2026年3月 6日 (金)

京都御苑 梅と桃の開花状況

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日は梅と桃を見に京都御苑に行ってきました。京都地方気象台は2月22日、京都市で梅の開花を観測したと発表しました。平年と同じ日での開花となり、昨年の3月11日と比べると17日早い開花となりました。

最初にいつものように京都御苑の北東にある「石薬師御門」をくぐります。下は京都御所の北東にある「中山邸跡」、明治天皇出生の地で、幕末から明治維新にかけて活躍した中山忠能の娘・中山慶子が明治天皇の生母です。

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木製格子塀の改修工事中で、年度末なのか苑内のあちこちで工事が行われていました。塀の中にある紅梅は開花していて、よく見えませんが見頃のようです。

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工事フェンスの外にある塀際の白梅は満開でした。

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京都御苑を管理しているのは一般財団法人国民公園協会で、そのHPには季節の花の開花状況のお知らせがあります。下は京都御苑の北西にある「乾(いぬい)御門」で、右に児童公園があり、梅林や桃林は左(南)にあります。

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京都御所の南西角に名木「清水谷家の椋(むく)」があり、ここから道の西(右)の一帯が「桃林」と「梅林」のエリアです。

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下の桃林から梅林のエリアは、平安時代前期に公卿の藤原基経の枇杷殿があり、屋敷に住んだ藤原長良は枇杷中納言といわれました。後に、藤原道長が邸宅を買い取り、里内裏として一条天皇の中宮・彰子(道長の長女)も移り住んだそうです。

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桃林には約70本の桃が植えられています。先ほどの国民公園協会の3月4日のお知らせでは、桃林の桃は見頃となっていました。以下3枚はバラ科サクラ属の「ハナモモ(花桃)」だと思います。

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ハナモモは観賞用に品種改良されたモモの仲間で、春に白、ピンク、赤などの華やかな花を咲かせます。

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また、1つの芽から2つの花が咲く傾向があるそうです。中国原産で、日本でも古くから庭木や公園の樹木として親しまれてきました。

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江戸時代の京都御苑は、140以上の宮家や公家の邸宅が立ち並んでいましたが、明治初めに東京へ都が移り邸宅が取り除かれました。ここからは「梅林」です。

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その後、この辺りにはたくさんの梅が植えられましたが、戦中、戦後の混乱期にはかなり荒廃してしまいました。

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戦後はGHQによって進駐軍の宿舎用地として接収されかけましたが、反対運動により中止。1949年に環境庁が管轄する国民公園として京都御苑は一般公開されました。

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公開後に改めて整備するにあり、京都各地の神社から譲り受けた穂を接ぎ木で育てて今の梅林が形作られたそうです。

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梅林には約200本の梅が植えられ、例年では2月に入ると早咲きの梅が開花しはじめます。3月の初めになると梅林の多くの梅は咲きはじめて、3月上旬から中旬ごろに見頃となります。

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京都御苑には、明治時代に植えられた樹齢100年の木や、環境省が巨樹とした幹周り300cm以上の木がたくさんあります。下はエノキの大樹で、アオバズクが営巣・子育てをしたことあるそうです。枯れ枝が落下する可能性があるので周囲は立入禁止です。

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「出水口」からの道の南に「出水の小川」があります。母子で水にふれあう親水広場として整備された100mほどの人工の小川です。地下からくみ上げた井戸水が深さ数cmの浅い小川となって木陰を流れ、夏には水遊びをする子供達で賑わいます。

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水辺にはさまざまな動植物も見られ、周辺には桜が植えられて桜の見どころの一つにもなっています。昨日はシンロウバイが咲いていました。

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「京都御苑歴史ふれあいの道」のプレート。平安から幕末、明治までの歴史の遺産や、このあたりにあったと想像される場所に駒札型の案内板が設置されています。日本語のほか、中国語、ハングル、英語で書かれ、御苑全体20箇所あります。

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そのうちの18箇所に小さな凹凸がついた金属板がついていて、A4の紙をあてて上から鉛筆などでこすると絵の一部がでてきます。駒札ごとに絵は違い、全部を集めると一つの絵が完成、絵は四季ごとに替わるそうです。

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下は京都御所の「建礼門」から続く「建礼門前大通り」で葵祭や時代祭の祭列がここから出発します。通りの南東隅に「黒木の梅」があり、もとは南の九條邸にあったものを大正天皇即位大礼の時にこの位置に移植しました。

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この梅の原株は英照皇太后(1835-1897、孝明天皇の后)が幼少のとき、生家の南大路家で愛でられていたといわれています。英照皇太后は明治天皇の嫡母で、実母は最初に登場した中山慶子です。黒木の梅は遅咲きの紅梅で、見頃の状態でした(最後の写真)。

