2017年6月29日 (木)

上御霊神社 都の守護と御霊信仰

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

下御霊神社を出て、帰り道に上御霊神社も訪れました。上は南門で伏見城の四脚門を移築したものと伝えられています。二つの神社は対比されていますが、異なる歴史をたどってきました。

上御霊神社は正式には「御霊神社」といい、延暦13年(794)平安遷都にあたり、桓武天皇が都の守り神として弟・崇道天皇(早良親王)をこの地に祀ったのが始まりとされます。

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早良親王は、延暦4年(785)造長岡宮使の藤原種継暗殺事件に連座して廃され、無実を訴えるため淡路国に配流の途中で河内国高瀬橋付近で、自ら食を断って自死しました。(楼門は江戸時代中期の寛政年間(1789-1801)に再建されたものです。)

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その後、桓武天皇の皇后や藤原乙牟漏が相次いで亡くなり、長岡京で疫病が流行、皇太子の安殿親王(平城天皇)も病となり絶えず怨霊に悩まされました。いつしか、これらは早良親王等の崇りであろうといわれるようになりました。(授与所)

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そこで親王らの霊を慰めるために、延暦19年(800)に早良親王を崇道天皇と追号し、井上内親王には再び皇后と追称し、墓としてともに山陵を構えました。また、その怨霊をなだめ祀るために廟をたて、御霊社と称しました。(茅の葉が積み重ねられています。)

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これが上御霊神社の始まりとされ、正確な創祀年月は不明ですが、神社では平安遷都の延暦13年(794)としています。(茅の輪の枠ができていました。)

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さらに大同元年(806)桓武天皇の皇子・伊豫親王は、異母兄平城天皇が即位して皇太子となりましたが、翌年藤原宗成が謀反を謀ったことから疑われ、母藤原吉子とともに捕えられて、川原寺に幽閉されましたが毒を飲んで母子ともに自害しました。(拝殿)

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上記は藤原氏が権力を握る過程で起った一連の事件で、これらの人々は不幸な犠牲者でした。朝廷は承和6年(839)に、伊豫親王に一品、母藤原吉子には従二位を追贈し、御霊社の南に霊廟を建てたのが下御霊社です。

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この時代には天災地変や悪疫の流行は、無実の罪をきせられ非業の死を遂げた人たちの怨霊のたたりによるものと信じられるようになり、御霊社には橘逸勢と文屋宮田麿を合祀して祭神は六座となりました。

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貞観5年(863)朝廷は神泉苑において、非業の死を遂げた人々の怨霊をなだめ祀るために初めての御霊会を催しました。それ以前に怨霊を鎮め祀った上御霊神社は「御霊信仰発祥の地」と呼ばれています。

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その後、吉備真備と火雷神(からいしん)を加えて八座となりました。しかし吉備は文武天皇の皇女吉備内親王、火雷神は菅原道真であるとの説があります。上御霊神社では、「当社の祭神については古来諸説あって、確定していません。」としています。

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祇園祭をはじめとして京都の夏祭りの多くは御霊会がもとになっていて、御霊神社の祭礼はその起源と考えられています。この後、境内にある史跡を見て回ります。

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中央の参道脇に松尾芭蕉の句碑があります。芭蕉は元禄3年(1690)当社に参詣して「半日は神を友にや年忘」の句を奉納しました。

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隣に新村出の歌碑があります。広辞苑の編者で知られる新村出は京都帝国大学時代から終生この近くに住み、80歳のときにこの歌を奉納しました「上御霊のみやしろに 詣でてよめる 千早振る神のみめぐみ  ふかくして 八十ぢに満つる 幸を得にけり」

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参道を挟んだ向かいには富士谷御杖の詩碑があります。富士谷は江戸時代の著名な国学者で、詩は文政年間の本殿造営に際して寄せられたものだそうです。

