2020年11月27日 (金)

鹿ヶ谷通から南禅寺三門・法堂へ

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

先日永観堂を訪れた後、鹿ヶ谷通を南禅寺に向かいました。

「野村碧雲荘」の東門(重文) 野村碧雲荘は、実業家野村徳七が建てた和風別邸で、敷地北辺に沿って大玄関及び能舞台、大書院などが並び建ち、琵琶湖疏水の水を引き込んだ池を囲んで花泛亭などの茶室を配しているそうです。

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「東山高等学校・東山中学校」 幕末の「世の中が混沌とした時こそ学問が必要である」と、知恩院第73世の名誉学天大僧正が、明治元年(1868)知恩院内に学問所を設けたのが始まりです。

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琵琶湖疏水分線からの水路、別荘地域を流れます。

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「野村美術館」 野村徳七のコレクションをもとに、昭和59年(1984)に開設されました。徳七が傾倒していた茶の湯や能に関するものが多いそうです。

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「正的院」、鎌倉時代の僧・元翁本元(げんのうほんげん、1282-1332)の塔所として建立された南禅寺塔頭。本元は夢窓疎石とともに高峰顕日(こうほうけんにち)に師事、その法を継ぎました。 かつては僧堂の北にありました。

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疎石が南禅寺の住持となったときにその首座(しゅそ、修行僧のリーダー)となりますが、俗世をきらい比叡山や醍醐などにこもりました。後になって鎌倉万寿寺、ついで南禅寺の第11世住持となりました。南禅寺北門「大寂門」

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この通りには塔頭が並んでいます。手前は「南禅寺 奥丹」 創業寛永12年(1635)南禅寺の精進料理として生まれた湯豆腐の老舗です。総本家奥丹清水はもっと新しい別の店です。

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「本日のお豆腐は売り切れました」と書かれている入口の黒板に迷いました。結局、お豆腐がなくなったので湯豆腐はできませんという意味だろうと思います。

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木の間から三門が見えます。

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大きな別荘の間を通る道との合流点、鹿ヶ谷通はここまでのようです。

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「牧護庵(ぼくごあん)」 鎌倉時代の1318年、約翁徳検(仏灯国師)が後宇多天皇の勅令によって南禅寺5世となりました。1320年の徳検の没後、庵を創建して牧護庵と名づけ、南禅寺塔頭の一つになったといわれます。

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かっての庭園は、江戸時代の『都林泉名勝図会』にも掲載されているそうです。門前に「南禅寺五世佛灯国師塔所」の石標が建ち、上に地蔵が乗っています。石彫家・杉村孝氏のわらべ地蔵です。

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明治初年(1888年)廃仏毀釈によって法皇寺と合併して寺号を法皇寺と改めましたが、1992年に寺号を戻しました。その年「わらべ地蔵の庭」が作庭されました。通常は非公開ですが、特別公開されることがあります。

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杉村孝氏の作品は三千院のものが有名ですが、こちらの庭には100体以上のわらべ地蔵があるそうです。山門の左にある石には仏様が線刻されていましたが摩耗して判別できません。

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南禅寺の境内には3本の参道が平行に通っています。下は北側の参道で、三門があるのは中央の参道です。

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「三門」 南禅寺開創当時の永仁3年(1295)西園寺実兼の寄進によって建立されました。その後、改築と焼失を経て、現在の三門は寛永5年(1628)に藤堂高虎が大阪夏の陣に倒れた家来の菩提を弔うために再建しました。

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三門の楼上からは紅葉の境内が見渡せますが、訪れたい塔頭があったのでこの日は登りませんでした。

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境内のモミジのほとんどは立入できない苔地に植えられているのですが、真下に行ける場所には大勢の人が集まっています。

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三門をくぐると、法堂までの参道がモミジで囲まれています。

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こちらは先ほど見た北の参道で、僧堂があるあたりです。

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「法堂」法式行事や公式の法要が行われる場所で、南禅寺の中心となる建物です。創建当時のものは応仁の乱で焼失、その後復興されました。慶長11年(1606)豊臣秀頼の寄進により大改築されましたが、明治26年(1893)の火災によって焼失しました。

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現在の法堂は明治42年(1909)に再建されたものです。内部の須弥壇上中央に本尊の釈迦如来、右に獅子に騎る文殊菩薩、左に象に騎る普賢菩薩の三尊像が安置されています。

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2020年11月26日 (木)

秋の吉田山を歩く 竹中稲荷と宗忠神社

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日の記事で吉田神社の大元宮まで来ました。そこから山道を峠に向かって歩くと左に竹中稲荷神社の鳥居が並んでいます(上)。春は桜のトンネルになる場所です。

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「竹中稲荷神社」は現在では吉田神社の末社ですが、かっては独立した神社でした。創建時期は吉田神社よりも古く、平安時代初期にはこの地に社殿があったことが分かっています。

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『暁筆記』や『山城名勝志』には、在原業平(825-880)の住居が神楽岡稲荷の傍らにあったと書かれています。神楽岡は吉田山のことで、神楽岡稲荷が竹中稲荷だと考えられています。

