2017年11月19日 (日)

西明寺 2017秋

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

Jnj_4211b
※写真は全てクリックで拡大します。

神護寺を出て、清滝川沿いの道を上流に向かって歩きます。この道は京都一周トレイルのコースにもなっています。途中の山肌は緑から赤まで様々に彩られ、街中の紅葉とは違う美しさです。

Jnj_3571a

しばらくすると西明寺の裏参道へ渡る橋があります。この参道は舗装されていて車道にもなっていますが、急な登りでお勧めできません。また愛宕神社に行く山道もあります。

Jnj_4009a

表参道の始まりの「指月橋」 橋を渡ったところに拝観受付があり、紅葉の時期だけ拝観料が必要です。このあたりの紅葉は晩秋のような雰囲気です。右の石標は「槙尾山聖天堂」。

Jnj_4243b

石碑の「大界外相(だいかいげそう)」とは、俗世間と聖域の境界(結界)のことです。ここから表門が見えま。「西明寺」は、山号を槙尾(まきの)山、院号を平等心王院(しんのういん)という、真言宗大覚寺派の準別格本山です。

Jnj_4221a

平安時代前期の天長年間(824-834)、空海の弟子で甥の智泉大徳(789-825)が開創した神護寺の別院が西明寺の始まりといわれています。「表門」(京都市指定有形文化財)は、江戸時代の元禄13年(1700)に建立された一間薬医門です。

Jnj_4212a

表門を入った右手にある「聖天(しょうでん)堂」 祀られている大聖歓喜天は、仏法を守護し、 仏道を行ずる人々を守護する神様で、夫婦和合の神でもあります。

Jnj_4076a

その後西明寺は荒廃しましたが、鎌倉時代中期の建治年間(1275-1278)、和泉国槙尾山寺の我宝自性上人が中興し、出家者の律院としました。律院とは戒律を厳守する寺、修行道場のことだそうです。(「本堂」も表門と同年に建立され、京都市指定有形文化財。)

Jnj_4090a

本尊の釈迦如来像(重文)は、鎌倉時代の仏師・運慶が清凉寺の釈迦如来像を模して作ったといわれています。脇侍に十一面千手観世音菩薩像(重文)、脇陣に愛染明王像が祀られています。

Jnj_4171a

1288年には後宇多天皇から平等心王院の院号を賜り、1290年に神護寺から独立しました。(下は本堂から聖天堂への渡り廊下から。)

Jnj_4116a

室町時代の永禄年間(1558-1570)兵火により焼失し、その後再び神護寺に合併されました。(本堂から外を撮影するのはOKだそうです。)

Jnj_4178a

安土・桃山時代の1602年、明忍律師(1576-1610)により再興され、真言律宗の本寺(本山)となりました。(本堂から客殿への渡り廊下)

Jnj_4130a

山側には斜面の上にある神社(鎮守社?)への道がありますが、何年も前から行けないようになりました。

Jnj_4166b

客殿は本堂より古く、江戸時代前期に移築されました。当時は食堂と称し、僧侶の生活や戒律の道場として使用されたそうです。ここでお茶とお菓子を頂けます。「八重」は焼菓子で、上品な甘みのこしあんを、もちもちした食感の生地で包んで、焼き上げたそうです。

Jnj_4161a

江戸時代の1700年、第5代将軍・徳川綱吉の母・桂昌院(1627-1705)の帰依により再建されたといわれますが、後水尾天皇中宮・東福門院(1607-1678)の寄進という説もあります。

Jnj_4137a

境内に下ります。本堂と聖天堂の渡り廊下の下から滝行の地や鎮守社に行けたのですが、現在は通行止めになっています。

Jnj_4184a

中央の背が高い木は高野槇で、樹齢700年の日本最古とされます。鎌倉時代の中興の祖・自性上人の手植えともいわれています。

Jnj_4092a

根本には自性上人の歌碑「白露のおのが姿をそのままに紅葉におけば紅の玉」。

Jnj_4074a

「鐘楼」 鐘は一撞き100円だそうです。

Jnj_4071a

戦後の昭和22年(1949)、戦時中に結成された大真言宗が解消され真言宗大覚寺派が独立したのにともない、西明寺は準別格本山として真言宗大覚寺派に属するようになりました。(境内の奥に行きます。)

Jnj_4201a

外から見た客殿

Jnj_4066a

客殿と社務所の間に庭園があり、「阿育王石柱」が建っています。石像彫刻家で特に狛犬(獅子像)彫刻を芸術にまで高めた名工といわれる小松寅吉の作品だそうです。私はそうとは知らず、お寺には珍しく西洋的な像だと思い毎年のようにブログに載せていました。

