2017年8月18日 (金)

京都御苑歴史散歩1 北部の公家住宅跡

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

Jnh_1955a
※写真は全てクリックで拡大します。

京都御苑は年に何度も記事にしてきましたが、一度はその史跡をまとめて紹介しようと思っていました。今日は最初に御苑の歴史を振り返り、北部の公家住宅跡を中心に見て回ります。御苑の北東にある石薬師御門が出発点です。

Kyotogyoenmap3a

桓武天皇が造営した平安京の内裏(皇居)は現在の京都御所から約2kmほど西にありました。しかし、度重なる内裏の焼失により、主に摂関家の邸宅を一時的に皇居とする里内裏(さとだいり)が置かれるようになりました。(今出川広場)

Jnh_1965a

「里」とは平安京の里坊のことで、方形に区切られ た街区(ブロック)を表します。つまり里内裏は、京内に置かれた内裏という意味だそうです。(広場には軟式野球、ソフトボール3面があります。)

Jnh_1975a

1227年の火災以後は、元の位置に内裏が再建されることはありませんでした。現在の京都御所は、里内裏のひとつ東洞院土御門殿に由来するもので1331年、光厳天皇がここで即位して以来、御所とされたものです。

Jnh_1986a

1392年の南北朝合一によって名実ともに皇居に定まり、明治に至るまでの500年間天皇の住まいでした。豊臣秀吉や徳川幕府の時代になると、御所周辺に宮家や公家たちの屋敷が集められました。(「今出川口」、御苑には九門五口の出入り口があります。)

Jnh_2037a

何度も大火に見舞われながらも明治初期の東京遷都まで、大小200もの屋敷がたちならぶ公家町が形成されていました。

Jnh_2044a

明治2年(1869)の東京遷都に伴って、多くの公家達も東京に移住し、公家町は急速に荒廃していきました。この状態を憂慮した岩倉具視は明治10年(1877)に御所保存・旧観維持の建議をし、明治天皇の御沙汰(公的な意向)が下されました。

Jnh_2051a

この御沙汰をうけ京都府では、屋敷の撤去、外周石垣・土塁工事、道路工事、樹木植栽等の「大内保存事業」を開始し、明治16年(183)に予定を繰り上げて完了しています。(向かいの芝生にある大木にアオバズクの巣があります。)

Jnh_2015a

同年御苑の管理が京都府から宮内省に引き継がれた後も整備は続けられ、大正4年)(1915)の大正大礼に際して、建礼門前大通の拡幅改良等の改修工事が行われ、ほぼ現在の京都御苑の姿が整いました。

Jnh_2018a

昭和24年(1949)に京都御苑は厚生省の管理運営のもと国民公園となり、広く国民に開放していくことになりました。昭和46年(1971年)に環境庁の創設に伴い、御苑も同庁の所轄となり、後に環境省に引き継がれて今日に至ります。(「中山邸跡」、「祐(さち)ノ井」)

Jnh_2067a

中山家は藤原北家花山院家の支流で。花山院忠宗の子中山忠親を祖とします。幕末から明治維新にかけて忠能は政治的に活躍し、条約勅許に反対したり、和宮親子内親王の降嫁を推進しました。その娘・中山慶子が明治天皇の生母です。「明治天皇生誕地」

Jnh_2069a

明治維新後には、幕末からの功績を認められて忠能は侯爵に叙せられ、神祇伯を務めました。忠能の孫の孝麿は東宮侍従長や東宮大夫、宮中顧問官を歴任しました。(祐ノ井は明治天皇ゆかりの井戸です。)

Jnh_2071a

御所の北東のあたりが「猿ヶ辻」です。

Jnh_2109a

御所の築地塀の屋根裏に木彫りの猿がいます。

Jnh_2122a

烏帽子をかぶり御幣を担ぎ、御所の鬼門を護る守る日吉山王神社の使いの猿です。ところが、夜になると付近をうろつきいたずらをするので、金網を張って閉じ込められたといわれています。

Jnh_2120a

また、幕末の1863年、公家で攘夷派の急先鋒の一人、姉小路公知(きんとも)がこの付近で殺されたと伝えられています(猿ヶ辻の変)。

Jnh_2113a

猿ヶ辻から西に行くと、右に「今出川御門」があります。この道の右手が「桂宮邸跡」です。桂宮は、安土桃山時代に創設された四世襲親王家の一つですが、明治時代に断絶しました。主な所領が平安京近郊の桂周辺にありました。

Jnh_2136a

かっての宮邸の築地塀と表門、勅使門は現存、建物は二条城本丸に移築されました。敷地内には宮内庁職員の宿舎が建てられていまが、桂離宮を築いた初代智仁親王が造営した庭園および池が完全に残っているそうです。

Jnh_2137a

幕末には孝明天皇の仮皇居となっていたこともあり、皇女和宮親子内親王はここから江戸へ嫁ぎました。内部は非公開です。ちょっと寄り道して、今出川御門から今出川通に出ます。

Jnh_2148a

同志社大学の前に「冷泉(れいぜいけ)家」の邸宅(重文)があります。冷泉家は御子左家(二条家)の分家で、羽林家と呼ばれる家柄の公家です。近衛中将に代々任官され、歌道の宗匠家の内の一つで冷泉流歌道を伝承しています。家名は冷泉小路に由来。

