2016年12月 7日 (水)

下鴨神社・糺の森 昨日の紅葉

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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昨日、下鴨神社・糺の森の紅葉を見てきました。ここは紅葉が京都では一番遅いといわれ、まだ見頃が続いています。

最近の下鴨神社は、境内にマンションを建設することで問題になっていますが、それは御蔭通を挟んだ表参道の南側です。

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しばらく行くと馬場に車が並んでいますが、これは発掘調査の車両だということが後で分かりました。

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表参道は、多くの落葉樹はすでに落葉していますが、モミジはまだ一部しか紅葉していない木も多くあります。

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茶店の横のモミジはこんな状態でした。

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楼門のあたりはモミジはなさそうです。

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楼門内にはほとんどモミジはありません。正面は舞殿。

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御手洗川のほとりには銀杏がありますが、もう落葉していました。御手洗社の向こうに新しい建物を建設中です。もしかしたら、問題になった大型倉庫の代わりの建物かも知れません。

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マンション建設のため、そこにあった祭器等を保管する倉庫の代わりに、下鴨神社は境内の北東部に大型倉庫建設を計画しました。しかし、住宅地に隣接していることや、世界遺産のコアゾーン(マンションはバッファゾーン)であることから反対運動が起きました。

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京都市が例外的に建設許可を出していましたが、建設確認が執行停止になり今年の10月に計画は撤回されました。ただし、計画を縮小して再度建設許可を取ったという情報がありました。橋殿から輪橋(そりばし)の方。

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西参道の鳥居の横に一本だけ鮮やかな紅葉がありました。

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もう一度表参道を戻り、途中で瀬見の小川を渡り馬場の方を歩きます。

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今の時期紅葉が見られる場所は少ないので、観光バスが並んでいました。

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馬場は落葉か敷き詰められています。

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表参道の方向

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馬場の南端に近づいてきました。

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河合神社の二つの鳥居をくぐり、

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境内の西の通り「古馬場」を歩きます。ここは、永正14年(1517)以前は「御陰祭」の「切芝神事」が行われた場所です。切芝神事は、元禄7年(1694)に再興されてからは現在のように表参道で行われています。

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この道も紅葉が美しい場所です。

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馬場の方を見ると、神宮寺跡の発掘調査をしていました。河合神社の北に、平安時代、嵯峨天皇の勅願寺として鴨社の神宮寺が建立され、一帯は「鴨の七瀬」の景勝地として知られていました。

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鎌倉時代には本堂(観音堂)、経所、経蔵、待賢門院請願の西塔などが立ち並び、本堂には本尊・十一面観音および不動明王を祀っていました。明治時代の廃仏毀釈によって寺は壊され、今では森の中に基壇と礎石3個と池跡が残るだけでした。

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2年前からの発掘調査によって江戸時代の観音堂の基壇が検出されました。そこには平安時代後期の土器が多量に含まれていることから、江戸時代の観音堂は平安時代後期に造られた基壇を利用して築造されたことが分かったそうです。

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下鴨神社では、神宮寺跡の発掘調査にめどがついたので、マンション建設による資金で今後このあたりの整備をする予定だそうです。

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河合神社の北の一帯は、落葉が堆積した地面の起伏からも昔の池跡が分かり、その周囲に倒木の古株が点在していて、糺の森の中でも最も太古の雰囲気を感じさせてくれる場所でした。(馬場を横切って表参道に出ます。)

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「整備」をするそうですが、遺跡を埋め戻して埋蔵文化財として保存し、周囲を現状のままにしておいて欲しいものです。

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2016年12月 6日 (火)

松花堂庭園 洛南の名園

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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一昨日の八幡市の正法寺を出て、循環バスに乗って松花堂庭園に来ました。「松花堂庭園」は、寛永の三筆のひとり松花堂昭乗(しょうじょう)の泉坊の庭園を男山の東車塚古墳の上に復元したものです。

「松花堂美術館」 松花堂昭乗が遺した作品、昭乗と交友のあった人たちにゆかりの美術品を展示する館蔵品展や企画展、特別展が開催されます。

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東車塚古墳は四世紀末のものとされる前方後円墳で、古墳の上に築山や枯山水庭園が造られているのは全国でも珍しいそうです。庭園の入り口

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吉井勇の歌碑があります。歌人の吉井勇は、戦後まもなく松花堂庭園の近くの宝青庵で暮らしていました。当時、谷崎潤一郎や志賀直哉などの文人・文化人も八幡を訪れました。「昭乗といへる隠者のすみし廬(いお) ちかくにあるをうれしみて寝る」

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庭園内には様々な種類の竹が植えられ、日本庭園で使われるいろいろな垣根も置かれています。このあたりは外園とよばれています。

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松花堂昭乗は当時神仏習合だった石清水八幡宮で出家して、後に男山四十八坊の一つ「滝本坊(たきのもとぼう)」の住職を務めました。「クロチク」

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昭乗は僧として最高の位・阿闍梨まで上る一方で書の達人で、書画や和歌、茶の湯にも秀でていました。(散策路は竹林とモミジなどの樹木で囲まれ、小川に沿って北に向かいます。)

