2026年7月22日 (水)

木屋町通を歩く 押小路通から二条通

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

Anp_6743a
※写真は全てクリックで拡大します。

今日は木屋町通の最後で、押小路通から北端の二条通まで歩きます。手前の路地の先は「新三浦」。大正初期の創業の水炊き鳥料理のお店で、井戸水と鶏ガラを10時間以上煮出してとった白濁したスープ、使うのは国産の朝びき若鶏のみ、

それにキャベツ、丁子麩、白餅、葛きり、椎茸などが入ります。鳥水だき以外にも焼きもの、揚げもの、煮物などの鳥料理もおススメです。夏には納涼床でお食事をすることができます。建物は女優・森光子の生家で、当時のままの部屋も残っているそうです。

Anp_6751a

「割烹やました」 京料理の割烹でおススメはアラカルトです。1階の14席のカウンターに陣取って、自分の好みやその日のおすすめの食材を職人らと相談しながら食べるのがこの店の定石とか。

Anp_6750a

「豆屋源蔵」 お茶屋を改装した趣きある建物で、盛り付けも繊細で美しい、豆腐を主としたカジュアルな京料理を頂けます。ほっと温まる湯豆腐のコク、湯葉の優しい味わいが出汁と共に染みわたります。鴨川に向かって並んで座れる2人席もあります。

Anp_6805a

「史蹟 高瀬川一之舩入」 現存する唯一の舟入で、1934年、国の名勝天然記念物に指定されました。船入は船がすれ違うために退避したり、荷物の揚げ降ろしをする水路で、二条~四条間には九つの船入があり、最盛期には170隻の高瀬舟が行き交いました。

Anp_6807a

右に句碑があり、「舟入の灯影に明くる春の雪」。作者の那須乙郎(1908-1989)は滋賀県生まれ、水原秋桜子に師事、「向日葵」を創刊、京都俳句作家協会を設立しました。

Anp_6809a

左の路地の奥に「鮨 森学」、地元舞鶴をはじめとする全国各地から厳選した旬のネタを使用、職人が腕によりをかけて握る寿司を楽しめます。新鮮な素材の風味を最大限に引き出すため、日々の仕入れにも細心の注意を払っているそうです。

Anp_6810a

「OIWA」という看板があり、地図にはオオイワビルと書いてあります。ネットには情報はありませんが、後に出てくる串揚げ屋さんの事務所ではないかと思います。

Anp_6812a

ここが高瀬川の北端で、船底が浅い「高瀬舟」が置いてあります。伏見の酒、味噌、米俵、薪など、当時の典型的な積荷がのっています。

Anp_6818a

右(西)は「京都銀行会館」。「京都銀行協会」は明治14年(1881)当時市内に所在した銀行8行が協議の上「京都同盟銀行」を結成し業務上の研究打合せおよび手形交換手続等の相談をしたのがはじまりです。奥に日本銀行京都支店の建物があります。

Anp_6822a

「島津創業記念資料館」 創業100年を記念して1975年に創業の地に開設。創業者の島津源蔵はかつて仏具職人で、文明開化と共に欧米から入ってきた科学に興味を持ち、明治8年(1875)に会社を興し、その技術で科学実験教材を次々と国産化しました。

Anp_6823a

2代目も父親に負けじと科学に没頭し、日本で初めてのX線撮影に成功するなど事業を医療・分析機器へ広げました。島津製作所は次々と画期的な技術の分析機器を開発し、後に田中耕一氏のノーベル賞を生みました。

Anp_6829a

がんこ高瀬川二条苑」 手頃なお値段で本格的な和食や懐石料理がいただけます。少人数から利用できる個室を用意、夫婦や気心の知れた方とのお食事にも最適。ここはかって、角倉了以の別邸と庭でした。

Anp_6826a

その後、明治の総理大臣・山縣有朋(1838-1922)の別邸「第二無鄰菴」となり、後に何人かの所有を経て串大岩が所有、現在は料亭「がんこ高瀬川二条苑」となっています。「角倉了以別邸跡」の碑

Anp_6828a

「がんこ高瀬川源流庭園」 鴨川の西の河川敷を流れるみそそぎ川から取水した水がこの庭園を流れ、高瀬川の水源となります。かなりの水量です。お客は庭園を散策できます。(下は以前の写真)。

Dsh_9107b

「串 大岩」 老舗の串揚げ屋さんで、蔵を改装した雰囲気のある店内です。高瀬川コースは串揚げが12種類て、サラダ、小鉢、ちりめんじゃこのご飯、デザートがついています。お任せコースは全24種類の串揚げがストップするまで出てきます。