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2026年3月 5日 (木)

鳥羽・伏見の戦いと明治天皇・大阪行幸

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日に続いて鳥羽離宮跡公園の北にある「秋の山」の前に来ました。

平成10年(1998)に建てられた「鳥羽伏見の戦勃発の地小枝橋」の石碑(右)と戦いの戦闘図(官軍と幕府軍の配置図)があります。このあたりは、戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見の戦いの戦場となった場所でもあります。

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慶応3年(1967)10月、将軍徳川慶喜が大政奉還後も、薩摩の大久保利通や公家の岩倉具視らはあくまで武力による倒幕を目指し、12月に王政復古の大号令を発令、徳川幕府の事実上の廃絶が決定されました。

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その後も薩摩藩の挑発行動が続き、混乱を避けるために大阪城に退避した徳川慶喜は強硬派の意見に従い、薩摩を討つため上洛を決意します。秋の山の頂上には明治45年(1912)に建てられた「鳥羽伏見戦跡碑」があります。

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慶応4(1868)年1月3日、旧幕府軍は鳥羽街道と伏見街道に分けて京都に進軍しました。(公園の北西から鳥羽街道に出れます。突き当りの右は新城南宮道で、以下の数枚は幕府の進軍方向に歩きます。)

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新政府軍は、竹田、城南宮周辺に布陣し、鳥羽街道を北上する旧幕府軍とこのあたりで衝突、両軍の押し問答が続きました。(左に曲がったところに鴨川と小枝橋があり、その先は千本通で市内中央に至ります。)

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旧幕府軍が強行突破しようとすると、薩摩藩がア-ムストロング砲を発射、旧幕府軍15,000人と新政府軍6,000人の激しい戦いが始まりました。(ここは小枝橋の東詰で、正面に道標があります。)

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こうして始まった戊辰戦争は、翌年の明治2年(1869〉5月の函館五稜郭の戦いまで続き、新政府軍が勝利します。(道標の後ろに昭和43年建立された「鳥羽伏見戦跡」の石標があります。)

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この地は明治という時代が始まった場所でもあります。

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下は新城南宮道と国道1号線との交差点から、突き当りが鳥羽伏見戦跡で、新政府軍はこのあたりに布陣をしました。

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ところで、城南宮の朱の鳥居のそばに「明治天皇行在所真幡寸神社」という石標があります。明治天皇は戊辰戦争のさなかの慶応4年3月21日、大坂行幸の途中、この地真幡寸神社(城南宮)で昼食をとり,その日は石清水八幡宮に宿泊しました。

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4月7日に大坂を出発し淀城で宿泊。翌日鳥羽で休憩後京都へ還御しました。(下は伏見の豪川に架かる蓬莱橋、鳥羽伏見の戦いが始まる前日夕刻、会津藩の先鋒隊約200名が大坂から船で伏見京橋に上陸、この地で新政府軍と戦いました。)

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行幸の名目は親征(天皇自らが軍の指揮をとること)・海軍検閲でしたが、実は大久保利通の大阪遷都論が契機でした。大久保利通は、王政復古のあと、天皇が親政を行うには首都を京都から大阪に遷すことが必要だと主張しました。

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行幸が始まった時期は新政府軍の江戸城総攻撃の直前でした。もし江戸が焼け野原になったら大阪遷都が現実的になったかも知れません。しかし、西郷隆盛と勝海舟の会談で総攻撃は中止となり、4月に無血開城が実現しました。「伏見口の戦い激戦地」 

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同月、この状況の中で前島密は大久保宛てに江戸遷都論を書き送りました。前島は当時薩摩藩洋学校の講師を経て幕臣となっていました。道路が狭い、港湾は大型船に向かない、開拓が必要な蝦夷地から遠いなどの理由を挙げて大阪遷都に反対しました。

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上の桃陵団地西入口に「伏見奉行所跡」の石碑、1月3日に勃発した伏見の戦いの跡です。幕府軍は会津藩や新選組1500人が伏見奉行所に入り、御香宮に陣を張った薩摩藩800人の新政府軍と対峙。激しい戦いとなり伏見奉行所は焼失しました。

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江戸城無血開城の後は大久保も江戸遷都に傾きました。徳川慶喜を説得しやすくなるうえ、ロシアの南下や反維新の東北列藩に対応する必要もあったといわれています。下は伏見の戦いで両軍が白兵戦を繰り広げた京町通。

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同年7月に明治天皇は江戸を東京と改称する詔書を発し、10月に東京に初行幸。翌年改めて行幸して、実質的に東京が首都になりました。下の「京料理・魚三楼」の格子には当時の弾痕が残っています(最後の写真)。

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