2022年12月 9日 (金)

祇王寺 敷き紅葉

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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先日の記事の二尊院を出て、嵯峨野路を北に歩いたところにある祇王寺を訪れました。ここは庭に散紅葉が積もった「敷き紅葉」が見事なことで知られます。今日の記事は、何年かの記事を再編集してお届けします。

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「祇王寺」は、山号を高松山といい、真言宗大覚寺派に属する大覚寺の塔頭です。『平家物語』に登場する白拍子姉妹・祇王と祇女ゆかりの寺として知られています。

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平安時代の末、法然上人の門弟良鎮によって往生院が創建されました。往生院は山上山下にわたって広い寺域を占め、数多くの坊が建ち並んでいたといいます。三宝寺はその支院で、融通念仏弘通道場として栄えました。

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祇王寺も三宝寺と同様に往生院の一院だったといいます。(拝観順路は苔庭の周りを一周するようになっていて、その周回路の右手の垣根の中には石仏や花壇などがあります。)

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中世以降に往生院は荒廃し、三宝寺とささやかな尼寺の祇王寺だけが残されました。

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平清盛の寵愛を失い、尼となった白拍子・祇王と、妹の祇女、母の刀自(とじ)らがこの寺にこもり尼僧として余生を送ったことにちなんで、祇王寺とよばれるようになりました。

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やがて祇王寺も廃絶してしまいましたが、江戸時代になって再建されました。明治政府の神仏分離令後(1868年)の廃仏毀釈により、祇王寺は廃寺となり大覚寺がその跡地や墓と仏像を管理しました。

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散策路の途中に竹林があります。

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大覚寺門跡の楠玉諦師はこれを惜しみ、再建を計画していた時に、元京都府知事北垣国道氏が祇王の話を聞き、明治28年に嵯峨にあった別荘一棟(茶室)を寄付しました。この建物が現在の本堂です。

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そして、楠玉諦師や文人画家、儒学者の富岡鉄斎らの尽力によって1895年に祇王寺は再建され、水薬師の智鏡尼が住職となりました。1902年には大覚寺から本尊の大日如来像、平清盛、祇王、祇女、刀自、仏御前の木像、墓を当寺に遷しました。

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この尼寺も荒廃してしまいましたが、1936年に高岡智照が無住の寺に入り、祇王寺を再興しました。高岡たつ子(のちの智照)は親に騙されて花街に売られましたが、新橋で美貌の人気芸妓になりました。

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芸妓時代に、情夫への義理立てに小指をつめたことで有名になり、絵葉書のモデルとして人気を集め、海外でも"Nine Finger Geisha"として知られました。

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高岡智照は1919年に北浜の相場師で映画会社社長の小田末造と結婚しました。夫について渡米して帰国後、夫婦仲がうまくいかなくなり、2度の自殺未遂を起こしました。本堂の丸窓は「虹の窓」というそうです。

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独りでアメリカからヨーロッパを渡り歩き、帰国後の1923年には小田照葉の名で映画『愛の扉』に主演。1925年に離婚が成立して、医者と再婚しましたがこれも破綻し、大阪でバーを経営しました。

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本堂横の手水鉢、どういう仕組みが分かりませんが水琴窟になっています。

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1928年には自伝『照葉懺悔』、その後も自らの体験を綴った本を出版し、1935年に久米寺で得度し、智照を名乗りました。39歳のときです。(本堂と垣根を隔てた山際に墓地があります。)

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翌年、寂れていた京都の祇王寺の庵主となり復興させました。以後、祇王寺は傷ついた女性たちの心の拠り所として話題を集め、智照は瀬戸内寂聴の小説『女徳』のモデルになりました。左の「宝筐印塔」が祇王、祇女、母刀自の墓、右が平清盛の供養塔、

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どちらも鎌倉時代に造られたものだそうです。高岡智照は明治、大正、昭和を生き抜き、平成6年(1994)に98歳で亡くなりました。上の宝筐印塔の横に智照の墓があり、いつも花が供えられています。

