2017年5月26日 (金)

大徳寺塔頭・高桐院 緑の参道と庭園

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

一昨日の記事の大徳寺塔頭・瑞峯院を出て、高桐院を訪れました。こちらも通年公開している3塔頭の一つです。

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高桐院は、安土・桃山時代の慶長7年(1602)に細川忠興(三斎)が、叔父の玉甫紹琮(ぎょくほじょうそう)を開山として、父・幽斎の菩提所を建立したのが始まりです。創立年については別の説もあります。

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忠興は正保2年(1645)に83歳で亡くなり、遺言によりその遺歯がここに埋葬され、以後細川家の菩提寺として庇護されてきました。当初は、忠興の戒名からとった「松向寺」と呼ばれていたといいます。

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山門を入ると、直線的な参道の両側に楓と竹が植えられ、紅葉の頃は見事な色彩となります。この正面の門はいつも閉まっていますが、客殿に続いています。

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中門をくぐって左の正面が、

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拝観受付です。最初に右にある書院に行きます。

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書院の「意北軒(いほくけん)」  千利休が切腹した後、その邸宅が忌まれ取り壊されようとしたのを、玉甫が大徳寺に移し、その後高桐院に移されたといいます。「意北」とは心寂しいという意味だそうです。

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茶室「松向軒(しょうこうけん)」 秀吉の北野大茶会の際に、忠興が影向(ようごう)の松のそばにつくった茶室「松向庵」を書院の西北に移築したものとされます。忠興の戒名はこの茶室にちなんだそうです。

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今度は拝観受付の左にある客殿に行きます。

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参道の突き当りの閉じた門から回廊が客殿に続いていて、途中の小間は待合のようなもの(対面所?)だと思われます。

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小間から客殿が見えます。現在の客殿の建物は、忠興の末裔にあたる侯爵・細川護立が再建したものです。

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客殿の南庭 江戸時代初期の作庭とされます。楓が10数本植えられてる以外には、苔地と背後が竹林に覆われ、「楓の庭」とよばれています。

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苔地の中央奥に、細川ガラシャの墓標(欠灯籠の写し)が据えられれています。

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客殿中央の御霊屋には、玉甫陶像、下に歴代住持の位牌、左に細川忠興木像と細川家歴代の位牌、右に本尊の釈迦如来像、達磨大師木像が安置されています。

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客殿の西北に茶室「蓬莱」があります。裏千家13代・円能斎(えんのうさい)好みの八畳の茶室で、板額は細川護立筆の「鳳来」、左に書院床、床柱は北山杉のしぼり、天井は長板を組み合わせています。

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こちらは客殿の西の方。

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鳳来の前から庭に下ります。

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こちらの庭は、鳳来前庭あるいは書院(意北軒)の南庭になっています。

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袈裟形の降蹲踞(おりつくばい) 加藤清正が朝鮮出兵の際に朝鮮王城の礎石を持ち帰り、忠興に贈ったものといいます。

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ところで、細川忠興は、織田、豊臣、徳川の三時代に一貫した精神で身を処した戦国時代きっての智将といわれています。(中央が拝観受付で、左に書院、右に客殿があります。)

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また、教養人・茶人としても知られ、細川三斎として利休七哲の一人に数えられ、利休切腹の命の際には、忠興と古田織部だけが利休を見舞ったそうです。茶道の三斎流の開祖でもあります。

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正室のガラシャ(玉子)への愛情が深く、その父・明智光秀が本能寺の変を起こしたときは光秀への協力を断り、ガラシャを離縁せずに幽閉して累の及ぶのを避けました。

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その後、秀吉に羽柴性を与えられるなど取り立てられ、七将に数えらました。朝鮮出兵中、ガラシャに何通もの手紙を書いていますが、「(女好きの)秀吉の誘惑に乗らないように」という内容だったといいます。