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江戸時代後期の天保年間((1830-1844)には数千の鳥居が並び、雪雨でも傘が必要なかったといわれています。(11月3日の秋季大祭では、神事と護摩木のお火焚きの後に、下の舞殿で詩吟や舞楽の奉納が行われます。)

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明治5年に吉田神社の末杜になりましたが、現在でも多数の崇敬者がいて竹中稲荷講杜を組織しています。本殿の右手には末社の祠が並んでいます。

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吉田神社の節分祭では、竹中稲荷神社から鬼をはじめとした祭列が出発して、神事の後再び戻ってきます。大文字山が間近に見え、肉眼でも登っている人が見分けられます。

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本殿には、祭神として宇賀御魂神(うがのみたまのかみ)、猿田彦神(さるたひこのかみ)、天鈿女神(あめのうずめのかみ)を祀り、商売繁盛のご利益があるとされます。

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本殿の裏の斜面に奥之院の「竹鉋稲荷神社」があり、そこまでの間に多数の「お塚」が並び、在原業平の塚もあります。伏見稲荷大社のお塚と同様にちょっと近寄りがたい雰囲気です。

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本殿の左に竹中稲荷神社の末社「天満宮」があります。江戸時代末期の1852年に智福院より勧請された菅原道真を祀ります。この左手から吉田山の稜線に出ることができます。

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昨日の記事で紹介したように、吉田山の里山を再生する活動によって見晴らしがよくなっています。

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「霊元法皇御幸址」 徳川綱吉の時代の天皇で、幕府の朝廷統制にもかかわらず奔放な振舞いを続け、歌や書の達人としても知られています。この場所を3回訪れたそうです。

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「三等三角点 吉田山」明治36年(1903)に設置され、標高105.12mとあります。山頂はここより少し北にあり、その付近にカフェの「茂庵」があります(当面、月・火曜日はお休みです)。

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「紅もゆる丘の花」の歌碑 旧制第三高等学校の寮歌「逍遥の歌」の歌詞です。作詞作曲の沢村胡夷(こい)は、 京都帝国大学文学部教授で詩人の沢村専太郎のことです。

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山頂の南の広場は「吉田山公園」、吉田幼稚園の園児の遊び場にもなっています。

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吉田山を越える山道を横切ります。神楽岡側(東側)には宗忠神社車参道という標識があります。

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「宗忠神社」は黒住教の教祖・黒住宗忠を祀る神社です。宗忠は、江戸時代の安永9年(1780)備前国(岡山県)の今村宮の神主の家に生まれました。

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文化11年(1814)の冬至の日、朝の太陽を拝しているうちに神人一体の霊感を受け、黒住教を創始したとされます。以後宗忠は布教を重ね嘉永3年(1850)に亡くなり、幕末の安政3年(1856)朝廷から「宗忠大明神」の神号を与えられました。

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高弟の赤木忠春は美作(岡山県)の出身で眼病のため失明しましたが、宗忠の教えによって視力を回復したといわれます。宗忠の死後、忠春は京都で黒住教の布教に努めました。「拝殿」は昭和12年(1937)、奥の本殿は明治46年(1912)の改築。

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文久2年(1862)に吉田神社からこの地を譲渡され、宗忠を祀ったのが宗忠神社です。(奥の本殿の左に宗忠大明神、右に二条家より遷した天照大神を祀っています。)

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幕末の動乱期に忠春は尊王攘夷に傾倒し、「皇祖神・天照大神」を前面に出して大元(岡山市の本部)から破門されました。拝殿の右にある摂社「白山社」は、石川県の白山を神体とする白山比咩神(しらやまひめのかみ)を祀り、この地の鎮守です。

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しかし、明治の国家神道に対して、黒住教がいち早く「別派独立の許可」を得たのは、忠春の築いた人脈によるところが大きいといわれています。拝殿の左の摂社「忠春社」は忠春を祀っています。

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明治政府は、皇室の祖先神の天照大神を祀る伊勢神宮を全国の神社の総本山として管理しました。政府はこの「国家神道」は宗教ではないとして、信教の自由を侵していないという建前でした。

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しかし、神道各派の不満は大きく、祭祀を司る国家神道と区別して、一定の条件を満たした教派を教派神道として公認したのが「別派独立の許可」です。「神楽岡中教会所」この日は結婚式が行われたようです。

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手水舎の「神井戸」水は出ないといわれていたこの土地に忠春が掘り当てた井戸。神社に御神慮に適わぬことが起こると水が濁るといわれています。

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戦後GHQによって国家神道は廃止されましたが、教派神道(当初13、後に12派)は存続、1995年には「教派神道連合会結成百周年記念式典」が開催されました。石段の表参道を下ります。

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その中で、黒住教は出雲大社教、金光教に次ぐ信者数を有しています。桜のトンネルとして知られた参道ですが、モミジも少しありました。

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神楽岡通に面した「一の鳥居」。この後真如堂に向かいました(最後の写真は車参道近くの境内から)。

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