2018年1月24日 (水)

金閣寺 鏡湖池をめぐる

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日は久しぶりに金閣寺を訪れました。天候が不順な日が続いていましたが、この日は時々太陽が顔を出して、金閣がまばゆく輝いていました。

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「金閣寺」は、山号を北山、正式名称を鹿苑寺という臨済宗相国寺の山外塔頭です。

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鎌倉時代中期の1224年、公家の西園寺公経(きんつね)がこの地に別荘「北山殿」を造営しました。公経は、後鳥羽上皇の討幕計画を いち早く幕府に通報して、鎌倉幕府から朝廷の監視をまかされること.になり、絶大な権力を握っていました。

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北山殿には寝殿、滝、池が造られ、氏寺として浄土宗の西園寺が建立されました。西園寺は広大な境内を持ち、諸堂や複数の院坊が建ち並んでいました。(右は1994年に世界遺産に登録された記念碑、左は天皇家から下賜されたという「総門」。)

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室町時代前期の1397年、3代将軍・足利義満は河内国の領地と交換により、西園寺家から別荘を譲り受けて、大改修して北山第(きたやまてい)としました。北山殿ともよばれ、これが後の鹿苑寺です。

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舟形の「一文字蹲踞(つくばい)」 かっては馬が水を飲むための水槽で、総門近くにあったといいます。

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義満の北山第には、北御所、夫人・日野康子の南御所、祟賢門院の御所などが建てられ、1398年には舎利殿(金閣)が建立されました。当初は3層のみに金箔が貼られていたといいます。(下は庫裏・寺務所で写経所でもあります。)

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その頃から義満は北山第に移り住み、将軍職を子の義持に譲りましたが、実権は手放さずここで政務を執りました。結局、亡くなるまでの10年間この地が政治の中心となり、独特の文化も発展しました。(「参拝門」をくぐって少し行くと池があります。)

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南北朝時代の動乱を経て、それまで伝統的であった公家文化と、新興の武家文化の融合が特色で、明との勘合貿易、禅宗を通じて大陸文化の影響も受け、北山文化とよばれています。「鏡湖池(きょうこち)」の北畔に舎利殿が建っています。

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舎利殿は、初層が公家風の寝殿造で「法水院(ほっすいいん)」と呼ばれ、二層が武家造ともいわれる住宅風、三層が禅宗様の仏殿風で仏舎利が安置されました。

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1403年には義満は北山第で受戒します。法水院には、天台僧の法衣をまとう義満坐像と宝冠釈迦如来像が安置されています。

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三層は内部も床面以外は全面金箔張りで、屋根は宝形造杮(こけら)葺き、屋頂に銅製の鳳凰が置かれています。鳳凰にも金箔が張られています。

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金閣の撮影スポットの鏡湖池の南東には木戸があり、池の周りの散策路が見えます。庭園は池泉回遊式および舟遊式庭園になっていて、拝観では池の東から北の散策路を回ります。

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少し位置を変えると右に「細川石」が見えます。義満時代の官僚・細川頼之(よりゆき)が寄進した名石です。池が広いので小さく見えますが、地中に埋まった部分を含めて2mもあるそうです。 金閣の手前には中の島の「葦原島」があります。

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1408年に義満が亡くなると、翌年子の4代将軍・義持は三条坊門殿に移り、北山第は日野康子の居所になりました。

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1419年に康子が亡くなると北山第は破却され、翌年義持によって紫宸殿は南禅院へ、天鏡閣は南禅寺へ、懺法堂は等持寺へ、公卿間は建仁寺へなど、諸堂は他の寺院に移築されました。このとき、舎利殿、護摩堂、法水院は残されたといいます。

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残された舎利殿は、臨済宗の僧・夢窓疎石を開山(開基は義満)として、北山鹿苑寺という禅寺になりました。下は「陸舟(りくしゅう)の松」で、義満遺愛の五葉松の盆栽を帆掛け船の形に植え替えたと伝わっています。 右は方丈。

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鹿苑寺の寺号は、義満の法号「鹿苑院殿」にちなんでいます。1467年の応仁の乱では西軍の陣地が置かれ、建物や庭園は破壊や焼失しましたが、金閣だけは焼失を免れました。

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下は金閣の西に突き出た「漱清(そうせい)」。8代将軍・足利義政がここで手水を使い金閣に上がったといわれています。

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明治維新後の廃仏毀釈により、寺領の多くが上知され経済的基盤を失いましたが、当時の12世住職貫宗承一により明治27年(1894)から庭園及び金閣を一般公開して拝観料により寺収入を確保しました。