Jnj_4033a

一方、小松家の方や研究者、愛好家の方たちには、小松寅吉の最後の作品とされるこの像の行方が分からないままだったそうです。このブログの写真から西明寺にあることが分かり、私の疑問も解決してちょっと嬉しい経験をしました。池は紅葉で埋まっていました。

Jnj_4044a

ここから引き返します。

Jnj_4055a

表門に戻ってきました。

Jnj_4078a

表門の横に鮮やかな色の紅葉があるのですが、落ち葉の絨毯になっていました。

Jnj_4079a

見上げるとまだ紅葉が残っていました。

Jnj_4087b

お帰りの前に、ブログランキングの応援のクリック↓をよろしくお願いします。

  ★こちらを是非よろしく→   ブログ村→にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
-------------------------------------------------------------------

Jnj_4144a

| | コメント (1)

2017年11月18日 (土)

神護寺 後編 2017秋

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

Jnj_3831a
※写真は全てクリックで拡大します。

昨日の記事で和気清麻呂の墓にお参りしたおかげで、神護寺の大事な建物をまだ訪れていませんでした。実は拝観受付の方が「地蔵院がお勧めです」とおっしゃっていたので、ちょっと楽しみです。*うっかりしていて、記事の公開が遅れてしまいました。

楼門からの参道の突き当りに「五大堂」があります。平安時代の天長年間(824-834)に淳和天皇の勅願により建立されたといい、現在の建物は江戸時代の1623年頃の再建。

Jnj_3771a

五大堂の背後に「毘沙門堂」があります。江戸時代の1623年頃に建立され、厨子内に毘沙門天立像(重文)を祀っています。現在の金堂が完成するまでは、本尊の薬師如来像も安置していました。

Jnj_3782a

昨日は神護寺の歴史について、どちらも和気氏にゆかりのある「神願寺」と「高雄山寺」が平安時代の天長元年(824)に合併してできた寺が始まりというところまで紹介しました。(「石造転法輪」、南無阿弥陀仏と唱え一回転させれば、念仏6万遍の功徳があるとか。)

Jnj_3793a

「大師堂」(重文)は安土・桃山時代の建立で、元の建物は空海の高雄山寺時代の住房「納涼房」だったそうです。毎年11月1日~7日の期間、大師堂の本尊・板彫弘法大師像が御開帳されます。

Jnj_3797a

天長元年の太政官符には、この年神願寺と高雄山寺の寺地を交換し、寺号を「神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)」とし、この寺は定額寺(官が保護を与える一定数の私寺のこと)に列せられたと記録されているそうです。(祖師堂の前から金堂)

Jnj_3790b

寺地の交換が行われたのは、神願寺があった土地は低湿の砂地で「汚穢」(けがれ)があり、仏法の道場としてふさわしくなかったからといわれています。(金堂の石段の上から、左手前は五大堂、その奥が毘沙門堂です。)

Jnj_3814a

金堂は和気公霊廟と同じく、1934年に山口玄洞の寄進、安井猶次郎の設計です。金堂内陣には、8世紀末作の「薬師如来立像」(国宝)が祀られています。この仏像はかつて神護寺の前身寺院の一つ河内・神願寺の本尊でした。

Jnj_3817a

二つの寺が合併した「神護国祚真言寺」とは、「八幡神の加護により国家鎮護を祈念する真言の寺」という意味だそうです。国祚(こくそ)は国が栄えること、国が安泰なことです。(金堂の右手、和気清麻呂の墓参道はこの右を通ります。)

Jnj_3822a

また、寺の根本史料である「神護寺略記」や他の文献でも、古くから略称の「神護寺」と記されており、現在の楼門に架かる板札にも神護寺と書かれています。寺号にある国祚の文字をはばかったと考えられます。(金堂の左の坂道を上ります。)

Jnj_3866a

坂道の上に「多宝塔」があります。内陣には平安時代前期作の「五大虚空菩薩坐像」(国宝)が安置されています。こちらは、10月の連休に御開帳されます。

Jnj_3850a

空海は大同4年(809)から14年間高雄山寺に住し新しい寺号を定めましたが、合併する前年に東寺に移っています。(多宝塔の坂道を下りたところにある石標には「左地蔵院近道」とあります。)

Jnj_3840a

地蔵院への近道の途中にある「閼伽井(あかい)」 平安時代初めの812年、空海が金剛界、胎蔵界両部の伝法灌頂を行った際に掘り、浄水を儀式に用いたといわれ、今も水が湧いています。

