2018年6月19日 (火)

建仁寺 史跡と塔頭を訪ねて2018

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日の地震で京都の寺社にも被害が出ていますが、全容が分かった時点でお知らせします。昨日の記事の建仁寺の庭園と法堂を見た後、境内にある塔頭とと史跡を見て歩きました。

北門の手前、花見小路にある塔頭「大中院」 康永元年(1342)に東海竺源(じくげん)を開基として創建、応仁の乱で荒廃しました。承応4年(1655)に雪窓霊玉(せっそうれいぎょく)が中興し、文化年中(1804ー18)に景和竺応・全室慈保が再建しました。

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下は境内の見取り図で、東側から右回りに境内を回ります。建仁寺の塔頭はほとんどが通常非公開ですが、特定の塔頭はときどき特別公開されます。

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「陀羅尼の鐘」 修行僧が寝につく亥の刻(午後10時)過ぎ、観音慈救陀羅尼を一万返唱しながらつくことから、この名があります。開山が在世のとき、鴨川の七条の下流、釜ヶ淵に沈んでいた源融(とおる)の旧物を「えいさい、ようさい」と、開山の名を呼びながら引き上げたという伝説があります。

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「西来院」 開基は蘭渓道隆(1213ー78)。応永年中(1394ー1428)、4世・道隆の法孫大宗が清本院を再建して西来院と号したのに始まります。応仁および天文の兵火で被災しましたが、慶長年間(1596^1615)以降に再建されました。

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道隆は南宋に生まれた禅僧で、1246年入宋していた泉涌寺僧・月翁智鏡により門弟とともに来日しました。執権北条時頼の帰依を受け、1249年時頼が建立した鎌倉・建長寺の開山になり、1259年頃京都の建仁寺住持となり、兼学から禅の寺風に改めました。

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その後、鎌倉に戻りましたが、蒙古の間諜(スパイ)との嫌疑により配流されるも釈放、その後再び配流・釈放と波乱万丈の半生を送りました。(上と下は「両足院」の門、両足院については一昨日の記事をご覧ください。)

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建仁寺開山の栄西禅師は吉備津神社の権禰宜の子として誕生、1154年14歳で比叡山延暦寺で出家得度、1168年形骸化し貴族政争の具と堕落した日本天台宗を立て直すべく、南宋に留学。日本仏教の精神の立て直しのために、禅を用いることを決意しました。(下は開山堂の門。)

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1191年に二度目の入宋のとき虚庵懐敞より臨済宗黄龍派の嗣法の印可を受け、同年帰国して九州の福慧光寺、千光寺などで布教を開始しました。「桑の碑」 栄西禅師は飲水、中風、不食、瘡病、脚気の五種の病に、諸仏菩薩の樹・桑の妙薬が効くと説きました。

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高山寺の明恵上人が建仁寺を訪ねたとき、栄西禅師は歓待して茶の効用を説いて、数粒の茶種を譲ったといわれます。明恵は、栂尾や宇治で茶の栽培を試み、その後、伊賀、伊勢、駿河、武蔵へと栽培地は広がっていきました。「平成の茶苑」

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「茶碑」 茶祖ともいわれる栄西禅師は宋に渡った際に茶を飲み、茶と禅寺で行われていた茶の作法を日本に伝えました。そして茶は養生の仙薬、喫茶は延齢の妙術と説きました。茶は坐禅修行の際の眠気を覚ますためにも飲まれました。

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「洗鉢(せんばつ)池」 防火用水かも知れませんが、名称は修行僧が持っている自分専用のお椀を洗うという意味です。ただし、禅宗の食事作法では食後にお椀に温かい茶や湯を入れて沢庵などの漬物を使用してお椀を洗うことを洗鉢というそうです。

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「開山堂」 旧名を護国院、古くは興禅護国院といい、開山・栄西禅師の入定塔(墓所)です。2層の門を入ると正面に開山の廟があり、苔むした庭にはお手植えの菩提樹が今も茂っているそうです。

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「道元禅師修行の地」 曹洞宗開祖の道元は比叡山で出家、後に栄西禅師の高弟・明全に師事して修行します。1223年に明全と共に宋に渡り各地で学びましたが、明全は1225年に亡くなりました。5年後に道元は明全の遺骨を持って帰国して建仁寺に入りました。

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「楽神廟」 建仁寺の鎮守で、明星尊(楽大明神)を祀ります。栄西禅師の母親が岡山吉備津神社の末社「楽の杜」にお参りすると、夢に明星を見て栄西を身ごもったという逸話をもとにこの地に祀られています。