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昭和4年(1929)に金閣は国宝に指定されましたが、昭和25年(1050)に放火により焼失、国宝は解除されました。政府や財界の援助により金閣は5年後に復元され、庭園は昭和31年(1956)に特別史跡・特別名勝に指定されました。

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平成6年(1994)金閣寺は世界文化遺産「古都京都の文化財」の構成要素の一つとして登録されました。この後山の斜面の方に向かいます。

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2018年1月23日 (火)

蘆山寺・大福寺と京都七福神

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日の記事の遣迎院を含めて、今年になってから「京都七福神」のうちの5寺を訪ねました。今日は残りの蘆山寺と大福地を訪ねます。京都御苑の東の寺町通に面して蘆山寺の山門があります。

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「蘆山寺」は平安時代の天慶年中(938年~947年)天台座主元三大師良源によって船岡山の南に創建されたのが始まりです。明治維新までは遣迎院ともに「御黒戸四箇院」という宮中の仏事を司る四か寺の一つでした。(山門の正面は「大師堂」です。)

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大師堂は元三大師像を本尊として、左右に不動明王、金山毘沙門天、薬師如来像を安置しています。毘沙門天は聖徳太子作と伝えられています。 太子は父・用明天皇の没後皇位継承問題で排仏派の物部守屋らと戦い、そのとき戦勝祈願したのが毘沙門天でした。

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戦いに勝った太子は仏教をひろめるため四つの天王寺を築きます。大阪四天王寺は有名ですが、京都北山に建立したのが金山(きんさん)天王寺で、如意輪観音を本尊とし、脇侍に毘沙門天像を安置したと伝わります。しかしながら、金山天王寺は廃寺となりました。

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一方、廬山寺は創建後に洛北の地を転々として安土桃山時代の天正13年(1585)現在地へ移りました。そして、金山毘沙門天像を廬山寺で祀るようになったのは明治元年からといわれています。

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蘆山寺には4種類の御朱印があります。「洛陽三十三所」めぐりの如意輪観音、「紫式部邸宅址」、寺の開基「元三大師」、残る一つが京都七福神の「毘沙門天」です。

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寺町通から2筋西の麩屋町通に面して、夷川通と二条通の中間に大福寺があります。「大福寺」は正式名称を瑠璃光山利生院大福寺という天台宗の寺です。

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飛鳥時代の推古天皇の時代の599年、大和国宮田郷に建立されました。寺伝では厩戸王(うまやどのおう、聖徳太子)が創建したとされています。本尊の「薬師如来」は聖徳太子の自刻とされ、「菩提(ほてい)薬師」といわれています。

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平安時代初め、勅旨によって大福寺は平安京に移されました。当初は、八丁四方の広大な境内を有し、七堂伽藍が建ち並んだといわれています。江戸時代中期には菩提薬師の信仰が盛んとなりました。しか、1788年の天明の大火で炎上し寺域の多くを失いました。

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幕末には尊攘派志士の梅田雲浜(うんぴん、1815-1859)が寺を寓居としました。雲浜は小浜藩藩士で、近くの小浜藩塾・望楠軒に講主として通っていました。藩主が士籍剥奪されて浪人となると、京都で尊王攘夷活動を行い「反逆の四天王」と呼ばれました。

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1858年幕政批判により安政の大獄で捕らえられ獄中で病死しました。後妻の梅田千代 (1824-1889)は、明治維新の後新英学校・女紅場の講師となりました。(右は京都七福神の布袋尊で、杖を肩にしています。)

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江戸時代の商人が商売繁盛を願い大福寺にちなんで宝印を貰ったことから、出納長を「大福帳」と呼ぶようになったといわれています。大福寺は、現在では本堂だけとなり、こちらが本堂への出入り口のようです。

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大正11年(1922)民俗学者・田中緑紅(りょっこう)らが提唱して「京都七福会」が結成されました。当時は、松ヶ崎大黒天以外は寺町界わいの近い距離にあり、戦前は大変人気のある七福神だったそうです。(戸の横にご開帳やご朱印の授与日などが書いてあります。)

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ちなみに、蘆山寺には遣迎院が寺町にあった頃の七福神の推奨コースが記されていました。大黒天(妙円寺)→弁財天(妙音堂)→毘沙門天(廬山寺)→福禄寿(遣迎院)→恵比寿神(護浄院)→寿老神(革堂)→布袋尊(大福寺)

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当初の京都七福神のうち、福禄寿(遣迎院)は現在では拝観をしていません。護浄院には「京洛七福神」の福禄寿も祀られているので、そちらで福禄寿もお詣りするのがよいかも知れません。

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