2025年6月15日 (日)

祇園を歩く 花見小路北から新橋通へ

過去の全記事  2006年1月27日から毎日更新しています。

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一昨日のなすありの径をあとに、有済橋を渡って花見小路通を南に歩きます。TOPは橋の上から見た白川でしばらく西に流れていきます。この辺り(花見小路通の西)の地名は長く「京都市東山区新門前通大和大路東入中之町」です。

新門前通は先にある東西の通り、大和大路通は一筋西の南北の通りです。以前にも紹介したように、一つの区に同名の町がある場合このような表記になってしまいます。ちなみに、中之町は粟田口にもあります(下京区にもあります)。

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「祇をん 新門荘」 創業昭和24年(1949)の料理旅館。夕食はボリュームや間違いない味に加え、現代バカラをはじめ江戸時代から伝わる古伊万里やオールドノリタケなど貴重な骨董品にも惜しまず盛りつけ、見た目にも美しい料理が楽しめます。

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「花見会館汀館」 花屋さんの「FLORA祇園白川店」、バーの「Affinage」、ライブ会場の「Candy」、日本料理の[比日氣] などいりいろなテナントが入っています。こちらは京都市東山区花見小路通新門前上ル東側町です。

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「や台ずし」江戸時代、日本橋通り沿いで産声をあげた屋台ずしが、うまく、やすく、気軽に足が運べる庶民のにぎりずしとして引き継がれてきました。もうひとつの看板メニューは本場名古屋の手羽先唐揚、お酒のつまみとして絶品とか。右は「新門前通」。

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交差点北西角は「ビルオークラ」 地階クラブ「An」,1階「CLUB An FIRST FLOOR」、2階クラブ「Curare VIP、3階「祇園 孔雀」と4階「蓮馨(れんきょう)」はラウンジ、5階「Gion Hair Salon BON」、RFはBBQスペース「SORASITA祇園」です。

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交差点の南西は「新古美術わたなべ」 古書画などの掛軸をはじめとして、屏風・額・彫刻など幅広く取り揃えています。HPが充実していて、新着情報や今月の商品があり、在庫を作家から探すこともできます。

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すぐ南に「新橋通」があり、交差点の南西は「「LA COULEUR(ラクルール)」 洋菓子店で、オシャレなスイーツやアイスクリーム、甘味があります。ガラス戸に「ずんだ正宗」とも書いてあります。

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「Galle(ガレ)」 インポートセレクトショップで、ニューヨークより主役級のイブニングドレスからトレンドをおさえたカクテルドレスを。パリより、エレガントなカジュアルラインをお届けいたします。

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「ステーキ二教(にきょう)」 知る人ぞ知るステーキ屋で、京都No. 1という方もいます。肉は特に銘柄を決めずその時の一番良いものを、一番美味いと思う焼き具合で提供してくれます。京都でミシュランの星を持っている二つのステーキハウスの一つです。

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「ヨネムラ ザ ストア」 料理人・米村昌泰氏のクッキー専門店、京都の食材を詰め合わせた「よねむらオリジナルクッキー」が人気です。こちらで、米村のお料理(冷凍)をお持ち帰りできます。

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手前は「Club CULLINAN」、向うは「SHOT BAR 祇園LUPIN!?」。

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「祇園かんかんでり麗」 京都ぽーくや丹波地どり、京野菜など京都産の食材にこだわった話題の宮廷料理 『祇園九節板(クジョルパン)ランチ』が頂けます。渋谷で大人気の、少しずつ色々な種類の海鮮丼を味わえる「おちょこ丼」が登場しました。

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新しいお店が開店するようですが、店名がありません。この地域は2022年に「祇園新橋伝統的建造物群保存地区」に指定されていて、周囲の町家と違和感があるこの建物が問題がないのか分かりません。

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「梅乃家」京風情豊かな店内で、旬の食材を添えた和牛しゃぶしゃぶ・すきやきを頂け、ゆったりと寛げる個室もあります。夕方の開店前には配送のトラックが止まっていることがよくあります。

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建物は「新花」、看板には「くらびくら」、「勝きぬ」、「ぎをんここなっつ」、「祇園 小夏」とあります。いずれもバーやクラブだと思いますが、詳しくは分かりません。

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「広東御料理 竹香」 1966年創業の京都らしく上品にあっさりしたやさしい味の広東料理店。2階は5名から56名までの宴会の予約が可能。コース料理や飲み放題あり、お座敷で企業の会議やセミナーと宴会をセットで楽しむことができます。

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「かとう」 築120年以上の古民家のお茶屋(バー)です。GoogleMapでは、「お茶屋」が「喫茶・カフェ」となっています。

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再び白川に出会い、正面は「祇園新橋」です。橋の左手前にある「Bistro & Wine Salon YAMADA」は

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フランス料理店で、四季を感じる繊細なフレンチを町家の落ち着いた雰囲気の中で味わえます。旬の食材を生かしたローオイル、ローソルト料理をお客様のニーズに応じてお出ししたいと考えているそうです。ワインの種類も豊富です。