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ところで、以前「まろみちゃん」というカワイイ猫がいて、よく本堂の虹の窓の下にに座っていました。受付の方と話しをすると「連れて帰ってもいいですよ」なんておっしゃっていて、飼い猫ではなくかってに境内に住みついていたようでした。

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それでも皆さんから可愛いがられていたようで、20歳まで生きて現在は木像になっていました。

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受付の横の垣根

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2022年12月 8日 (木)

鷹峰・光悦寺と各地の光悦垣

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昨日の記事の源光庵の斜め向かいに光悦寺があります。今日は過去の記事を再編集して、京都各地に存在する光悦垣(光悦寺垣)も紹介します。

「光悦寺」は山号を大虚山(たいきょさん)という日蓮宗の寺院です。江戸時代初期の元和元年(1615)、本阿弥光悦(1558-1637)が徳川家康から与えられた地に草庵を結び、法華題目堂を建てたのが光悦寺の前身です。

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当時この地は京の七口の一つ長坂口で通行の要衝でした。そこに光悦の一族や様々な工芸の職人らが移り住んで芸術の村となりました。珍しい茅葺き屋根の鐘楼があります。

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光悦の死後、西陣本法寺の日慈上人を開山として寺に改められ、太虚庵(たいこあん)光悦寺と称したのが寺の始まりです。「本堂」には本尊の十界曼荼羅を安置しています。本堂と庫裡をつなぐ渡り廊下の下をくぐると庭園になります。

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庭園には7つの茶室が点在し、いずれも大正時代以降の建物ですが、光悦の時代の建物を再建したものもあります。庫裡と接して「妙秀庵」があり、妙秀は光悦の母の名です。

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すぐ右手の「三巴(さんぱ)亭」は、大正10年(1921)に建てられた数奇屋建築で、八畳2室、水屋等からなります。北西の八畳は光悦堂と称し、仏壇には光悦の木像を安置しています。三巴には、「過去、現在、未来」という意味があるそうです。

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散策路の正面に「鷹ヶ峰」と「光悦垣」が見えてきます。

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「光悦垣」 竹を粗く組んだ垣で、組子は2枚合せの割竹で菱目に組まれています。向うにある大虚庵の露地庭の仕切りに用いられ、長さ18mあります。(最後の写真は別の日の撮影です。)

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最上部の玉縁は細割竹を束ねて太く作られ、弧を描いて地面に届き、臥牛(がぎゅう)垣ともいわれます。地表少し上に半割竹の押縁が渡されています。

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今では様々な場所で見られます(後ほど紹介)。若い庭師の方が、憧れの光悦垣の制作にチャレンジしたというブログが、この垣の詳しい構造や制作の苦労が分かって面白い内容でした。

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「大虚庵」 大虚庵は光悦が営んだ居室の名称で、現在の光悦寺の山号のもとになっています。この茶室は大正4年(1915)に新たに建てられたもので、道具商・土橋嘉兵衛の寄付、速水宗汲の設計です。ただし、建設後に光悦会によって改造されています。

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正面入口の貴人口(障子3枚立て)がにじり口に変更され、間取りも当初の三畳台目から四畳と二台目に変えられているそうです。

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「了寂(りょうじゃく)軒」 大虚庵の向かいにあり、かって常題目堂があった場所と伝わっています。光悦死後の1655年頃、孫の光伝は大虚庵の地の一部を寄進して、法華堂唱道場、常題目堂が建立され、唱題修行が行われたといいます。

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アメリカ人蒐集家・チャールズ・ラング・フリーア(1854-1919)の記念碑があります。日本などアジアの美術・工芸品を収集して、スミソニアン博物館に寄贈し世界に広めました。光悦寺にもたびたび訪れ、後にアジア専門のフリーア美術館が設立されました。

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記念碑の横に「光悦の墓」への道があります。光悦は刀剣の鑑定、研磨、浄拭(ぬぐい)を家業とする本阿弥家の長男として生まれ、書画、蒔絵、漆芸、作陶、茶の湯などにも秀で、近衛信尹(のぶただ)、松花堂昭乗とともに「寛永の三筆」と評されました。

