2017年9月23日 (土)

檀王法林寺 だん王さんと主夜神

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日の記事の頂妙寺を出て、仁王門通を西に行くと川端通に出ます。三条大橋の近くです。川端通を南に行くとすぐ、檀王法林寺の門があります。

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「川端門」 有栖川音仁親王一族は主夜神尊への信仰があつく、江戸時代の明和3年(1766)本堂再建の際にこの門を寄進しました。赤門あるいは開運門とも呼ばれ、昭和49年(1974)に修復、京都市指定文化財です。かってはこの門が正門でした。

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「檀王法林寺」は 正式名称を「朝陽山 栴檀(せんだん)王院 無上法林寺」という浄土宗鎮西派の寺院で、一般には親しみを込めて「だん王さん」と呼ばれています。

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参道の左に昭和61年に再建された「龍神堂」があります。龍神堂に奉られていた「加茂川龍神」は、晴雨を司る神様として旱(ひでりや水難から守ってくれる神様です。

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晴天、雨請(あまごい)等の天候を祈願するお堂として古くから信仰を集めていましたが、加茂川龍神立像は現在本堂に移されています。

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龍神堂の前に樹齢三百年を超える「大銀杏」があり、古くから龍神と並んで水害を防ぐ神木と崇められてきました。ところが、戦前の台風によって倒れて切り株だけが残されましたが、新芽が出ているようです。

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龍神堂の横に、昭和12年(1937)に再建された「観音堂」があります。平安時代後期の作といわれる十一面観音立像を安置しています。

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この像は、奈良笠山の竹林寺にあったものが建仁寺内の興雲院に移され、当時の住持・良妙上人が譲り受けたものだそうです。奈良長谷寺の観音像と同木同作ともいわれますが定かではないとのことです。

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この地にはかって「悟真寺」がありました。鎌倉時代の文永9年(1272)浄土宗三条派の派祖、望西楼了恵(ぼうせいろうりょうえ)上人が、亀山天皇の帰依を受けて「朝陽山」の山号を賜り建立した寺院です。(境内には保育園があります。)

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了恵上人はこの地で専修念仏の布教につとめましたが、その後悟真寺は応仁の乱をはじめ、度重なる天災や人災の被害を受けて、戦国時代の永禄年間(1558‐69)に廃絶したと伝えられています。

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悟真寺の跡地に檀王法林寺を建立したのが袋中(たいちゅう)上人です。袋中上人は若い頃から浄土宗の学僧として知られ、慶長7年(1602)51歳の時に明へ渡ろうと決意しましたがかなわず、翌年から3年間琉球国に留まりました。(向うは寺が経営する児童館。)

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帰国後の慶長16年(1611)京都に入り、悟真寺の跡地に草庵を建てて法林寺と名づけ、浄土念仏の教化や著述に没頭する一方で、寺域を拡張しました。(「楼門」は明治21年(1888)の建立です。)

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こちらの扁額の「望西楼」は、悟真寺を建立した了恵上人にあやかり、山階宮晃親王の筆です。反対側(南)の扁額は「朝陽山」です。楼内には十六羅漢像と大日如来像を安置しています。

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袋中上人は元和5年(1619)「法林寺什物帖」を弟子の團王(だんのう)上人に書き残して寺を譲り、自らは東山五条坂に袋中庵を創建して移り住みました。(四天王像は楼門新築に伴って購入したもので、大阪和泉の興善寺旧蔵のものと伝えられています。)

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上の「広目天」は平安時代後期の作で、その他は鎌倉後期から南北朝時代の作と考えられているそうです。下は「多聞天」

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袋中上人のあとを継いで2世住持となった團王上人は、寺院興隆に尽力して恵心僧都作と伝えられる阿弥陀如来立像を本尊として阿弥陀堂(本堂)を建立して、寺域も現在の広さにまで拡大しました。「増長天」

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團王上人は人徳も厚く町衆信者との交流を深めたので、寺は庶民から「だんのうさん」と親しみを込めて呼ばれるようになり、現在でもその名の方が知られています。「持国天」

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10世良空(りょうくう)上人は現在の庫裏を建て、玄関や方丈を新築、現在のような瓦葺きの屋根になりました。本堂の右にありますが、まだ園児たちがいたので遠慮して近くには行っていません。

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その後、12世住持の良妙(りょうみょう)上人は本堂を始めとする諸堂の大規模な修理を行い、現在の姿になりました。現在の本堂には、阿弥陀如来坐像(京都市指定文化財)を祀っています。