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橋のたもとに「火除け地蔵尊」の祠があり、木造家屋が多いこの地域の防火の象徴です。地蔵尊の十の現世利益に「火除け」があり、かっては町々に火除けの地蔵尊が祀られていたそうです。。最後の写真は白川の上流。

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2025年6月14日 (土)

東山聖天・香雪院と歴代の尼僧たち

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先日の渋谷(しぶたに)街道(渋谷通)の三嶋神社の向かいの道に香雪院があります。手前は京都女子大学K校舎学生会館、向う(南)には京都女子中学校・高等学校、向いには京都女子大学付属小学校があります。

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「香雪院」は、妙法院の塔頭の尼寺で東山聖天ともよばます。妙法院は豊臣秀吉が造営した天台宗の門跡寺院で、東山七条の智積院の北にあります。山門を入った右に「鎮守社」があります。

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香雪院は江戸時代の寛保年間(1741-1743)、霊元天皇の第18皇子・妙法院23世・尭恭(ぎょうきょう)法親王(?-1764)により創建されました。(鎮守社の横に石仏が並んでいます。)

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この地が妙法院の丑寅(北東)の鬼門の方角に当たることから、尭恭法親王の持仏の聖天像を安置するためのお堂を建てたのが始まりです。また、当時は妙法院の所有だった積翠園の東隣でもあります。(庫裏の玄関、八坂神社の蘇民将来のチマキがありました。)

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この像は、妙法院第2世・慈覚大師が中国より持ち帰った双身聖天像(歓喜天)と伝えられ、続く妙法院24世・真仁法親王、25世・教仁法親王が聖天像の供養をおこないました。(書院?の玄関)

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その後明治時代になると門跡寺院の制度は廃止となり、法親王の入山門主は禁じられました。塔頭の香雪院も衰退を余儀なくされました。下は玄関にあった置物。

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明治10年(1877)ごろ、中島良湛尼が妙法院塔頭の尼寺として香雪院を再建しました。7歳で良湛尼の徒弟となった中島秀湛尼(1880-1937)は、翌年得度、19歳の時に良湛尼が亡くなり(再建された香雪院の)2世住職となりました。

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2世・秀湛は就任後、本堂を修理、書院を改築、梵鐘を鋳造して鐘楼堂を新築するなど堂宇の再建に尽力、寺は興隆し、57歳で亡くなりました。中門の左手前、右に「再建碑」(中島良湛)、左に「中興碑」(中島秀湛)があります。

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昭和15年(1940)に3世・中島湛海尼(1915-2006)が就任しました。湛海は大正4年(1915)栃木に生まれ父は財界人でしたが、生まれてすぐに母を亡くして祖母に育てられ、7歳で香雪院に入り2世・中島秀湛の養女となっていました。「手水舎」

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11歳で出家、京都女子高等学校を卒業後も修行を続け、26歳のときに3世として香雪院を継ぎました。(鳥居の扁額には歓喜天と書かれています。)

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ところが、昭和20年(1945)1月26日午後11時過ぎ、米軍の「馬町空襲」により本堂や庫裏が大破してしまいました。(歓喜天は象頭人身の姿をしているそうです。)

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京都府の記録によると、この空襲の死者34人、負傷者56人、全焼・全壊31戸、半壊112戸でした。馬町以降、京都は4回にわたり空襲を受けました。「歓喜稲荷社」

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当時の修道国民学校(元東山小学校)や京都女子専門学校(現京都女子大)なども大きな被害を受けました。 3世・湛海は馬町空襲の被災者を3か月にわたって救護したといわれています。

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その後、湛海は香雪院を再興、行願寺(革堂)住職を兼務しました。 庭には様々な草木が植えられていました。

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湛海は女性初の権僧正や権大僧正となり、昭和63年(1988)には女性で初めて天台宗の最高位・大僧正に就任しました。(向うは庫裏で、手前に献灯碑、その向うに七重石塔があります。)

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昭和63年(1988)中島光海尼が第4世に就任しました。湛海は平成18年(2006)に亡くなり、享年91、喪主は中島光海尼でした。 「弁天堂」、天井は藤や杜若が描かれた花天井になっています。)

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湛海が亡くなったときは新聞各紙に報道されました。(弁天堂の左右に「弁才十五童子 出自と由来」があり、十五童子の手書きの絵と説明があります。)

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4世の光海もまた革堂の住持を兼務、そちらでお勤めすることが多いようです。境内の奥に見事な竜の透かし彫りのある鐘楼があります。梵鐘は昭和24年(1949)再鋳。

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正面が「本堂」(歓喜天堂)で、本尊の秘仏・双身聖天像を祀っています。除病除厄、富貴栄達、恋愛成就、夫婦円満、除災加護のご利益があるとされます。

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本堂にはたくさんの種類の御朱印が飾ってあり、見事な花の絵が描かれたものもあります。革堂の副住職の「気まぐれ御朱印」は有名で、同じ方が描いたのかも知れません。

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ちなみに革堂(行願寺)は西国三十三所の唯一の尼寺(第19番)です。 女性が猫を背中にしょって庭仕事をしていました。住職が兼務している革堂も「猫のいる寺」として知られています。

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香雪院は尼寺三十六所霊場の11番目の札所になっています。(こちらも鎮守社だそうです。)

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