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はじめ御家流の書を、後に空海や定家の書を学び、滝本流といれる独特の書流を立て、近衛信尹(のぶただ)、本阿弥光悦と共に、「寛永の三筆」と評されました。「キッコウチク」

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寛永元年(1624)には近衛信尋の推挙で将軍家書道師範として江戸に下向するなど、有力公家や将軍家とも親交がありました。

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寛永14年(1637)に住職を退いた昭乗は、「泉坊」という寺坊に草庵「松花堂」を建てて、晩年を過ごしました。「モウソウチク」

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明治の排仏毀釈で男山にある坊舎堂塔はすべて取り払われ売却されました。その際、草庵「松花堂」は山麓に移されました.。

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明治24年(1891)に草庵「松花堂」が現在地に移築されました。昭和52年(1977)から八幡市の所有となり「松花堂庭園」として公開されています。

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茶室「梅隠」 千宗旦好みの茶室を、古図に基づき中村昌生氏(松花堂美術館名誉館長)が再現したものです。中くぐりを入ると内露地があり、そこの貴人口から小間・四畳半の茶室に入るようになっているそうです。右の垣は「萩光悦垣」。

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この日はほとんどの茶室が使われていました。茶室の前に水琴窟があります。

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茶室「松隠」 この建物は玄関、八畳の広間と四畳台目の茶室と水屋等から成っています。茶室は松花堂昭乗が住んでいた男山の瀧本坊に、小堀遠州が造ったといわれる茶室「閑雲軒」を中村昌生氏が古図に基づき再現したものだそうです。

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「キンメイモウソウ」

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「金閣寺垣」 間柱に丸竹の立子を一列に配し、下部は半割竹の押縁が立子を挟み込む形で渡され、上部には3本の半割竹の玉縁が渡されています。

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庭園の北端にある「美術館別館」 かっては資料館として使用されていましたが、現在は、イベント、展示会、会議、同窓会、サークルなどの発表会、お茶会などにも利用できるそうです。

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ここから西の道を通り入り口まで戻ります。このあたりも外園で前方後円墳の平らな前方部分になります。

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こちらにも茶室があります。

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茶室「竹隠」 現代の数寄屋大工が工夫と技術を凝らした四畳半の茶室で、床の右側は優雅な琵琶床(床の間の脇に、一段高く板が張られた部分のある床で、ここに琵琶を置いたところからこの名称が付けられた)、左側は袋床となっています。

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ここでは、春(3月~6月)と秋(9月~11月)の各日曜日に、初心者でも気軽に体験できる日曜茶席を行っているそうです。 「萩穂垣」

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向こうは「昭乗垣」 まず左の「史跡 松花堂」と書いてある方に行きます。

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右の建物は「泉坊 書院」 泉坊の客殿で、小早川秀秋の寄進とも伝えられており、書院造りの建築様式は桃山時代のものです。 主室の間は玉座が設けられており、後陽成、孝明天皇がしばしば訪れ、この玉座の間で日の出の景を賞でたと伝えられています。


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「泉坊 車寄せ」 元は男山山中にあった「泉坊」の車寄せ(玄関)は、伏見城の遺構で、扉に太閤桐の紋が付いており、京都府の登録文化財です。屋根の唐破風瓦は、「福」は近衛信尹、「禄」は本阿弥光悦、「寿」は松花堂昭乗の寛永の三筆の筆と伝えられています。

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この門の向こうに草庵茶室「松花堂」があります。このあたりが内園で国の史跡・名勝に指定されています。

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昭乗が寛永14年(1637)に建てたもので10尺(3.03メートル)角の方丈の庵で、京都府の有形文化財に指定されています。

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二帖の間には、床の間と仏壇があり、袋戸棚の下には丸炉が設けられ、入り口の土間には「おくどさん(釜戸)」があり、にじり口を入った仏壇の裏には置き水屋があります(この部分の写真がありません)。

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左に入ったところに「女郎花(おみなめし)塚」があります。平安時代初期、都で契りあった男性を慕って来た女性が、すでに他の女性と契りをむすんでいることに悲観して泪川に身を投げ、男性も自責の念に駆られ同じく身を投じたとの言い伝えがあります。

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この話は、世阿彌作の謡曲「女郎花」として語り継がれています。

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実は、庭園を散策する前に「吉兆 松花堂店」で松花堂弁当を頂きました。昭乗は、農家が種入れとして使っていた器をヒントに、中に十字の仕切りがある蓋がついた器を作り、絵具箱や煙草盆として使用していたそうです。

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昭和の始め、貴志彌右衛門の大阪(桜宮)邸内の茶室「松花堂」で茶事が催されたときにい、彌右衛門が後年「吉兆」の創始者となる湯木貞一に、この器で茶懐石の弁当をつくるようにと命じたのがはじまりだそうです。

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デザートの抹茶のプリン

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2016年12月 5日 (月)

晩秋の鷹峰・常照寺

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鷹峰にある常照寺を訪れました。11月末でしたが、既に紅葉の盛りを過ぎて、晩秋あるいは初冬の雰囲気でした。下は「吉野門」 島原の2代目・吉野太夫の寄進により建立され、1917年に再建されました。