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また、楽大明神の本地仏(神仏習合した仏教での姿)は虚空蔵菩薩で、知恵、学徳、記憶力などの功徳があるとされ、建仁寺が優れた学僧を輩出してきた由縁とされています。最近では受験合格祈願の信仰を集めています。

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「浴室」 寛永5年(1628)295世・三江紹益によって建立され、七堂伽藍のひとつです。内部は待合、浴室、土間(火炊場)に三分され、禅寺では入浴も修行の大切な部分として、厳しい作法が細かく定められているそうです。

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境内の東南のこの門の先にも塔頭・禅堂があります。

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「霊洞院(僧堂)」 建仁寺26世高山慈照の没後、その塔院として建立、現在の堂舎は1853年のもの。方丈前の庭園は江戸中期の享保頃の作と推定され、昭和49年国の名勝庭園に指定。現在、建仁寺派の修行道場になっていて拝観はできません。

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「大統院」 開基は青山慈永(せいざんじえい)(1302-69)。観応年中(1350-52)の創建。天文年間の1552年に類焼、1637年に再建。その際同じく焼失した光沢庵を吸収、明治には如是院を吸収しました。如是院は此山妙在(しざんみょうざい)(1296-1377)の創建です。

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「霊源院」 室町時代の1394-1428年頃、龍山徳見和尚を勧請開山として創建。当初は霊泉院といいました。室町時代の五山派の代表的学僧を多く輩出、大徳寺の一休宗純は幼年慕哲龍攀のもとで作詩の法を学びました。茶席「也足軒」と二畳の茶席があります。先日特別公開されましたが、行きそびれました。

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「六道珍皇寺」 836年に山代淡海によって「国家鎮護所」として建立、開基は弘法大師とも小野篁ともいわれます。初めは真言宗で教王護国寺(東寺)の末寺でしたが、南北朝時代に大昌院を創建した良聡が管領となり、建仁寺所属の寺院となりました。北門です。

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「勅使門」(重文) 銅板葺切妻造の四脚門で鎌倉時代後期の遺構を伝えています。柱や扉に戦乱の矢の痕があることから「矢の根門」または「矢立門」と呼ばれています。平重盛の六波羅邸の門、あるいは平教盛の館門を移建したものといわれています。

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「三門」 大正12年静岡県浜名郡の安寧寺から移建した三解脱門。「御所を望む楼閣」という意味で「望闕楼」と名づけられました。楼上には釈迦如来、迦葉・阿難両尊者と十六羅漢が祀られ、手前は「放生池」。

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室町時代中期の瑞巌龍惺の『春眺』の詩の中に、「望闕楼高くして帝城に対す」という句があるそうです。向うは法堂です。

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2018年6月18日 (月)

建仁寺 庭園と法堂2018

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

建仁寺塔頭の両足院を出て、本坊の庭園と法堂の拝観をしました。拝観受付は本坊(庫裡)にあります。

「建仁寺」は鎌倉時代前期の建仁2年(1202)将軍・源頼家が寺域を寄進し、栄西禅師を開山として宋国の百丈山を模して建立されました。元号を寺号とし、山号を東山(とうざん)と称します。

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創建時は天台・密教・禅の三宗兼学の道場でした。その後、寛元・康元年間の火災等で境内は荒廃するも、1258年東福寺開山円爾弁円(えんにべんえん)が入寺して復興し、禅も盛んとなりました。(下は拝観区域の見取り図です。)

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その後の1259年宋の禅僧、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が入寺してからは禅の作法、規矩(禅院の規則)が厳格に行われ、純粋の禅の道場となりました。(拝観受付を過ぎると、ビデオルームに複製の風神雷神図屏風と金澤翔子書「風神雷神」)があります。)

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「○△□(まるさんかくしかく)乃庭」 2006年に北山安夫の作庭で、○は苔地や砂紋、△は遠近法による白川砂の砂地、□は井筒を表します。本坊(左)、方丈(奥)、小書院(右)に囲まれています。○△□は禅の神髄を表すとされますが、解釈には諸説あります。

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小書院に鳥羽美花さんの襖絵16面が展示されています。鳥羽さんは京都市立芸術大学大学院修了後、日本独自の染色技法「型染め」を駆使して、ベトナムの光景を描いた一連の大作を制作して、新たな染色絵画の世界を切り開いたといわれています。

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2014年に栄西禅師800年大遠諱記念事業として奉納されたもので、今後大書院36面の襖絵を制作予定だそうです。