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本堂の右手前にある「袋中上人御親筆大名号碑」 袋中上人が4mを超える料紙に書いた「南無阿弥陀仏」の名号を、昭和11年(1936)に偶然手に入った巨石に刻印したものだそうです。

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ところで、かって鎮守社には「主夜神(しゅやじん)尊」が祀られ、袋中上人の頃に後水尾天皇など皇室の信仰が始まり、良妙上人の頃には霊元帝をはじめ皇室による保護をうけて発展しました。

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主夜神は、恐怖諸難を取り除き、衆生を救護し、光を以って諸法を照らし、悟りの道を開かせるとされる神様だそうです。良妙上人は本堂の北に主夜神堂を建立、主夜神尊御開帳の法楽の年次祭礼をはじめて、主夜神信仰が最盛期を迎え多くの信者を集めました。

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主夜神尊の御開帳祭礼は戦後に途絶えましたが、1998年に復活しました。本堂の前に「主夜神霊前」と刻まれた灯籠が残っています。

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江戸時代中期から、主夜神の使いとされる黒色の「右手招き猫」が作られました。主夜神尊の銘を刻んだ当寺の招き猫は、寺社開運の招き猫としては最古のものだそうです。

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明治4年(1871年)には免税特権の破棄を目的とした社寺上地令が出され、境内・墓地など寺地の大半が上知(国有化)されました。当寺は檀信徒の寄進により寺地を拡大してきたため、御朱印地のような免税特権のある寺領はなく、上知されませんでしたが、、

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当時の住持・幽誉玄了は京都府の牧畜勧業政策に乗り、庭園の木石を売却した跡地で豚の飼育事業を始めて失敗、決して広くない寺地の一部と袋中時代の梵鐘を売り払う結果となってしまいました。幽誉玄了は檀家に糾弾されると姿を消してしまいました。

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衰退してしまった当寺を再興するため、明治10年(1877)飛騨高山の大雄寺より第22世として信ヶ原譲誉上人が招聘されました。(「鳥之供養塔」。京都食鳥組合が昭和33年に建立、題字は当時の高山義三市長です。)

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譲誉上人は檀信徒に協力を呼びかけると共に出身の大雄寺にまで助力を願い出て、当寺の借財を返済することに成功しました。さらに散逸した寺宝の回収と境内伽藍の復興にも力を入れ、質入されていた「日吉山王祭礼図」と「枇杷に麝香猫図」を取り戻しました。

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上の二層楼門と下の三条門を新築して、楼門には先に紹介した四天王像を購入しました。また長年の間に廃れていた儀式の復興にも尽力、明治13年(1880)に了恵上人の550回忌を行い、その木像を新造、明治21年(1888)には袋中上人の250回忌を行いました。

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譲誉上人は後継となる人材育成や檀信徒の結集を図るため、明治26年(1893)の鴨川運河完成を機に川端通に面した境内地に10戸の借家を建築して、弟子や檀家を集中させました。譲誉上人は檀信徒から後中興の祖と呼ばれているそうです。

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2017年9月22日 (金)

頂妙寺 仁王門通由来の日蓮宗本山

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

先日の記事の西寺町通を後に、仁王門通りを西に行くと鴨川の近くに頂妙寺があります。

「頂妙寺」は山号を聞法山(もんほうざん)という日蓮宗本山の一つです。だだし、宗教法人・日蓮宗では本山と末寺の区別を廃止(本末解体)しており、「本山」はかっての格式を示す称号です。(下は仁王門通に面する総門。)

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室町時代の1469年に上洛した日蓮宗の僧・日祝(にっしゅう、1427-1513)が武将・細川勝益(?-1502)から四条錦、万里小路富小路の領地を寄進され、1473年に寺院を創建したのが始まりです。(総門を入ると正面に立派な仁王門があります。)

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東山天皇により聞法山の山号を贈られ、勝益の法号の頂妙院殿から頂妙寺と名付けられました。(この仁王門が通りの名になった経緯は後ほど説明します。)

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通常の仁王門では金剛力士像を祀っている場合が多いのですが、こちらは快慶作と伝わる天部像が祀られています。左に「多聞天」、

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右に持国天です。どちらも奥の扉の中にいて、暗くて金網越しなので写真を撮るのに苦労しました。

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1509年将軍・足利義稙の命により新町通長者町(上京区)に移転、1523年には将軍・足利義晴の命により、高倉中御門(左京区)に移転しました。このころは洛中洛外の法華宗21本山の一つになりました。(仁王門をくぐると正面に本堂があります。)

