2023年3月29日 (水)

桜の岡崎疎水 徳成橋から疏水ヶ浜通へ

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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昨日は岡崎疎水に行ってきました。上は東大路通が通る「徳成橋」から東、正面は「京都市武道センター」。 下は西の方で、例年ならば川端通から歩くのですが、昨日は出かける時間が遅くなりました。

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「得長寿院跡」白河法王の死後、鳥羽天皇も譲位した上皇の時代です。1133年に平清盛の父・忠盛が鳥羽上皇のために造営・寄進したのが得長寿院です。(右は冷泉通)

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忠盛は得長寿院に三十三間堂を建て千一躰仏を奉納したそうです。このことで但馬国の国守に任じられ、殿上人となり昇殿を許されました、忠盛36歳のときでした。

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先日記事にした手桶弁当で有名な京料理の「六盛」、中央は駐車場入り口、右に玄関があります。

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空を見上げると、桜の間に月が。

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冷泉通はここから少し南にずれて、琵琶湖疏水分線にかかる若王子橋(哲学の道の南端)まで続きます。ここは琵琶湖疏水が南北から西東へと向きを変える場所で、道路は「疏水ヶ浜通」と呼ばれます。向うに冷泉橋が見えます。

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「冷泉橋」の上から北の方、向うは「府営住宅西天王町団地1棟」、窓からは素晴らしい眺めだと思います。

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少しより道して、武道センターの前から。歩いてきた東西の疏水が見渡せ、正面に愛宕山があります。桜の時期には、南禅寺船溜から出航、夷川船溜までを往復する「十石舟 」が行き交います。

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もう一度冷泉橋に戻り、南の方。

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このあたりは、疏水による舟運が盛んな頃は船荷の揚げ降ろしで賑わった場所だったそうです。また、江戸時代に御所の火災で疎開させられた寺が集まった場所でもあります。

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ここは、以前は建物があった場所で、長い間工事フェンスで囲まれていてました。昨年からフェンスがなくなり、駐車場になっていました。以前はフェンス越しに先端の枝しか見えていなかったのですが、立派な枝垂桜です。

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琵琶湖疏水の脇にはいたるところでアオサギが縄張りを守っています。用事から縄張りに戻ってきたところだと思います。

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「ロームシアター京都」

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和食の「だる満」、ここで昼食をとるつもりでしたが、昼の営業は終わっていました。この左隣が「細見美術館」 で二条橋があります。

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一旦二条橋を渡ります。平安時代二条通は白河上皇の院政の舞台となった法勝寺を始め「六勝寺」が並ぶ副都心のメインストリートで、多くの史跡が点在しています。 ここから北は六勝寺のうちの「尊勝寺」の寺域です。

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一方、二条通から南は延勝寺の寺域で「延勝寺跡」の石碑とモニュメント?があります。 

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ここでお昼を頂きました。

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「京都市勧業館(みやこめっせ)」の西にあります。

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昼食のあと、もう一度二条橋に戻って、南の方。

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二条通との交差点の南西にチーズとチーズケーキの「フロマージェリーアルモニー」、ちょっとした行列ができていました。

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南の方には将軍塚の青龍殿が間近に見えました。一昨日(3月27日)に文化庁が京都移転を果たし、その前日の記念式典では「日本を代表する文化資源を有する京都にとって、文化行政の中核を担う同庁の移転は悲願」だったという発言がありました。

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「延勝寺址」の石碑、何年も説明板が壊れたままです。このブログで指摘しているように、市内のあちこちで史跡の説明板が壊れ、石碑が行方不明になっている場所も数か所あります。専任の職員が不足しているからなのか、もっとしっかりして欲しいと思います。

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仁王門通まで来ました。ここまで東西に流れてきた琵琶湖疏水が、南北に向きを変える場所です。

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2023年3月28日 (火)

六角堂 枝垂れ桜の境内

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昨日の記事の京都一の傳で食事をした後、近くの六角堂を訪れました。写真を撮りながら歩いても20分くらいの距離です。

山門の斜め向かいに、江戸時代(1605年)堀尾忠氏が寄進した「鐘楼堂」があります。かつて鴨川の氾濫、火災、戦乱の際などに早鐘が撞かれ、江戸時代は時の鐘としても撞かれたそうです。

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「六角堂」は正式名称を紫雲山頂法寺という天台宗系単立寺院で、本堂が六角形をしていることから一般には「六角堂」と呼ばれています。参道右の柳はおみくじを結ぶと縁結びのご利益がある「縁結びの柳」で「地ずり柳」とも呼ばれています。

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六角堂の創建は古く、飛鳥時代に聖徳太子が四天王寺を建立するための用材を求めてこの地を訪れたとき、霊告によって御堂を建て、守護仏の観音像を安置したのが始まりとされます。平安時代の弘仁13年(822)に嵯峨天皇の勅願所となり、

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長徳2年(996)には花山法皇の御幸があり、西国33箇所観音霊場(現18番札所)となりました。本堂には本尊として聖徳太子の護持仏とされる如意輪観音菩薩像(秘仏)を、脇侍として毘沙門天立像(重文)と地蔵菩薩立像を祀っています。