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豊臣秀次切腹事件では、秀次に借金があったので秀吉に嫌疑をかけられましたが、松井康之が奔走して徳川家康が借金を返納して難を逃れたそうです。(細川家の墓所があります。)

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関ヶ原の戦いの直前、屋敷が西軍に襲撃されたガラシャは、人質となることを拒否して自ら命を絶ってしまいました。

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この石燈籠は、かって利休が愛蔵していて、秀吉に所望された際に蕨手に傷があることを理由に断ったそうです。後に忠興の所有になりましたが、「完璧すぎる」と更に笠の後ろを大きく削ったといわれ、「欠燈籠」と呼ばれています。

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ガラシャの死後遺骨は堺のキリシタン墓地に埋められ、後に忠興が大坂の崇禅寺へ改葬し、さらに高桐院に分骨しました。右手には細川家歴代の墓があります。

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高桐院は、本堂の耐震補強と屋根葺き替え、茶室廊下保存工事のため、今年の6月9日から来年10月末日まで拝観謝絶となります。工事中は参道への立ち入りや御朱印もできませんので、ご注意くささい。

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いつもコメントをくださる理学博士・宗本智之さん(munixyuさん)から、「第二句集かたこと~旅人~」を送っていただきました。難病で寝たきりの生活の中、独自の境地を歌い上げる作者の、第一句集から三年間の俳句の集大成です。(ご注文は、牧歌舎 東京本部へ)

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2017年5月25日 (木)

興聖寺 曹洞宗の名刹

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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ツツジの咲く三室戸寺から始まり、宇治で最後に訪れたのは興聖寺です。恵心院から宇治川をしばらく遡ると、興聖寺の「表門」があります。表門は、江戸時代の慶安年間(1648-1651)に建立されました。

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「琴坂」 山門までの緩やかな参道には桜や楓が植えられ、春と秋には観光客でにぎわいます。

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「興聖寺」は、山号を仏徳山(ぶっとくさん)、正式名称を観音導利興聖宝林禅寺という曹洞宗永平寺派の寺院です。下の「山門」は、江戸時代の1844年に改築された、明朝の建築様式の竜宮門で、楼上に釈迦三尊像と十六羅漢像を安置しています。

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鎌倉時代前期の安貞元年(1227)、比叡山を下り宋で曹洞禅を学んだ道元(1200-1253)が帰国し、しばらく建仁寺に身を寄せた後、深草(現在の京都市伏見区深草)の安養院に閑居しました。下は「藥医門」で、江戸時代後期の1846年に建立。

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閑居したのは寛喜元年(1229)頃のことで、安養院はかって深草にあった藤原氏ゆかりの大寺院極楽寺の跡で、現在の深草の宝塔寺付近にあったと推定されています。正面は法堂(本堂)で、江戸時代の1648年に伏見城遺構を移築したものです。

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天福元年(1233)、道元は深草に曹洞宗の道場を開創しました。当初は仏堂しかありませんでした。藥医門の右手にある庫裏からお堂に上がります。「拝観志納金」(300円)が必要です。

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その後、法堂や僧堂などが寄進・建立されて伽藍が整備され、嘉禎2年(1236)に開堂式が行われ、観音導利院興聖宝林禅寺(興聖寺)と号しました。拝観は本堂前庭(内庭)の周囲にある諸堂や回廊を回って一周します。

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しかしながら、興聖寺は比叡山延暦寺の弾圧を受け、寛元元年(1243)に道元は波多野義重の勧めで越前に逃れ、後を弟子の詮慧(せんね)に託しました。左の「大書院」、右の「方丈」に囲まれて美しい内庭があります。

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波多野義重は鎌倉時代の御家人、承久の乱で矢を眼に受けて隻眼、越前地頭、六波羅標定衆を務め、道元の外護者でした。道元は越前に逃れた翌年、波多野義重の援助で大仏寺(後の永平寺)を開きました。

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その後深草の興聖寺は荒廃し、住持4代で廃絶したといわれます。室町時代の応仁の乱(1467-1477)で伽藍も焼失してしまいました。ここから法堂です。

