教院)が起こりとされています。山門を入った左に地蔵堂があります。

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道空上人は六斎念仏を世に広めたことで知られ、その由緒をもって後柏原天皇から六斎念仏総本寺の勅号を賜わりました。山門の右手前にその石標がありました。山門からの参道の正面は本堂です。

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「六斎念仏」とは鉦や太鼓ではやし、念仏を唱えながら踊る民俗芸能で、平安中期に空也上人が一般庶民に信仰をひろめるため始めたと伝えられています。もとは六斎日(月に6日ある忌み日)に行われたのでその名があります。

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六斎念仏は、室町中期頃から能、狂言がとり入れられ、大衆化して六斎日にかかわりなく、お盆前後に行われるようになりました。(上の写真は山門の右手前の石板。)

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安土桃山時代の天正10年(1582)に、丹波国の月空宗心(げっくうそうしん)上人によって丹波国・武蔵寺を合併して現在地に移され、斎教院武蔵寺と称したとされます。本堂には、正和2年(1313)に花園天皇から賜った閉目の阿弥陀如来像を安置しています。

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文禄2年(1593)に豊臣秀吉が、鷹狩の途中に当寺に立ち寄ったときに、宗心上人が寺の窮状を訴えるために干菜(ほしな)を献上したところ、秀吉は手厚く保護して干菜山光福寺の称号を与えたといわれています。本堂の左に庫裡があります。

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干菜とは、大根や蕪の葉を干したもので、味噌汁の具や漬物として食する以外に、風呂に菜を入れた干菜湯もあったそうです。法然上人の幼少の頃の勢至丸像。

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また、高野川の河原で行っていた念仏踊りが秀吉の目にとまり、寺に招いて干菜を供したところ、秀吉は大いに感心したともいいます。(水子地蔵尊、優しいお顔でした。)

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庫裡の前から道が続く「収蔵庫」には、六斎念仏興起書等の諸文献や、秀吉が寄進した陣太鼓および秀吉画像等を収納しています。

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本堂の右手前に観音堂があり、江戸中期作といわれる如意輪観世音菩薩を安置しています。建物は宗心から5代目の正慶上人が建立し、その後江戸時代に再建されたものを、昭和55年(1980)に改築したものです。その横から墓地に入ります。

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墓地の北東の隅に、歴代住持の墓があります。新しいお花がお供えしてあり、いつも供養しているようです。

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その隣の「無縁塔」 多数の墓石、石塔、石仏が置かれています。石仏は墓地や境内の他の場所にもあります。北区紫野・出雲路や左京区下鴨・田中は石仏・地蔵の密度が高い場所だといわれています。こちらも新しいお花がお供えしてあります。

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京都では維新後の廃仏毀釈の中で、明治4年に地蔵撤去の京都府布令がでて、路上のすべての地蔵が撤去されました。その後撤回されましたが、現在各町内に祀られている地蔵は、いずれも地中や井戸から掘り出されたり、近所の寺社に避難していたものです。

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本堂前に戻って、参道の東に鐘楼があります当初の梵鐘は第二次世界大戦中に供出されましたが、開宗八百年(昭和49年)を記念して再鋳造されたそうです。

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「宇津の井戸」 その石組みは宗心上人が故郷の宇津から持ってきたといわれています。その奥に、正保2年(1645)、宗心から4代目の住職・宗圓上人が再建した鎮守社の八幡宮の玉垣が見えます。

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この八幡宮再建にあたって、宗圓上人は資金を集めるために糺の森で勧進相撲を興行し、見物人らの喜捨によって八幡宮が建てられました。喜捨とは、信仰に帰依して金品を献上する布施と違って、現在の入場料のようなものでした。

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勧進相撲は大相撲の原形といえるもので、江戸時代前期に盛んとなり、江戸、大阪、京都では頻繁に行われました。上の勧進相撲は10日間行われ、各地の相撲取りが出場し、大相撲の歴史に残るものでした。八幡宮は現存しませんが、小さな祠があります。

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ところで、京都では当初の仏教的側面を伝える「念仏六斎」に対して、笛などを使って芸能・娯楽的な側面を取り入れた「芸能六斎」が現れました。また、寺社が六斎念仏を行う場合には、各講は光福寺か空也堂の許可証が必要でした。

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かっては、空也堂系の六斎念仏は芸能六斎が多く、光福寺は芸能六歳を許さなかったそうです。現在では全国各地で行われている六斎念仏の中で、「京都の六斎念仏」は昭和58年に国の重要無形民俗文化財に指定されました。

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門前にある「人力車荷車通りぬけ禁・・」の石標は、数ある古い道路標識の中でも珍しいものだそうです。前の道が一乗寺方面に行く古道、寺の裏には高野川を遡る鯖街道があったので、境内を通り抜ける車で困っていたようです。

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