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本殿の南に「清明心の像」があります。国際児童年(1979)にあたり生命の尊重と子供達の健やかな成長を祈り、中国宋代の学者司馬温公の故事に拠って建立されました。水を張った甕に落ちた子供を救うため、大石で甕を割ったという話です。

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下御霊神社に負けず、境内には多数の摂社・末社がありますが、そのうちの一つだけを。境内の南東の隅に、倉稲魂命を祀る「福寿稲荷神社」があります。田の神として既に平安時代には稲荷信仰が盛んとなりましたが、この神社の創建時代は不明だそうです。

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元禄15年(1702)に奉納された石灯籠があるので、創建はそれ以前となります。五穀豊穣、福徳円満、長寿延命、生業繁栄のご利益があるとされます。

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ところで、京都市は景観条例に基づいて「景観重要建造物」に主として町家などを指定しててきました。ところが、財政難のために老朽化した建物の改修がままならない寺社が多く、寺社として初めて上御霊神社が指定されました。

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南門の横にある「御車舎」 江戸時代初期、後陽成天皇が上皇当時に寄進した牛車を収める蔵で、一昨年(2015)8月に「景観重要建造物」の補助によって改修が行われました。

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順番が違いますが、楼門前の「応仁の乱勃発地」の石碑。応仁の乱は室町時代の応仁元年(1467)に幕府管領家の畠山、斯波氏の家督争に始まり、細川勝元と山名宗全の勢力争い、将軍足利義政の継嗣争いも加わり、全国に戦いが拡大し、京都を焼きつくしました。

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正月17日の深夜、畠山政長は自邸を焼いて一族や奈良の成身院光宣らと約二千の兵を率いてここに布陣しました。翌日早朝、政長と家督を争っている義就が兵三千余で攻撃、終日激しい戦闘が続きました。義就方には朝倉孝景、ついで山名宗全が加勢しました。

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政長方は頼みの細川勝元が動かず、まる1日の合戦ののち敗退しました。これが応仁の乱の前哨戦「御霊合戦」です。3月に年号が応仁となり、細川、山名両陣営ともに味方を集めて体制をかため、東西両軍の全面的な戦乱は11年間続きました。(絵馬舎)

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2017年6月28日 (水)

下御霊神社 御所の鎮守と摂社たち

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日の記事の蘆山寺を後に寺町通を下ります。丸太町通を渡るとすぐに「下御霊(しもごりょう)神社」があります。古くから御所の鎮守として信仰されてきました。表門は仮御所の建礼門を移築したものです。

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平安時代には、疫病や天変地異はすべて不慮の死を遂げた者の祟りと考え、その怨霊を鎮める儀式(御霊会)によって、疫病・災厄が退散し平穏が訪れると考える御霊信仰が盛んとなりました。(夏越大祓の茅の輪ができていました。)

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貞観5年(863)5月20日に御所の南にある神泉苑で初めて御霊会が催され、その後下出雲路に下御霊神社が創建されました。その後、2度の移転の後、安土桃山時代の天正18年(1590)豊臣秀吉の寺社整理に伴いこの地に移転して現在に至っています。

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現社殿(京都市指定有形文化財)は天明8年(1788)の大火で旧社殿が焼失したのち、仮皇居の内侍所仮殿を寛政3年(1791)に移建したものです。

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本殿には祭神として八所御霊を祀っています。八所御霊とは、伊予親王、その母・藤原吉子、祟道天皇(早良親王)、藤原広嗣、橘逸勢(はやなり)、文室宮田麻呂(ふみやのみやたまろ)、吉備真備、菅原道真の御霊(ごりょう)8柱です。

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7名は平安時代に冤罪のため非業の死を遂げた貴人ですが、吉備真備は平和、調和などを司り徳を備えている「和魂」として、祀られているそうです。

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神泉苑の御霊会では、仏教経典の読経とともに、歌舞音曲や民衆も参加した踊りなども行われました。この行事は、政治や社会への不満や不安を緩和するための効果もあったと考えられています。