Anp_6831a

二条通との交差点南東の建物、「株式会社 晴光社」、「不動産振興株式会社」、「株式会社 有集社」、「高田正康事務所」という看板がかかっています。

Anp_6832a

木屋町通の二条通への突き当りは「善導寺」、正式名称を「終南山真光明院善導寺」という浄土宗知恩院派の寺院です。室町時代末期の永禄年間(1558-1569)に然誉清善(ねんよせいぜん)上人によって六角堂の近くに創建されたと伝えられます。

Anp_6836a

江戸時代の天明の大火(1788)によって焼失、第4世旭誉(きょくよ)上人の時代に長谷川重兵衛の寄進によって現在地に移りました。幕末に、安政の大獄で尊王派の志士たちを検挙した島田正辰が暗殺された場所でもあります。

Anp_6837a

隣は「ヴァルズビル」、築1993年、8階建、15戸、1K/1R/1DK/1LDKのマンションで、管理人 巡回、タイル貼り、オートロック、エレベーター、駐輪場ありです。「BAR K6」とバー「Cave de K」が入っています。

Anp_6845a

左の数軒先に「貝葉書院」があります。黄檗山萬福寺の塔頭・宝蔵院に収蔵されている重要文化財「鉄眼版一切大蔵経」のうち大般若経を主に出版しているそうです。木版手刷りの経本の印刷・製本は宝蔵院でおこなっています。

Anp_6846a

励みになりますので、ブログランキングの応援のクリック↓をして下さると嬉しいです。

★こちらを是非よろしく→   ブログ村→にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
-------------------------------------------------------------------

Anp_6838a

| | コメント (1)

2026年7月21日 (火)

西本願寺 書院と飛雲閣

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

Ajnh_1129a
※写真は全てクリックで拡大します。

西本願寺では、「世界遺産・西本願寺を巡る 国宝特別拝観」が行われています。西本願寺は、豪壮華麗な桃山文化を彷彿とさせる飛雲閣や書院、阿弥陀堂、御影堂などの国宝や重要文化財を数多く所蔵しています。特別拝観は、通常非公開の国宝を

僧侶の分かりやすくユニークな解説とともに巡ります。ただし、京都駅前にあるTHE THOUSAND KYOTOの宿泊者限定プログラムです。書院と飛雲閣は年に1,2回、一般向けの特別拝観もあります。以下では書院と飛雲閣を紹介します。

Ag260721a

西本願寺は慶長元年(1596)の大地震で諸堂が倒壊、元和3年(1617)の火災でも両堂や対面所などを焼失。寛永13年(1636)に御影堂が再建、対面所などの書院や飛雲閣、唐門が整備されました。「書院玄関」(重文)、対面所への入口です。

Ana_2543a

「書院」(国宝)は対面所と白書院、黒書院からなり、桃山時代の書院造を代表する大建築です。狩野派の渡辺了慶一派や円山派が手がけた美しい金碧障壁画や重厚な彫刻で飾られています。28頭の虎を描いた「虎の間」の「竹林群虎図」(復元模写)

Amg_20220301_0003d

203畳敷きの「対面所」は、欄間に鴻(コウノトリ)の透かし彫りがあることから「鴻の間」とも呼ばれ、その西側には「雀の間」「雁の間」「菊の間」など、意匠を凝らした小部屋が並びます。

Amg_20220301_0002a

欄間のコウノトリの透かし彫り 部屋の内部の写真は京の冬の旅のHPとガイドブック、西本願寺のHPからの転載です。

Amg230213d

対面所下段左側の巨松と花鳥を描いた金碧松鶴図

Amg230213f

「南能舞台」(重文) 江戸時代前期に整備され、対面所を見所とした切妻造の舞台。現在も毎年5月21日の親鸞聖人降誕会の祝賀能で使用されています。国内最大の能舞台ともいわれ、間をとりにくい縁者泣かせの舞台だそうです。

Amg230213e

対面所の西にある雀の間には、金地著色の竹雀図の障壁画が描かれ、格天井には金碧様式の美しい花卉図(かきず)が描かれています。細密な写実的手法で、三十六の格間に四季折々の花が花菱文様に囲まれた円相の中に描かれています。

Amg230213h

対面所の東にある「虎渓(こけい)の庭」は、派手で大胆な桃山時代の様式を伝える特別名勝の枯山水です。虎渓とは中国江西(こうせい)省の廬山(ろざん)にある渓谷のことで、御影堂の屋根を名山・廬山に見立てた借景としています。

Amg230213a

「白書院」は対面所の大広間に対して小広間とも呼ばれ、門主の対面の儀式や賓客の接待などに使われていました。二十四畳敷の一の間(紫明の間、下の写真)を主室とし、二の間、三の間(孔雀の間)の絢爛豪華な三室が一列に並んでいます。