Jnj_3873a

その後空海は東寺や高野山の経営にあたります。一方、神護寺は空海の後、弟子の実慧や真済が別当(住職)となって維持されましたが、平安時代末期には衰退してしまいました。(閼伽井からの水が池となっています。)

Jnj_3876a

『平家物語』などで知られる武士出身の僧・文覚は仁安3年(1168年)、神護寺に参詣、八幡大菩薩の神意によって創建され、弘法大師空海ゆかりの地でもあるこの寺が荒れ果てていることを嘆き、再興の勧進を始めました。(地蔵院がある高台に来ました。)

Jnj_3884b

俳人・能村登四郎(1911-2001)の句「初紅葉せる羞ひを杉囲み」 能村は水原秋桜子に師事して、「馬酔木(あしび)」の同人、「沖」の主宰でした。

Jnj_3888a

文覚は神護寺の再興を後白河天皇に強訴したため、伊豆国に配流されました。下は「地蔵院」 明治33年(1900)に再建された塔頭で、地蔵菩薩(世継地蔵)を祀ります。

Jnj_3902a

文覚は摂津源氏傘下の武士団である渡辺党の出身で、伊豆国は渡辺党の棟梁・源頼政の知行国でした。伊豆国で、文覚は同じく配流の身だった源頼朝と知り合います。

Jnj_3908a

後に頼朝が平氏や奥州藤原氏を破り権力を掌握していく過程で、文覚は頼朝や後白河法皇の援助を得て神護寺、東寺、高野山大塔、東大寺など、各地の寺院の所領を回復したり建物を修復しました。(振り返って見た地蔵院、このあたりの紅葉は鮮やかでした。)

Jnj_3932b

また頼朝のもとへ弟子をつかわして、平維盛の遺児六代の助命を嘆願して神護寺に保護しました。かわらけ投げの場所に来ました。厄除け祈願の「かわらけ投げ」は神護寺が発祥地といわれています。かわらけは素焼きの皿で、中央に厄除と刻印されています。

Jnj_3912a

文覚は神護寺の中興の祖となり、頼朝が征夷大将軍として存命中は幕府側の要人として大きな影響力を持っていました。しかし、頼朝の死後は将軍家や天皇家の相続争いなどのさまざまな政争に巻き込まれてしまいます。

Jnj_3914a

三左衛門事件に連座して源通親に佐渡国へ配流され、通親の死後許されて京に戻りますが、元久2年(1205)には後鳥羽上皇に謀反の疑いをかけられ、対馬国へ流罪となる途中亡くなりました。(江戸時代にはこのあたりにも堂宇があったそうです。)

Jnj_3927a

神護寺の完全な再興は弟子の上覚(上覚房行慈)によって成し遂げられました。なお、鎌倉時代に華厳宗を復興し、高山寺を中興した僧・明恵は上覚の甥で、やはり神護寺の住職を務めたことがありました。(ここから引き返します。)

Jnj_3940a

その後、鎌倉・南北朝時代には後醍醐天皇が神護寺に行幸、灌頂を受けるなど朝廷とのつながりが続きました。室町時代の応仁の乱(1467-1477)により焼失、さらに天文年中(1532-1592)の兵火でも焼失しました。

Jnj_3944a

安土・桃山時代には豊臣秀吉による寺領の寄進があり、関ヶ原の戦いの後の1601年には徳川家康によって寺領が返還されました。さらに、1623年京都所司代・板倉勝重が奉行になり、細川忠興の援助も得て、多くの伽藍の復興が行われました。

Jnj_3958a

明治元年(1868)の神仏分離令後の廃仏毀釈により、境内や寺領は没収され、塔頭9、坊15が廃止されました。一方で、明治7年(1874)、和気清麻呂と広虫を祀っていた清麻呂霊廟護王社は別格官幣社となり、護王神社と改名され後に京都御所の西に遷されました。

Jnj_3979a

昭和10年(1935)、京都の豪商・山口玄洞の寄進により、金堂、多宝塔、清麻呂廟、唐門などの伽藍の再建、修復が行われました。現在の寺領地が返還されたのは、戦後の昭和27年(1952)になってからです。

Jnj_3988a

高雄橋まで戻ってきました。

Jnj_3994a

Jnj_3956a

お帰りの前に、ブログランキングの応援のクリック↓をよろしくお願いします。

  ★こちらを是非よろしく→   ブログ村→にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
-------------------------------------------------------------------

Jnj_3802b

| | コメント (1)

«神護寺 2017秋