2024年5月20日 (月)

知恩院勢至堂から吉水へ

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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先日、円山公園から歩いて知恩院の大鐘楼まできた続きです。斜面の上にある一心院(上の写真)の境内を通り過ぎると、法然上人御廟所の山門があります。

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この地が、法然上人が終焉を迎えるまで念仏の教えを広めた大谷の禅房の故地で、知恩院発祥の地でもあります。帰京した翌年病床についた法然上人は、弟子の源智上人の願いを受け、念仏の肝要を『一枚起請文』にしたためます。

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山門の右手の石碑に起請文が書かれています。そして、年が明けた建暦2年(1212)正月25日、80歳で亡くなりました。「御廟堂の拝殿」(府指定文化財) 江戸時代の1710年建立、毎月25日に別時念仏会が開かれます。

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奥にある「御廟堂」は、正面に唐門がある宝形造で、周囲に玉垣が巡らされ、法然上人の遺骨を安置しています。御廟堂は江戸時代の1613年に常陸国土浦城主・松平伊豆守の寄進により改築されました。

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御廟堂の石段上から、左は山門、正面は鐘楼で、右に行くと勢至堂があります。

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「勢至堂」 現在の建物は享禄3年(1530)に再建されたもので、現存する知恩院最古の建造物です。堂内正面に後奈良天皇の筆による「知恩教院」の額が掲げられ、知恩院の名の起源となっています。

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かって法然上人の尊像(御影)を祀っていましたが、後で建立された御影堂に移されたため、上人の本地身とされる勢至菩薩像(重文)を祀っています。上人終焉の本地の堂ということで、本地堂ともいわれています。

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勢至堂の左手の建物に巨大な仏像の頭部が安置されています。他にあった大仏を知恩院に遷すことになって、分解して頭部を運んだときに火事に遭い、元のお堂と大仏の胴体が焼失してしまったそうです。

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勢至堂の右横の「紫雲水」 法然上人入滅のとき、この小さな池に聖衆が来迎し紫雲が水面に現れて、芳香が漂ったといういい伝えが残っています。

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「影向石 (ようごうせき)」 寺務所の前の崖下にあり、法然が臨終の際、賀茂大明神が降臨したといわれます。チャートの岩盤だそうです。この左奥に墓地があります。

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「千姫の墓」 徳川秀忠の長女で、幼くして豊臣秀吉の息子秀頼へ嫁ぎますが、大坂の陣で徳川家に保護されました。その後、姫路城主・本田忠政の嫡男忠刻と再嫁、忠刻の病死により出家して江戸の竹橋御殿で余生を過ごしました、享年70歳。

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「濡髪大明神」 御影堂ができたために住家を追われたキツネが、第32世雄譽霊巌上人にお願いし用意してもらったのが、この社といわれます。「濡髪」は童子に化けていたときに髪が濡れていたことに由来します。縁結びのご利益があるとか。

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もう一度山門まで戻りました。向かいにある「一心院」の山門には「浄土宗捨世派本山」という看板がかかっています。

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天文17年(1548)縁誉称念が、青蓮院から寺地を下賜されて創建したもので、元禄年間(1688-1704)には100ヶ寺を超える末寺がありました。山門の横にある「不動堂」

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しかし、派内での争いにより知恩院に管理されることになりました。 昭和25年(1950)浄土宗から一心院を本山とする浄土宗捨世派が独立しました。 正面は「本堂」、右は「庫裏」。

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墓地には、知恩院門跡となった尊超入道親王や得浄明院を開いた誓圓尼(せいえんに)の墓があります。知恩院の大鐘楼の南の門を出たあたりはかって「吉水(よしみず)」とよばれ、東山からの湧水がある場所でもあります。

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「安養寺」奈良から平安時代にかけての延暦年間(728-806)桓武天皇の勅命によって最澄が創建。平安時代には荒廃しましたが、慈円和尚の援助を受けた法然が承安5年(1175)にこの地に住み、吉水草庵を建てて浄土宗の教えを広め始めました。

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法然上人の門下には、関白・九条兼実、武将・熊谷直実、浄土宗の各派を開いた高僧たちから、庶民、遊女、白拍子なども集まりました。後の建仁元年(1201)に浄土真宗の開祖となる親鸞上人も弟子になりました。

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法然上人が流罪となり安養寺は再び荒廃、慈円和尚が時宗の寺として復興しました。現在でも法然、親鸞両上人ゆかりの地、念仏の根本道場として浄土宗、浄土真宗をとわず参詣が絶えないそうです。

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「吉水弁財天堂」 安養寺の境外仏堂で「吉水さん」とも呼ばれています。この地が「吉水」とよばれているのは、ここに霊泉が湧いていたからです。

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「法然上人 閼伽の水」(吉水の井) 閼伽(あか)とは仏前にお供えする水のことです。左の斜面には小さな滝もあり、現在でも東山からの湧水があります。

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お堂の裏に「慈鎮の仏塔」(重文)があります。慈円僧正がこの地に居住した際、請雨の奇瑞(雨ごいの奇跡)があったそうです。その記念として建立された供養塔と伝えられています。