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伏見城の遺材で造られ、前縁は鴬張りの廊下、天井は伏見城落城の際の血染め縁板を用いています。

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江戸時代前期の慶安2年(1649)、淀城主の永井尚政が万安英種を招聘して5世住持とし、朝日茶園のあった現在地に復興したのが現在の興聖寺です。

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「開山堂(老梅庵)」は、江戸時代の1750年に塔頭・東禅院の大悲殿を移築したものです。

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開山堂は道元尊像を祀っています。

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開山堂の前庭は枯山水式の庭園で、苔地に石組を置き、植栽が施されています。向こうに本堂前庭を囲む回廊と僧堂が見えます。

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「天竺殿」 平安時代後期小野篁作の等身大「聖観音立像」(宇治市指定文化財)が安置されています。塔頭・書写林大悲院の本尊が近代に廃寺となり遷されました。中興開基の永井尚政、父・直勝、子・尚征、尚征の子・直円の各像を安置し、永井家の位牌も祀ります。

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大悲院は『源氏物語』の宇治十帖の舞台となった手習の杜の観音堂とされ、天竺殿の聖観音立像は「手習観音」とも呼ばれます。宇治十帖では、宇治川に身を投げた浮舟は、手習の杜付近で比叡山横川僧都に命を助けられました。

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僧堂の横の回廊に「三面大黒天」が安置されています。

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正面が大黒天と、側面には別の顔が刻まれています。

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法堂の反対側の回廊に来ました。左は珍しい六角堂の鎮守社で、秋葉三尺坊大権現を祀り火伏の信仰があるそうです。

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宇治川の塔の島の十三重塔は、鴨倉時代の弘安9年(1286)に建立された高さ15mの日本最大、最古の石塔といわれます。宇治川の架け替えの際の供養塔として建てられ、何度も倒壊、再建を繰り返してきました。

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江戸時代前期には永井尚政によって修理されました。現在の塔は明治41年(1908)に再建されたもので、その際破損のため使用されなかった相輪と9重目笠石が尚政ゆかりの興聖寺の庭に移されました。

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「梵鐘」(宇治指定有形文化財)は、江戸時代1651年の鋳造で、「興聖の晩鐘」として「宇治十二景」の一つに数えられています。、

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ところで、越前に逃れた道元は10年間を永平寺に住し、そこで『正法眼蔵』の著作と弟子の養成に全力を尽くし、日本曹洞宗の宗祖となりました。宝治元年(1247)鎌倉幕府執権・北条時頼に請われて半年間滞在し、関東での曹洞宗興隆のきっかけとなりました。

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建長4年(1252)に病気となり、波多野義重の勧めにより療養のため上洛しましたが、同月高辻西洞院(にある弟子覚念の屋敷において54歳で亡くなりました。

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山門の横にある「茶筅(ちゃせん)塚」 毎年10月第1日曜日に「宇治茶まつり」が行われます。「名水汲み上げの儀」で宇治橋「三の間」からくみ上げられた水が興聖寺に運ばれ、「茶壷口切の儀」、「供茶式」、「茶筅塚供養」などが行われます。

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2017年5月24日 (水)

大徳寺塔頭・瑞峯院 キリシタン大名と庭園

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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大徳寺塔頭の瑞峯院(ずいほういん)に行ってきました。「瑞峯院」は、通年公開している大徳寺塔頭の一つで、先月記事にした興臨院(春の特別公開)の隣にあります。

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瑞峯院は、室町時代の天文4年(1535)キリシタン大名として知られる大友宗麟が、大徳寺第91世・徹岫宗九(てっしゅうそうきゅう)禅師を開祖として、菩提寺を創建したのが始まりです。下の表門(重文)は創建当初のものです。

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徹岫禅師は、大徳寺86世の小渓紹?(しょうけいじょうふ)に師事し、翌1536年に大徳寺91世となりまじた。青年時代の上杉謙信に禅を指導し、後奈良天皇の帰依を受けたといいます。