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小書院から「潮音庭」 小堀泰巌老大師(臨済宗建仁寺派管長)の作庭、北山安夫監修による苔庭です。高雄の景石を用い、法堂の三尊仏に見立てた三尊石があります。右に座禅石や紅葉などの植栽があり、島と海が表現されています。

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室町時代になり、幕府により中国の制度にならった京都五山が制定され、建仁寺はその第三位として厚い保護を受け大いに栄えましたが、戦乱と幕府の衰退により再び荒廃しました。(渡り廊下を大書院の方に向かいます。右が潮音庭。)

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開山堂の楼門に安置されていた陶製十六羅漢像が展示されていました。これらは清水五条の陶器職人たちが、それぞれ自分の最も得意とする技術で作り上げて建仁寺に献上したものです。

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大書院から潮音庭、大小の島を流れが回る様を表すといいます。秋に紅葉するヤマモミジ、ドウダンツツジ、冬の唯一の緑、常緑樹のヤブツバキが植えられています。

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安土桃山時代の天正年間(1573-1592)になって、安国寺恵瓊(えけい)が方丈や仏殿を移築して復興が始まりました。(もう一度渡り廊下を戻り、右にある方丈に向かいます。)

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方丈の北庭と「納骨堂」

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江戸時代になり、徳川幕府の保護のもと堂塔が再建・修築され、制度や学問が整備されます。(方丈の西庭、ここから下に降りて方丈の北にある茶室を見に行きます。)

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明治時代になり、政府の宗教政策等により臨済宗建仁寺派が分派独立、建仁寺はその大本山となりました。(方丈の北庭のさらに北に「田村月樵遺愛の大硯」があります。方丈には月樵による障壁画「唐子遊戯図」があります。)

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また、神仏分離令後の廃仏毀釈により塔頭の統廃合が行われ、余った土地は政府に没収され、境内が半分近く縮小されて現在にいたります。「清涼軒」

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隣に茶席「東陽坊(とうようぼう)」があります。豊臣秀吉の北野大茶会(1587)で、紙屋川の土手に建てられ、その後真如堂から上京を経て1892年頃に建仁寺境内に移されました。

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利休の高弟で天台宗の僧・東陽坊長盛が担当した副席だったとされ、利休は東陽坊に、鋳込んだ釜と長次郎作の黒楽茶碗「東陽坊」などを贈ったといわれています。中はニ畳台目の茶席の規範的な形とされます。

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「安国寺恵瓊の首塚」 建仁寺を復興した恵瓊は毛利家の外交僧で一説には戦国大名でもあったといわれます。関ヶ原の戦(1600)では西軍についたので六条河原で斬首され、その首を建仁寺の僧侶が持ち帰りここに葬ったといわれています。

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もう一度方丈に戻り外縁を回ります。庭の南西隅に七重の塔があります。織田有楽斎が兄の信長追善のために立てた供養塔で、1898年に開山堂の南からここに移されました。

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方丈南庭(大雄苑)にある唐門、南から勅使門、三門、法堂と一直線上にあります。

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「建仁寺方丈障壁画」(重文)は、かつて方丈に飾られていた全50面の襖絵で、安土・桃山時代から江戸時代にかけて活躍した海北友松が制作したものです。「竹林七賢図」、「琴棋書画図」、「雲龍図」、「山水図」、「花鳥図」から構成され日本を代表する大障壁画です。

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1934年には室戸台風によって方丈が倒壊しましたが1940年に再建、その時大書院が建立されました。障壁画は方丈が倒壊した際、幸いにも襖をはずしていたため難を逃れましたが、現在は襖から掛軸に形を変えて、現在は京都国立博物館に保管されています。

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2009年京都文化協会と(株)キヤノン株式会社が「綴プロジェクト」を開始して、全50面の高精細複製品が制作され、2014年開祖・栄西禅師の八百年大遠諱記念事業として、元の襖の姿で建仁寺に寄贈されました。下は「雲竜図」。

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最初に見た風神雷神図屏風も同プロジェクトによる高細密複製で、すべての複製品が撮影可能です。方丈の南にある「法堂」に入ります。江戸時代中期の1765年に上棟した禅宗様仏殿建築で、「拈華堂(ねんげどう)」とよばれます。

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正面須弥壇には本尊釈迦如来座像と脇侍迦葉尊者・阿難尊者が祀られています。

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天井には創建800年を記念して、2002年「小泉淳作画伯」筆の双龍が描かれました。

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