2017年7月21日 (金)

大将軍八神社 都の天門を護る星神

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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一条通の西、西大路から中立売通の間に大将軍商店街があり、「一条妖怪ストリート」ともよばれます。この通りに面して大将軍八神社があります。

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平安遷都(794年)にあたり、桓武天皇は都を方位の災厄から護るために、陰陽道によって大内裏の北西角の天門に星神を祀る「大将軍堂」を建てたのが当神社の始まりとされます。

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江戸時代に編纂された『山城名勝誌』や『和漢三才図会』によると大将軍社が平安京の4隅に奉祀されたとされますが、平安京古地図には大内裏の西北角にしか描かれていないそうです。

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陰陽道は中国に始まり、その陰陽書『宅経』によると 「北西を天門として大将軍を祀る」とあります。すなわち、唐の長安を手本とし平安京の天門に大将軍を祀ることで、 四方のすべてを守護し王城鎮護を祈願したと考えられるそうです(当神社のHPから)。

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初見の資料として、『山槐記』に治承2年 (1178)高倉天皇の中宮建礼門院の安産祈願の際、諸社寺に奉幣使が参向し、その41社の内の1社として記されています。下は「三社」で、右から命婦神社(女性の守護)、厳島神社(芸能)、猿田彦神社(道案内)。

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「五社」は、右から恵比須神社(商売)、稲荷神社(開運)、天満宮(学問)、長者神社(金運)、金比羅神社(交通安全)。左は区民の誇りの木のモミの木。

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室町時代の伏見宮貞成親王の日記『看聞御記』(1433年)によると、1340年から約100年間、大将軍堂は祇園感神院(現八坂神社)の末社になっていました。応仁の乱(1467-1477)で焼失、1535年に復興しました。

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江戸時代に入り 大将軍村の鎮守社として祀られるようになり、その頃星の大将・妙見(北極星)信仰から太日星(金星)信仰に移り、「大将軍社」と名を変えました。

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江戸時代には方除厄除12社参りが流行し 、その際に建立された天保11年の標石が門前にあります。

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明治初年(1868年)の神仏分離の後、神社が仏教の神や外来神を祀ることができなくなりました。御霊信仰に基づく神社では、祭神を疫神・牛頭天王から素戔嗚尊に変えました。牛頭天王はインド伝来の仏教の守護神です。

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大将軍八神社は、主祭神を素盞鳴尊として、その子・五男三女神(御子八神)と桓武天皇が合祀されました。御子八神と暦神の八神が習合して、「大将軍八神社」と社名を改めました。

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実は、以前の祭神・大将軍は、牛頭天王の子の八神(各方位を司る)の一つで、陰陽道では特別な存在と考えられていました。牛頭天王と素戔嗚尊は同一視されてきた歴史があるのですが、牛頭天王の子神を素戔嗚尊と変えた理由は、かってその末社だった八坂神社にならったのではないかと当神社では推察しています。

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社殿の右手に二つの摂社があります。右の「歳徳神社」の歳徳神は方位神の一つで、その年の福徳を司る吉神です。左の「大金神(だいこんしん)神社」の大金神も方位神ですが、こちらは災いをもたらす神と恐れられ、それを鎮めるために祀られています。

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本殿の左にご神木のオガタマノキ(黄心樹、招霊木)の大木があります。

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昭和4年11月に現在の八棟権現造の社殿が建造されました。

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「大杉神社」 社殿の北西にある地主神社です。

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「豆吉明神」 ミニチュアのような摂社ですが、一つだけ願い事をかなえてくれる一願成就の神様だそうです。

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社殿の北東に宝物館の「方徳殿」があります。ここには陰陽師・安倍晴明一族の「古天文暦道資料」(府指定文化財)が保管されています。さらに、平安時代中期から末期の木造神像が多数保管されています。

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これらは明治時代初期に境内の竹薮から発見されたもので、多数の古神像が一神社に伝来する例は他にないそうです。そのうち、「武装像」50体、「束帯像」29体、「童子像」1体の計80体が、昭和47年(1972)に国の重要文化財に指定されました。

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古神像のうち武装像は、(仁王像などの)仏教の天部像と共通する特徴もあり、方位を司る大将軍ではないかと考えられています。重要文化財指定を契機に、神饌所を取り壊して昭和50年に方徳殿が建てられました。

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さらに、江戸時代中期の天文暦学者・渋川春海(1639-1715)の作とみられる「天球儀」があり、中国より伝えられ361星座、1763星に自薦の星座を加えたものです。方徳殿は5月1-5日、11月1-5日の年2回だけ公開されます。

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桓武天皇が平安京の造営にあたって、都の四方に大将軍を祀ったという話は確かな史実だと思っていました。しかしながら、大将軍八神社が所有する陰陽道の文書や古神像などを見ると、この神社の由緒の方が真実かも知れないと思えてしまいます。

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祭神が変更された歴史を紹介していることも、ある意味で好感が持てました。

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2017年7月20日 (木)

浄福寺 赤門と最古の違法建築

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西陣の浄福寺を訪れました。この寺は浄福寺通一条にありその通りの名の起源となった大寺院です。