Amg_20220301_0003a

一番奥の三の間は樹木と孔雀を中心とした金碧花鳥図です。この三の間は、室内能舞台にもなります。対面所と白書院のどちらも、門主の座る上段の間の横に「武者隠し」があり、本願寺の厳しい歴史を反映しています。

Amg230213j

「北能舞台」(国宝) 懸魚(げぎょ)に天正9年(1581)の銘があったとされ、現存する最古の能舞台で、能舞台としては唯一の国宝です。白書院を見所とし、正面が入母屋造りの簡素な能舞台で古式を感じさせます。

Amg_20220301_0003c

「黒書院」(国宝) 白書院と板敷と畳敷の複廊で繋がる瀟洒な建物。内輪の対面や接客、門主が寺務を行う場でした。主室の一の間、二の間を中心に茶室、鎖の間、広敷などからなり、一の間や二の間、茶室には狩野探幽の水墨画が描かれています。

Amg230213i

「東狭屋(ひがしさや)の間」 狭屋の間は幅が狭く細長い空間であるため通路や廊下のように見えますが、畳が敷かれていて部屋と見なされます。天井は書物の絵(下の写真)で、鼠避けの「八方睨みの猫」が一匹だけ混じっています。

Amg260213c

「飛雲閣」(国宝)は3層のこけら葺(ぶ)きの楼閣です。池は「滄浪池(そうろうち)と呼ばれ、楼閣は金閣、銀閣とともに「京都三名閣」と並び称されています。この池から右(西)に池泉式庭園「滴翠(てきすい)園」が広がっています。

Ani_3554a

滴翠園は、江戸時代前期(1618年)に聚楽第から飛雲閣を移した際に、苑池として造られました。本願寺18世・文如により滴翠園奉行が置かれれて整備が始まり、「滴翠園」と名付けられたといわれます。

Ani_3567a

園路の横は滄浪池にそそぐ涸流れで、途中に文如による毫塚の「乾亨主人毫塚」があります。

Ani_3599a

園路の右は「艶雪林」で七重石塔「俗風塔」があります。文覚上人の塔とされ、江戸時代前期の寛永年間(1624-1643)に移されたといわれます。文覚(生没年不詳)は平安末期から鎌倉初期にかけての武士、真言宗の僧で、孫弟子に明恵らがいます。

Ani_3581a

江戸時代中期(1768年)には2つの茶亭「澆花亭」「青蓮樹」が置かれ、涸流れの向こうに待合があります。ここから園路を飛雲閣の前まで戻ります。

Ani_3585a

この滄浪池には流れ込む川はなく、自然の湧水だそうです。現在は池に石橋がかかっていますが、それ以前は舟で飛雲閣に出入りしていたそうで、手前の石段はかっての船乗り塲だと思われます。

Ani_3608a

右は「黄鶴台(おうかくだい」という蒸し風呂、その手前にむくり(上向きの曲線)屋根の廊橋「擲盃橋」が見えます。池の向こうは南隣の興正寺の塀です。

Ani_3647a

滄浪池を回り込んで、飛雲閣の正面に行きます。初層の左の「舟入の間」は唐破風屋根、右端(西)の招賢殿は入母屋、載り反り屋根になっています。二層の歌仙の間は、三方に唐破風屋根でむくりになっています。

Ani_3617a

北の舟入が正面玄関となっていて、その左(東)に茶室「憶昔席(いくじゃくせき)」が造られています。

Ani_3613a

憶昔席へはこちらの木の「踏花塢(とうかう)橋」を渡っていくことができ、途中に中門と待合があります。塀の向こうは本願寺の鐘楼です。

Ani_3612a

木橋のところから坂道を上った高台にあずまやの「故蝶亭」があります。江戸時代中期に制定された「滴翠園十勝」の一つに数えられています。他は、飛雲閣、滄浪池、龍背橋、踏花塢(龍背橋の出島付近)、嘯月坡(しょうげつは、滄浪池の堤付近)、

Ani_3625a

黄鶴台、艶雪林、醒眠泉(せいみんせん、湧水)、青蓮榭(西の茶室)です。故蝶亭から飛雲閣の三層がよく見えます。8畳あり摘星楼(てきせいろう)ともよばれ、星が掴めるほどの視界があり、かつては比叡山を望むことができたといいます。

Ani_3635a

もう一度正面に戻り、手前が「踏花塢」。飛雲閣は1951年に国宝、滴翠園は1958年に名勝に指定されました。このあと、西本願寺を出て正面通に向かいます。

Ani_3641a

励みにしていますので、ブログランキングの応援のクリック↓をして下さると嬉しいです。

★こちらを是非よろしく→   ブログ村→にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
-------------------------------------------------------------------

Ana_2647a

| | コメント (1)

«西本願寺 創建の歴史と伽藍