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1536年に比叡山衆徒が日蓮宗宗徒を武力で洛外に追い出した事件(天文法華の乱)が起こりました。21本山は焼き打ちにされ、頂妙寺は堺に避難しました。(「立正安国」を説く日蓮像)

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1542年に後奈良天皇の勅許により洛内への帰還と布教が認められました。蓮池平右衛門尉秀明が高倉中御門の旧地を買戻して寄進、1546年に頂妙寺が再建されまれた。(本堂には本尊として十界大曼荼羅を安置しています。)

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本堂の横に「旧敷地寄進人 蓮池平右衛門尉秀明」と書かれた石碑が建っています。

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この後、本堂を中心に境内を右回りに見ていきます。広い境内には塔頭が8院もあり、ほとんど紹介できません。下は「菊神稲荷大明神」。 

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安土桃山時代の1579年、織田信長の命により、安土城下浄厳院で浄土宗と法華宗の宗論が行われ、法華宗からは当寺の3世・日珖、先日の記事の寂光寺(久遠院)の日淵ら3名が参加しました。「妙見宮」

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法華宗は宗論に敗れて詫状二通を書かされ、以後の布教を禁じられました。これは法華宗を弾圧するための信長の謀略といわれ、法華宗では「安土法難」と呼んでいます。

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安土桃山時代の1580年、豊臣秀吉は宗論の再検証を行い、法華宗の布教再開を許す宗門布教の許状を与えました。その許状を扁額にしたものが仁王門の中央に掲げられています。一昨年の特別公開では訴状の現物も公開されたそうです。

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江戸時代の寛文13年(1673)、関白鷹司房輔の屋敷から出火、内裏を含む上京一帯が類焼しました(寛文の大火)。下は鬼子母神堂。

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この火災で内裏が炎上しましたが、後の内裏再建において、隣接する街区の再編成が行われました。内裏に隣接して境内を構えていた頂妙寺は、鴨川の東岸の二条川東(かわひがし)の現在地に移転することになりました。

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寛文の大火は、昨日の記事の宝永の大火より35年前のことです。(下は立派な門構えの塔頭「真浄院」)

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太田久佐太郎(1891‐1955)の句碑「冠翁忌わがあしあとに耳澄ます」があります。「冠翁忌」とは江戸時代中期の京都の俳人・堀内雲鼓(ほりうちうんこ、1665‐1728)の命日忌(5月2日)のことです。

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堀内雲鼓は上の五文字を出し、付句の十二文字を作句する「冠句」を流行させました。昭和初期に京都の俳人・太田久佐太郎は、四季の生活風景と人生の哀歓を詠む抒情詩としての正風冠句を提唱、「文芸塔」を発刊しました。

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頂妙寺が移転したころの二条川東は、畑地で民家はなく南の三条に法林寺(だん王)が建っているだけでした。(境内の西北にある「客殿」、大きな建物です。)

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1708年の「宝永の大火」の後、御所の拡張のため丸太町北の民家と寺町筋の寺が二条川東へ移転する大規模な都市整備が行われました。(書院の玄関、頂妙寺事務所の看板があります。)

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その際、頂妙寺の前の仁王門通を起点として北の二条通との間に5筋、南の孫橋通との間に6筋の南北の通りが開かれました。(本殿の裏を通って境内の東側に行きます。)

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それらの通りは、ほとんど新富小路通のように移転前の通りの名に「新」を付けたもので、街区をそっくり鴨川の東に移した大規模な都市整備が行われました。昨日の記事で紹介した西寺町通と東寺町通(現東大路通)だけが例外の名前でした。「威徳善神」

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民家や寺の移転は仁王門通の近くから埋められ、この地域の開発の基軸となりました。遅くとも、宝永の大火後の移転の際にはこの通りが仁王門通の名で呼ばれたと考えられています。「大黒天堂」

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1788年には京都で史上最大といわれる「天明の大火」(どんぐり焼け)が発生して、この地域も炎上しました。しかし、この火災では街区の再整備は行われず、頂妙寺も現在地で再建されました。(「祖師堂」)

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境内の東に墓地があり、開基の武将・細川勝益、室町時代‐江戸時代の連歌師・里村昌休ら一族の墓とともに、江戸時代初期の絵師・俵屋宗達の墓があります。俵屋宗達は風神雷神図で有名な琳派の祖です。

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俵屋宗達作、烏丸光広賛の紙本墨画「牛図」が当寺に寄贈され(国立博物館寄託)、琳派400年を記念して公開されたそうです。(境内を一周して本堂前に戻ってきました。)

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