「浄福寺」は山号を恵照山という浄土宗の寺院です。浄福寺通に面して朱塗りの東門があることから赤門寺とも呼ばれています。門は17世紀前半の再建。

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1788年の天明の大火では京都中が炎に包まれ、寺にも火が迫りましたがこの門の前で止まったといわれます。鞍馬から天狗がこの赤門の上に下りてきて、巨大なうちわで火を防いだという伝承が残っています。

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赤門を入って右手にある「護法堂」には、火災から寺を守ってくれた天狗を「護法大権現」として祀っています。

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お堂の裏に樹齢300年以上というクロガネモチの大木があります。

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大木の前に諸天善神を祀るお堂があり、その中に天狗がそこから飛んできたとされる鞍馬山への遥拝所があります。

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「浄福寺」の創建は古く、奈良時代から平安時代にかけての延暦年間(782-806)に奈良・興福寺の学僧・賢憬が葛野郡村雲に堂宇を建立したのが始まりです。(赤門から本堂まで長い参道が続いています。両側にも寺の建物があり、広大な寺域を持っています。)

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創建当初は二十五大寺あるいは平安京七大寺といわれ、天台宗でした。たびたび火災にあい、鎌倉時代の建治2年(1276)後宇多天皇の命によって一条村雲(京都御苑西)に再建されたという記録があります。「宝蔵」

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室町時代の1344年、元暁の請願により室町幕府の祈願寺となり、初代将軍・足利尊氏の代わりに幕府の実務を担っていた弟・直義が300貫文を寄進しました。(参道右手に「千体薬師堂」)

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中央に薬師三尊(月光菩薩、薬師如来、日光菩薩)が祀られ、ここにお参りすると、健康や安楽など12の福があるとされます。

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「釈迦堂」(1756年再建)インド・中国・日本の三国伝来の清凉寺釈迦像は人気を呼び、全国にコピーが造られました。ここには、鎌倉時代作の、京都で唯一残っている清凉寺式釈迦如来立像を安置しています。この像は2013年に百年ぶりに公開され、その後は毎月25日に釈迦堂の拝観とご住職の法話があります。

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室町時代には知恩院・超誉存牛に帰依した後柏原天皇の勅許によって三昧堂が建立されて浄土宗との兼学となり、1571年に崇林(そうりん)が入寺して浄土宗に改められ、翌年知恩院末寺となりました。(1734年に再建された「玄関」、後ろは同年再建された「書院」。)

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安土桃山時代の1587年には相国寺門前北に移転しました。

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江戸時代初めの1615年に現在地に移りました。その際には、京都所司代・板倉勝重が援助したといわれています。

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書院には上がれませんが、内部が少し見える場所があります。

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「鐘楼」は1628年の再建。

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「本堂」には阿弥陀如来像を安置しています。建物は1731年-1733年の再建。

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「南門」は1657年の再建。

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玄関を含む現在の堂宇8棟はいずれも江戸時代前期から中期に再建されたもので、それらは江戸時代中期の浄土宗寺院の伽藍配置様式を伝え、京都府指定文化財となっています。「方丈」は外から見えませんが、1764年の再建です。

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本堂の左手に「引摂(いんじょう)地蔵堂」があります。引摂とは仏や菩薩が衆生を救い、悟りに導びくことです。

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寛文年間(1661-1673)に引接地蔵は洛陽四十八願所の霊場のひとつになりました。洛陽四十八願所は、霊元天皇の命により、僧・宝山が洛外・六地蔵以外の48か寺の地蔵尊を選んだものです。

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境内の西には墓地があり、光格天皇皇女霊妙心院(1811-1811)、江戸時代の医師・名古屋玄医(1628-1696)、室町から安土桃山時代の商人・川端道喜(?-1592)、江戸時代-近代の日本画家・山田文厚(1846-1902) などの墓があります。

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南門を入った左に「弁財天社」と「稲荷社」があります。

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ところで、1666年に幕府は建物の上屋の梁間を3間(5.9m)内に制限するとの御触書を発し、全国の寺院に適用されました。ところが、桁行の規制はありませんでした。桁行とは梁に直角に渡す水平材(桁)の長さのことです。

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浄福寺は南の礼堂と北の仏殿の間を繋いで本堂とし、外観は二つの建物、内部は一続きの奥行き9間の大広間を造りました。役人は違法ともいえず黙認したとされ、「日本最古の違法建築」として建築家や研究者の間では知られてきました。(東参道から本堂の二つの屋根が見えます。)

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幕末には、西郷隆盛が薩摩藩士700名を伴って上洛し、錦小路の京都藩邸や相国寺西の二本松藩邸に宿泊しました。それでも収容できずに、浄福寺の客殿や本堂などが薩摩藩下級武士の宿所となりました。彼らは「浄福寺党」と呼ばれたそうです。

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明治時代の1887年、境内に浄福寺、建仁寺、本圀寺、妙覚寺による共済学校が開校し、その後現在の「浄福寺幼稚園」に発展しました。東参道の途中にあり、全面砂場の500坪、全面草原の200坪の二つの運動場があるなど広々としています。

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2011年の「第47回京都非公開文化財特別公開」で、「日本最古の違法建築」として浄福寺の本堂が初めて公開されました。今後いつ公開されるか分かりませんが、ぜひ見たいとおもっています。

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