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後に各地の寺社で同様の行事が開催され、神輿渡御などの行列や風流・田楽などの舞曲の奉納が行われるようになります。その時期は疫病が多発する旧暦の5月から8月に集中しました。社務所と授与所(右)

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本殿の左に「三社(さんじゃ)」が鎮座しています。右から「八幡社」、「神明社(伊勢神宮)」、「春日社」です。それぞれ、八幡大菩薩、天照皇大神、春日大明神を祀っています。

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中世から近世にかけてこの三社を信仰することが盛んとなり、神託(神のお告げ)が書かれた掛け軸が出回り庶民の間にも広まりました。八幡は清浄、伊勢は正直、春日は慈悲を象徴するとして子供たちの教育の規範にもなりました。

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あまり大きくない神社ですが、境内には三社以外にも多くの摂社・末社があります。かっては摂社は本社に所縁が深い神や社地の地主神を祀ったもので、それ以外を末社とよんだそうです。ここではすべて摂社と呼びます。

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本殿の右手にある「神輿庫」は天明の大火の類焼を免れ、この神社の最古の建物です。

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境内の南にある「五社相殿社」は、右から斎部社(斎部神)、大将軍社(大将軍八神)と高知穂社(高知穂神)、愛宕社(愛宕大神)、日吉社(日吉大神)を祀ります。斎部神は社家の祖神、 大将軍八神は方位の神です。     

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大国主社、江戸時代の文化4年(1807)に建立され。大国主命とその子・事代主命(ことしろぬしのみこと)を祀ります。福の神、縁結び、恋愛成就の神です。

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天満宮社、御霊信仰の代表的な例で、全国に菅原道真を祀る天満宮、天神社、道真社などが造られ「天神信仰」が広がりました。道真が学者であったことから、学問の神としても信仰されるようになりました。

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道真を祀る神社には必ずと言っていいほど彼が愛した梅の木が植えられています。上の写真の右は奉納された梅で、実がなっていました。木には、実はお供えするので取らないでくささいと書いてあります。

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道真とゆかりが深い牛の像(臥牛)が祀られているのも特徴です。

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「ラストサムライ」発見! 日本最高齢の通訳ガイド、京都観光おもてなし大使のジョー岡田さんです。外国人相手に、自らサムライに扮し、腰に日本刀を差し、商店街やあまり有名でない寺院を歩いて案内して、京都の日常を紹介しています。

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この神社の境内でサムライショーを行っています。現在88歳ですが、東京オリンピックまでは頑張るとおっしゃっています。

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境内の北にある「宗像社」は田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命の3女神を祀っています。海の神、航海安全の神、運輸交通の神として信仰されてきました。

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「稲荷社」は稲荷大神を祀ります。もとは穀物(稲)の神でしたが、平安時代以降家内安全、商売繁盛の神として稲荷信仰が全国に広がるようになりました。神殿は寛政5年(1793)、拝所は嘉永5年(1852)の建立。

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「猿田彦社」(猿田彦大神)、「垂加社」(山崎闇斎)、「柿本社」(柿本人麻呂) 猿田彦大神は道案内の神、山崎闇斎は吉田神道に儒学を取り入れ道徳性の強い垂加(すいか)神道に発展させました。歌道の神・柿本人麻呂は学問文芸の神としても信仰されました。

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これで全ての摂社をまわりました。中には社殿が古くて傾いているのもありましたが、いずれもきれいに手入れがされていました。

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「手洗舎」 江戸時代の明和7年(1770)の干ばつの際、当時の神主が夢のお告げにより境内の一か所を掘らせたところ、清らかな水が沸き出て皆に汲ませることができたそうです。それは、「感応水」と名付けられました。

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当時の井戸は現存しませんが、再堀された現在の井戸も同じ水脈からか、美味しいと評判になり、水を汲みに来る人が絶えません。この日は茅の輪くぐりの方が絶えませんでした。

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