Jnh_4971a

藤原定家の子孫で、上冷泉家と下冷泉家に分かれています。東京遷都に際して上冷泉家は京都にとどまり、1790年に建造された屋敷は御苑の外にあったので、現存する最古の公家住宅となっています。一方、下冷泉家の屋敷は取り壊されています。

Jnh_4973a

上冷泉家には「御文庫」とよばれる蔵があり、かっては勅封とされていました。勅封蔵とは、勅命によって封印され勝手に開くことができない蔵です。藤原俊成、定家以来の典籍類は国宝5件、重文47件を始め、その数、数万点に及ぶといわれれています。

Jnh_4967a

上冷泉家が京都にとどまったことにより、関東大震災や東京大空襲による焼失を免れたといわれています。(もう一度、御苑に入ります。正面は御所の「朔平門」

Jnh_2162a

桂宮邸跡の西に「近衛邸跡」があります。近衛家は藤原忠通の長男の近衛基実が祖で、藤原北家近衛流の嫡流にあたり、五摂家の一つで、家名は平安京の近衛大路に由来します。

Jnh_2166a

江戸時代初頭、前久の子近衛信尹は継嗣を欠いたため、妹の前子が後陽成天皇との間に儲けた四之宮を養嗣子に迎え、近衛信尋としました。以後の近衛家は皇別摂家といわれ、五摂家の中で特別扱いされました。

Jnh_2182a

明治16年(1884年)の華族令の制定に伴い、篤麿が公爵に列したました。昭和前期には当主近衛文麿が3度にわたって内閣総理大臣を務めました。その弟秀麿も指揮者として著名です。

Jnh_2190a

この記事は編集中です。完成までしばらくかかりますが、

今日もご覧いただき、ありがとうございます。励みにしていますので、ブログランキングの応援のクリック↓をお願いします(一日一回有効です)。

  ★こちらを是非よろしく→   ブログ村→にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
-------------------------------------------------------------------

Jnh_2224a

| | コメント (0)

2017年8月17日 (木)

大文字送り火 2017

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

Amt_6475a
※写真は全てクリックで拡大します。

今年の五山送り火は、自宅から大文字を見ることにしました。上の写真は昨日午後4時前で、大の字の左にテントが出ています。

下の写真では大の字の中央に弘法大師の祠が見え、火床には薪が積まれています。15日から16日にかけて先祖の霊の供養や生存する人の無事息災を祈る護摩木が銀閣寺山門前(浄土院横)に集められます。

Dscn4963a

護摩木は送り火の点火資材として当日山上ヘ運ばれ、当夜7時から山上の弘法大師堂で燈明がともされ、午後7時から浄土院住職や大文字保存亜希らにより般若心経があげられます。(午後7:30では空に薄明かりが残っています。)

Amt_6480a

その後燈明を親火に移し、20:00になると一斉に各火床に点火されます。点火方法は五山のそれぞれで異なります。、

Amt_6491a

火床の薪はアカマツを井桁に積み上げ、松葉をその間に入れ、麦わらを周囲に立てかけて着火しやすいようにします。20:01

Amt_6493a

「送り火」は、盆の翌日に行なわれる仏教的行事で、ふたたび冥府にかえる精霊を送るという意昧があります。最初は煙が出ます。20:02

Amt_6501a

通説によれば、お盆の翌日、松明の火を空に投げ上げて虚空を行く霊を見送るという風習があり、五山の送り火は、これが山に点火されてそこに留ったものであるといわれます。20:03

Amt_6506a

現在でも、雲ケ畑、久多、花脊、広河原など京都の山間部では「松上げ」という火祭りが行われています。20:04 

Amt_6512a

いつ頃から現在のような送り火の形となったかは不明で、江戸時代以降の記録しか残っていないようです。(炎があちこちになびいています。20:07)

Dscn4986a

何らかの公的な機関が関係していれば記録があるはずで、送り火は庶民の自発的な祭りであったことがうかがえます。煙が収まりました。この状態で10分以上燃え続けます。

Amt_6519a

現在の五山送り火も、日程こそ調整していますが、様々な点でそれぞれ独自の形で祭を行っています。

Amt_6543a

送り火の消し炭は厄よけや疫病よけなどのご利益があるとされています。大きな消し炭を半紙に包んで水引でくくり、玄関に飾ればよいともいわれています。(火床の火が小さくなってきました。20:25)

Amt_6553a

消火時間の20:30になると、青い照明の灯りが目立ってきました。この後、火の始末や残った資材の撤去など、後片付けが22時ころまでかかるそうです。

Amt_6559a

最近では消し炭の争奪戦が激しく、翌朝遅く行くと大きな消し炭は見当たらないそうです。下の写真は今日(17日)の午前1時頃で、おそらく消し炭を拾いに上ってきた方の灯りです。

Amt_6592a

お帰りの前に、ブログランキングの応援のクリック↓をお願いします。

  ★こちらを是非よろしく→   ブログ村→にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ
-------------------------------------------------------------------

Amt_6540a

| | コメント (4)

«大谷祖廟 万灯会