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吉水弁財天堂の近くに山道があり、東山三十六峰の粟田山や将軍塚に行くことができます。

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少し登りましたが、時間がないので途中から引き返しました。この後、再び円山公園の方に下りました。

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2024年5月19日 (日)

上善寺と鞍馬口地蔵

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寺町通は鞍馬口通に突き当り、その東北に上善寺があります。「上善寺」は山号を千松山(せんしょうざん)、院号を遍照院という浄土宗知恩院派の寺院で、六地蔵巡りの一つです。

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山門の右に六地蔵巡りの一番札所を示す石標があります。

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上善寺の創建は古く、平安時代前期の貞観5年(863)慈覚大師円仁により、天台密教の道場として開かれました。

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当初は千本今出川にあって、最盛期には塔頭が13院もあったといわれています。しかし、その後の火災によって何度も焼失、衰退しました。

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山門を入った右に「天道大日如来」の石像があります。鎌倉時代中期以前の作で、花崗岩製、舟形の光背があります。

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室町時代の文明年間(1469-1487)、春谷盛信上人によって再興され、天台真盛宗となり、寺号が現在の上善寺となりました。上人は後土御門、後柏原天皇の戒師を務め、上善寺は両天皇の勅願寺となりました

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安土桃山時代の文禄3年(1594)豊臣秀吉の都市改造により千本今出川から現在地に移され、浄土宗に改められました。本堂には本尊として阿弥陀如来坐像が祀られています。

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本尊は江戸時代前期の寛永11年(1634)に嵯峨今林の蓮華清浄寺から移されたもので、奈良時代の行基の作と伝えられています。(以前、横の小屋に地蔵尊が仮安置されていましたが、今は何もありません。)

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記事の題名の「深泥池地蔵」は「六地蔵」の一つで「姉子地蔵」とも呼ばれていました。しかし、 明治初年の神仏分離令のあとに起こった廃仏毀釈によって、深泥池地蔵は追放され上善寺に移され、以降「鞍馬口地蔵」と呼ばれるようになりました。

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深泥池地蔵が上賀茂神社の神領にある仏像だったからだと思われます。また、近くにあった貴舩神社は神仏混合だったため焼打ちにあったそうです。(本堂の東、庫裏の前に庭園があります。)

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以下では六地蔵巡りの由来を紹介します。平安時代初期、小野篁は熱病にかかり、冥土で出会った生身の地蔵菩薩の教えによって蘇生したそうです。「名号唱和」の上善寺つくばい

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篁は、木幡山の桜の大木より6体の地蔵尊像を刻み、木幡の里(現在の大善寺)に安置しました。 その後、平安時代末期に都で疫病が流行、保元2年(1157)後白河法皇は平清盛に命じて六つの街道の各入口に六角堂を建てさせます。 「玄関」

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そして、それぞれに篁が彫った地蔵を安置しました。 都に邪気が入ってくるのを防ぎ、街道を行く旅人の安全のためです。さらに、西光法師にそれらの地蔵の供養をさせたのが、「六地蔵巡り」の始まりです。

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その後、先祖の霊の供養や無病息災・家内安全などを願う伝統行事として現在まで続けられ絵います。

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ちなみに現在の六地蔵とは、大善寺・伏見地蔵(奈良街道)、浄禅寺・鳥羽地蔵(西国街道)、地蔵寺・桂地蔵(丹波街道)、源光寺・常盤地蔵(周山街道)、上善寺・鞍馬口地蔵(鞍馬街道)、徳林庵・山科地蔵(東海道)です。

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大正7年(1918)に再建された地蔵堂が老朽化したのを契機に、上善寺ではかっての由緒に基づいて2016年8月に六角形の地蔵堂を新築しました。六角形の一辺が3m、高さが8.2mだそうです。

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鞍馬口地蔵は、顔立ちや姿が女性的で美しく、右手に錫状、左手に宝珠を持っています。江戸時代に極彩色に彩色され、その下にさらに古い彩色痕があるそうです。2016年の調査で、伝承の通り桜材の一木造であることが分かったそうです。

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境内の東にある墓地には「長州人首塚碑」があり、元治元年(1864)7月19日に起こった禁門の変において、鷹司邸附近で亡くなった長州藩士・入江九一(1837-1864)ら8人の首塚があります。

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また大名や公家の墓も多く、中でも今出川家の代々の墓があります。「今出川家」は先日の記事で紹介した西園寺家の庶流で、明治になって菊亭 と改姓して、貴族院侯爵議員の菊亭脩季(ゆきすえ)を輩出しました。

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「観音堂」 上述の大正7年(1918)に再建された旧地蔵堂を、この場所に移動して観音菩薩を祀っています。

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境内の南(山門の右手)に石仏群があります。ここには、鎌倉時代後期の地蔵立像や聖観音座像、江戸時代中期の十三仏板碑など珍しい石仏があります。おそらく、長年街道筋に置かれていたものがこの寺に集められたと思われます。

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このあと、鞍馬口街道を通って京の七口の一つ・出雲路橋の方に向かいました。

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