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光悦は、俵屋宗達、尾形光琳とともに琳派の創始者といわれ、角倉了以の子・素庵と協力して書籍を出版するとともに、楽茶碗を焼きました。多彩な芸術家であるとともに熱心な法華信者でした。大虚庵で亡くなりここに葬られました。

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「翹秀軒(ぎょうしゅうけん)」 ここまで紹介した建物は拝観順路にそって南斜面に上から下に並んでいます。この茶室は、紙屋川の渓谷上の見晴らしのよい場所にあります。

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翹秀軒の前からは鷹峰三山や京都市内が見渡せます。奥に小さく見えるのが天ヶ峰、左が鷲ヶ峰。

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右が鷹ヶ峰で、その左に京都市内が見えます。

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正面を拡大すると、手前のビルが「京都ホテルオークラ」、奥に「清水寺」の三重塔と工事中で素屋根に覆われた本堂(舞台)、左に「霊山観音」が見えます。

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すぐそばに光悦の養子の光瑳(1578-1637)と孫の光甫(1601-1682)の墓があります。光瑳は光悦の従兄弟でしたが、光悦の嫡男徳善が元和9年(1623)に亡くなったため、養子となり後を継ぎ加賀前田家に仕えました。

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上の墓から水平な散策路に沿って庭の東の端に来ました。ここからは鷹峰三山が見渡せます。右端の小さく見えるのが天ヶ峰で、鷲ヶ峰、鷹ヶ峰と続きます。中央の鷲ヶ峰は花札の八月、坊主の絵柄の元になったという説もあります。

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光瑳は書を光悦に学び、門人中随一の能筆といわれましたが、謙遜して短冊一枚書かなかったそうです。散策路の東の端にある「本阿弥庵」と待合。

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光瑳は刀剣の研ぎに関してはすべての工程で名人といわれました。将軍家の名物「三好正宗」の砥ぎをした際には、持病で江戸まで出れなかった光瑳に、将軍家の呉服所後藤縫殿助と腰物係が刀を届けたといいます。

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光甫は光瑳の長男で、家職である刀剣の鑑定に加えて、茶道、書画、陶芸、彫刻に優れ、光悦の遺風を継ぎました。家業では光悦を越えるともいわれました。晩年には楽焼のほかに信楽焼を多く作り、空中信楽と称されたそうです。

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「本法寺」は光悦寺の開山・日慈上人が所属していて本阿弥家の菩提寺です。本堂から書院への渡り廊下の途中に光悦垣があります。

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「嵐山公園(中之島地区)」の中央にある休憩所の横に小さな日本庭園が造られて光悦垣があります。

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「松花堂庭園」は、寛永の三筆のひとり松花堂昭乗(しょうじょう)の泉坊の庭園を男山の東車塚古墳の上に復元したものです。茶室「梅隠」 千宗旦好みの茶室を古図に基づき中村昌生氏が再現、右に「萩光悦垣」があります。

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「京都市国際交流会館」は、蹴上発電所の敷地に造営された「京都市長公舎」と「迎賓館」があった場所に建てられました。そのとき、迎賓館の日本庭園が残され、ベニシダレと光悦垣、石灯籠、背の低い築山と飛び石、パーゴラ、園池などで構成されています。

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嵐山の「宝厳院」は、平成14年(2002)現在地を購入して移転・再興しました。かって室町時代の禅僧・策彦周良(さくげんしゅうりょう)禅師によって作庭された回遊式庭園があり、苑路の最後にある小川は大堰川を模して光悦垣も備えています。

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最後に、光悦の孫の光甫は81歳で亡くなりました。その直前に光悦村は幕府に返却され鷹峯村に吸収されましたが、光悦寺だけが現在まで残されています。

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また、斜面の下の紙屋川沿いには庭園や料亭、ブライダル、娯楽などの総合施設「しょうざん光悦芸術村」が、南丹市園部町にはモノづくり団地の「京都新光悦村」が造られ、光悦村はブランド名として今も生きています。

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