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「帯塚」 昭和44年(1969)に女性の心の象徴の帯に感謝し祈りを捧げる帯塚が在京の著名人の発起によ って建立されました。作庭は中根金作氏で、苔により鷹峰三山を表現したそうです。

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「常照(じょうしょう)寺」は山号を「寂光山という日蓮宗総本山身延山久遠寺の直末です。直末(じきまつ)とは、本山直轄の末寺のことで、末寺では最上位に位置します。

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「宝蔵」の左に日蓮聖人が四条金吾への返書で書いた言葉の石碑があります。「蔵の財よりも身の財すぐれたり、身の財より心の財第一なり」、宝蔵の横にあるのがちょっと面白い。

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江戸時代初めの元和元年(1615)、本阿弥光悦は徳川家康から鷹峰の地を拝領して、一門とその家職につながる工匠や商人を引連れて移住してきました。「本堂」はかっての講堂を改築したもので、本尊として十界大曼茶羅を安置しています。

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翌年、本阿弥光悦と光瑳の親子は、ここに「法華の鎮所」を建立し、鷹峰で布教していた寂照院日乾上人を招き、日乾上人はその鎮所を「寂光山常照寺」と号しました。(本堂にお参りした後、庭園に向かいます。)

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日乾上人は常照寺に僧侶の学問所「鷹峰檀林」を創設しました。そのため、当時は「常照講寺」とも呼ばれました。檀林とは、僧侶の学舎あるいは教育制度を指し、鷹峰壇林は山城六壇林の一つといわれました。

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鷹峰檀林の数万坪の境内には、講堂、衆妙堂、玄義寮、妙見堂など30余棟の堂宇が並び、数百人の学僧が集い、鷹峰一帯の中心的なアカデミーともいえる場所でした。

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檀林の学僧は13年以上も入寮して、学業をはじめとして様々な教育を受けました。檀林は明治5年(1873)まで続きます。「鬼子母尊神堂」は 子育て、子授けの守護神を祀ります。

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「常冨(つねみ)大菩薩殿」 江戸時代の享保年間に、学寮でしばしば不思議なことがおこりました。学頭の日善が、常人と違うと噂されていた智湧という学僧の部屋を覗くと、白狐が一心に書を読んでいたそうです。

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姿を見られた智湧は寺を去り、摂津の妙見山で修行を行って常富大菩薩となったとされます。智湧が去る際に書き残した道切証文と起請文の末文には爪の印があり、霊宝として寺に保存されているそうです。この時期にはお茶席が出ます。

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隣に「妙法龍神社」があります。拝観順路に沿ってこれらのお堂の裏手(北)に回ります。

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この門を入って谷に下りると「白馬池」があります。

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かってその池に仙人が住んでいて、白馬で往来したという伝説があります。

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平成21年秋に伝承の沼池を復興して、顕彰碑を建て一字一石法華経を埋めたそうです。池の周囲には桜も植えられています。

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もう一度拝観順路に戻って北に行くと、右手に茶室の「聚楽亭」があります。

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ところで、「吉野太夫」は京都の太夫の名跡です。山門を寄進したのは2代目で、その後10代まで続いたそうです。初代の吉野太夫は安土桃山時代の人物で、本阿弥光悦などの文化人と交流があったとされます。

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2代目以外はほとんどその人物像が伝わっておらず、以下の吉野大夫は2代目を指します。

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吉野大夫は遊女の最上位にあっただけではなく、美貌に加えて教養が高く、詩歌、管弦、 茶の湯、香道の諸芸に秀で、当時上流階級の社交場の花とうたわれました。こちらは「遺芳庵」

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京の町衆の代表的な文化人であった灰屋紹益と吉野大夫のロマンスは名高く、紹益は後の関白、近衛信尋と争い身請けして妻としました。紹益は京の豪商でしたが、父は光悦の甥・光益で、和歌、茶の湯、蹴鞠、文筆にも優れていました。

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「吉野窓」 吉野太夫が好んだ円窓で、下の部分が直線に切られているのは、まだ悟りに至らない不完全な円を表しているとされます。吉野太夫が自らを戒めて円を欠いたともいわれます。

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しかしながら、吉野大夫は寛永20年(1643)38歳の若さで亡くなり、縁のあるこの寺に葬られました。

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「吉野大夫の墓」 拝観順路はここから本堂の横に下ります。

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紹益が吉野を葬ったときに詠んだ歌「都をば 花なき里となしにけり 吉野を死出の 山にうつして」

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「吉野太夫と紹益の比翼塚」 「比翼塚」とは、愛し合って死んだ男女や心中した男女、仲のよかった夫婦を一緒に葬った塚のことだそうです。上の歌碑とともに、昭和46年(1971)に歌舞伎俳優の片岡仁左衛門丈らによって建てられました。

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吉野太夫をしのんで、毎年4月第3日曜日に花供養が行われます。源光庵から常照寺本堂まで島原の太夫道中があり、太夫墓前祭、太夫による献茶や野点が行われます。

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