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「へそ石」 平安京造営の際に六角堂が街路の中央にあたり取り壊されそうになりましたが、黒雲が現れて堂は自ら北へ約5丈動いたという伝説があります。そのとき、この石だけは動かず、京都の中心であるといわれています。

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「納経所・お茶所」 御朱印や六角堂にちなんだお守りやグッズ、へそ餅など名物のお菓子があります。この日は、境内のあちこちにある枝垂れ桜が満開でした。

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石段の右に「一言願い地蔵」がいます。石段上は「親鸞堂」で、鎌倉時代の建仁元年(1201)親鸞が29歳の時、比叡山を下りて当寺に百日間こもって霊告を受け、後に真宗を開くきっかけとなったとされます。

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親鸞堂の中の右は「夢窓之像」、こうべを垂れて夢のお告げを聞く親鸞を表し、左の「草鞋の御影」は六角堂参籠の姿を親鸞が自刻したといいます。

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さらに右奥(境内の南東隅)に鎮守の「唐崎社」があります。祭神の唐崎明神は、「唐崎の松」で有名な琵琶湖畔の唐崎神社の神です。比叡山延暦寺とも深い関係があり、かつては明星天子菩薩とも称していました。

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社殿には、祇園社(八坂神社)と天満宮(北野天満宮)の神様が合祀されています。ここの桜は「御幸桜(みゆきざくら)」と呼ばれ、長徳2年(996)花山法皇の六角堂御幸が名前の由来だそうです。

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「十六羅漢」 ここの羅漢は「和顔愛語(わげんあいご)を実践しています。いつも優しい顔つきで、穏やかに話をするように心がければ、必ず良い報いがあるという教えです。手前は邪気、左にはやさしく願いを包み込んで祈る「合掌地蔵」がいます。

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池のほとりに「見ざる 聞かざる 言わざる」のお地蔵さんが置かれています。相手に失礼なことを見たり、聞いたり、言ったり、しないという意味だそうです。論語の言葉が8世紀頃、天台宗の留学僧によって伝えられたといいます。

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「花手水」 六角堂では3月25日草木のいのちを供養する「花供養会」、4月8日釈迦の生誕を祝う「花まつり(釈尊降誕会)」が行われ、この時期に手水舎をたくさんの花で飾ります。 釈迦はルンビニーという花園で生まれたといわれています。

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「太子堂」 本堂の裏に六角形の朱塗りの小堂があり、幼い聖徳太子像を安置しています。

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中央に太子が合掌して「南無仏」と唱える二歳像、左に父である用明天皇の病気平癒を祈る十六歳像、右に仏教の受容をめぐって物部守屋と戦った姿を表す騎馬像を安置しています。物部氏は伝来した仏教に強硬に反対して、聖徳太子らと戦いになりました。

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本堂裏の池は、聖徳太子沐浴の古跡とされ、頂法寺の本坊「池坊」の名の由来となったとされます。池坊の僧は頂法寺の住持として本尊の如意輪観音に花を供えることになっていたそうです。池の中には出土した礎石が置いてあります。

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天文年間(1532-55)には、池坊13世専応がたびたび宮中に招かれ花を立て、「池坊専応口伝」を著して立花の理論と技術を初めて総合的に体系化したそうです。ここには、32世専好が1630年に立てた水仙一色の立花が再現されています。

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「いけ花発祥の地のモニュメント」 「池坊専応口伝」より、專応が弟子に授けた花伝書の冒頭部分が石に刻まれています。

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室町時代以降、六角堂は町堂として下京の町組(町衆)の集会場となりました。一方、上京の町堂は行願寺(革堂)でした。かっての京都は上京と下京に分かれていました。

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祇園祭山鉾巡行の順番を決めるくじ取りは、現在は市議会議場で行われますが、江戸時代までは京都所司代の立会のもと六角堂で行なわれていました。祇園祭は下京の人々の祭でした。お堂の周りにおみくじ鳩が並んでいます。

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安土桃山時代(1592年)の豊臣秀吉による寺院の移転に際して、六角堂が除外されたのはこの町組の結束によるものといわれています。下の「北向き地蔵尊」は御所を守るために北を向いているそうです。

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本堂西のお地蔵さんの群像は「地蔵山」と呼ばれます。オフィス街で住民参加の行事が難しいなか、毎年8月下旬に近隣の堂之前町会と六角堂の朝参り会がこの前で地蔵盆を行い、六角堂執事の法要があり、大勢の子供たちで賑わうそうです。

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「WEST18」 池坊会館の南に隣接して、いけばな研修教室などが入る10階建てのビルです。名称は六角堂が西国三十三所の第十八番札所であることにちなんでいます。1台が展望エレベーターになっていて、六角堂の建物や境内を一望できます。

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境内の南西隅に木造の「不動明王」を祀る祠があります。不動明王は、大日如来が一切の悪魔を降伏させるために身を変じた存在で、怒りの形相をとり、強い法力を持っているとされます。

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隣にある「石不動」は安永9年(1780)刊行の『都名所図会』に描かれているそうです。

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