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大友宗麟は南蛮貿易により経済力を高め、その間キリスト教への関心を強め、自ら洗礼を受けました。最盛期には九州六ヶ国を平定しましたが、島津義久に敗れて、晩年には秀吉傘下の一大名として豊後一国までに衰退しました。下の唐門(重文)も創建当時のもの。

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瑞峯院には宗麟の肖像画が所蔵され、境内には夫妻の墓があるそうです。(拝観入り口、禅寺は外国人の参拝客が目立ちます。)

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「方丈(客殿)」は、創建年に建立された室町時代の禅宗方丈建築の遺構で、重要文化財に指定されています。

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「独坐庭」 方丈の前庭で、中国の禅僧・百丈禅師が、独坐大雄峰と呼唱した禅語にちなんで名づけられました。開祖400年遠忌を記念して、1961年に重森三玲によって作庭された蓬莱山式庭園で、寺号の「瑞峯」をテーマにしています。

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絶え間なく打ち寄せる荒波にもまれながらも、雄々と独坐している石は、中国の名僧になぞらえているとか。

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築山から砂地までにそそり立つ石が、蓬莱山の山岳から続く半島を表します。

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正面の瑞峯院の扁額は後奈良天皇によるもの。

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中央に開祖の大満国師(徹岫禅師)の木像を安置しています。33枚の襖絵は野添平米画伯の作で、世界的名山といわれる朝鮮の金剛山とその大自然の雄大さを描いています。

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大きな砂紋と重森三玲の庭としては小さい石が、大海の荒波を強調しています。

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西の茶室の前まで海は続いていますが、ここは穏やかな入り海となっています。

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「餘慶庵(よけいあん)」 千利休が山崎に建てた「待庵(たいあん)」を、表千家8代・?啄斎宗匠(1744-1808)好みの席にうつしたものだそうです。毎月28日(千利休の月命日)に釜がかかるそうです。待庵は妙喜庵内にあり国宝3茶室の一つです。

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六畳台目の席、次の間、八畳の下座床の席、別に廊下を隔てて四畳半向こう切りの席がらなります。「茶庭」は、かっては一木一草を用いず、青石を一面に敷きつめた斬新なものでしたが、近年苔の植栽に飛び石という典型的な茶庭に改造されました。

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「閑眠庭」 方丈の裏庭(北庭)になり、「閑眠高臥して青山に対す」の禅語にちなんで名づけられたそうです。これは、俗世を離れて高みを目指し、山野でひそかに暮らすという意味だそうです。こちらも、同じ時期に重森三玲によって作庭され、静かな落ち着いた庭です。

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飛び石の奥に「平成待庵」があります。1990年に待庵を創建当時の資料によって忠実に復元に復元した建物で、拝観するには事前予約と特別拝観料(1,500円、法話・抹茶付)が必要だそうです。

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閑眠庭をここから見ると、縦に4個、横に3個の計7石が十字架の形に据えられていて、万民の霊を弔っているのだそうです。このため、この庭は「十字架の庭」ともいわれています。

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この庭の東は廊下で区切られ、廊下の先に茶室があります。 

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「安勝軒」 閑眠庭の東北隅ある茶室で、大徳寺山内唯一の逆勝手席になっており、床の間に向かって本床が左、脇床が右にあります。表千家12代・惺斎宗左宗匠(1863-1937)の指導により1928年に建てられました。

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宗麟の時代にも安勝軒という茶室がありましたが、享保年間に廃されたそうです。その軒号を付けたものです。

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方丈の東にある坪庭

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根元にマリア像のレリーフが彫られた「キリシタン燈籠」があり、閑眠庭の十字架はここからの延長線上に4石が置かれています。

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京都市ではここ4日間30℃を超える真夏日が続きました。今日はすこし気温は下がるとの予報ですが、体が慣れていないので皆さんも暑さに注意してくださいね。

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