2021年2月28日 (日)

雪の京都 貴船神社

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全て拡大します。

京都の緊急事態宣言は明日(3月1日)から解除されますが、新型コロナの感染再拡大を防ぐために2週間の不要不急の外出自粛を求められました。明日からの記事をどうするかはまだ考えていません。

大雪のが降った日の「雪の京都」の最後は貴船神社です。叡電の「貴船口」で降りると、数分待っただけで貴船行きのバスがやって来てラッキーでした。歩くと貴船神社までは30分かかります。

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貴船川沿いの料理旅館の端でバスを降りると、鞍馬よりも雪が深く一面の雪景色でした。

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鞍馬山へ向う赤い橋、向うに鞍馬寺の西門があります。鞍馬寺でも見たように「倒木があり通行止め」と書いてありました。

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今日は旅館やお店の紹介はありませんが、雪景色も雰囲気があります。

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貴船神社・本宮の赤い鳥居が見えて来ました。

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赤いポストは今も活躍中です。

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この貴船神社は全国に約500社ある貴船神社の総本社ですが、創建の年代は不詳です。(石段の途中で氷が張って滑りやすくなっています。)

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伝説によると反正(はんぜい)天皇の時代、神武天皇の母である玉依姫命(たまよりひめみこと)が出現して、黄色い船に乗って浪花から淀川・鴨川・貴船川を遡って、当地に水神を祀ったとされます。

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天武天皇の白鳳6年(666)に社殿造替えが行われたという社伝が、最も古い記録です。『日本後紀』に延暦15年(796)東寺の造営の任に当たっていた藤原伊勢人の夢に貴船神社の神が現れ、鞍馬寺を建立するよう託宣したとされます。

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『延喜式神名帳』には「山城国愛宕郡 貴布禰神社」として名神大社に列し、( 焚き火が嬉しいです。)

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保延6年(1140)には最高位の正一位の神階を授けられました。しかし、永承元年(1046)7月、出水により社殿が流失し、天喜3年(1055)現在の本宮の地に社殿を再建・遷座して、元の鎮座地は奥宮としました。(社務所)

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貴船神社には水神である高龗神(たかおかみのかみ)を祀り、古くから祈雨の神として信仰されてきました。(社務所の前の重森三玲氏の庭も雪で覆われています。)

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平安時代前期の嵯峨天皇の時代、弘仁9年(818)日照りの際に朝廷より奉幣使が遣わされ、以後雨止には白馬を、雨乞いには黒馬を奉納する祈雨神事が始まったとされます。

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本殿に祀られている高龗神は貴船大神ともよばれます。林羅山の『本朝神社考』や卜部兼方の『釈日本紀』によると、この「龗」という字は、龍蛇の類(たぐい)とされ、水を司るという龍神の一種と考えられるそうです。

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「水占(みずうら)みくじ」 山からご神水が引かれ、齋庭(ゆにわ)と呼ばれる遣水におみくじを浮かべると文字が現れます。このおみくじには「大凶」が出ることもあるそうです。

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可愛い鳥が来ていました。

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ここから奥宮に向かために、先ほどとは反対の北の石段を下ります。

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再び貴船川沿いの道を歩きます。

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雪国の方は見慣れているかも知れませんが、貴船川の雪景色は見事でした。しばらく歩くと左手に社があります。

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「結社(ゆいのやしろ)」 神話によると、日向国に降臨した瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が美しい木花開耶姫(このはなさくやひめ)を見初め、父の大山祇命(おおやまつみのみこと)に結婚を申し出ました。

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父は大いに喜び、風が吹いても石のように変わらず働くようにと姉の磐長姫命を添えて送り出します。ところが、磐長姫命が大変醜かったのに驚き、瓊瓊杵尊は磐長姫命を送り返してしまいました。

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磐長姫命は大いに恥じて「我長くここにありて、縁結びの神として世のため人のために良縁を得させん」とこの地に鎮座したといわれます。和泉式部もお詣りし願いが叶い、不和となった夫と復縁した話はよく知られています。

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結社を後にしばらく歩くと、奥宮の鳥居が見えてきました。

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鳥居の向こうに小川が流れています。参拝者はこの川で手を洗い口をすすいで身を清めてから奥宮に向かい、禊(みそぎ)の川、御物忌(おものいみ)の川とされています。

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和泉式部の話からいつしか「思い川」と呼ばれるようになりました。高浜虚子は「遅桜なほもたずねて奥の宮」、「思い川渡ればまたも花の雨」と詠みました。「奥宮参道」

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「奥宮神門」左手前に手水があり山からの清水が流れこんでいます。

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社伝によると、反正天皇の時代に初代神武天皇の母・玉依姫命(たまよりひめみこと)が浪花津(大阪湾)に出現しました。

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玉依姫命は、水の源を求めて黄色い船に乗って、淀川、鴨川を遡り、その源流である貴船川の上流・この奥宮の地に来ました。そこで、水神を祀り、乗ってきた船の色から「黄船の宮」と称されたといわれます。

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上述のように、平安時代中期に出水により社殿が流失して現在の本宮の地に遷座されましたが、元の鎮座地は聖地・奥宮として本宮と同様に祭祀が続けられてきました。「拝殿」の向こうに「本殿」があります。

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玉依姫命が乗ってきた黄色い船は人目に触れぬよう石で包み囲んだといわれ、現在も「船形石」として本殿の横にあります。

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2021年2月27日 (土)

雪の京都 大原の里と寂光院

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日、新型コロナウイルスに関する関西3府県の緊急事態宣言が2月末で解除されることになりました。それを受けて、昨晩京都府の対策本部会議が開かれて当面の措置が決定されました。

大原の雪景色では、三千院方面と来迎院から出世稲荷神社を訪れて、最後の目的地・寂光院に向かいます。もう一度、大原のバス停に戻り、高野川の向こうの鯖街道(国道367号)を横切ります。

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感染の再拡大を防ぐため、飲食店などへの営業時間短縮の要請は、解除後の3月1日から1週間は1時間延ばして夜9時まで、酒類の提供は夜8時までとなりました。(ここからの道は寂光院道とも呼ばれています。)

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その翌週の1週間は対象地域を京都市に限定して要請が継続されます。また、3月1日から2週間、日中を含めて不要不急の外出自粛の協力が求められました。その後は状況を見て判断するそうです。

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「朧の清水」平家滅亡の後、京都に護送された建礼門院は吉田に隠棲、出家しました。その後、寂光院に向かう途中このあたりで日が暮れてしまいました。月光のもとで、清水の水面に写る自分のやつれた姿を見て嘆いたとされます。

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高野川の支流の草生川にかかる橋のたもとに「落合の滝」があります。建礼門院の歌、「ころころと 小石流るる谷川の 河鹿なくなる 落合の滝」。

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民宿「大原の里」 大原には温泉が湧きその湯元の一つ。日帰り入浴もでき、自家製味噌鍋が名物です。ライブカメラがあって、インターネットで大原の積雪状況が分かります。

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こちらは「大原山荘」ここも湯元の大きな温泉旅館で、駐車場の片隅に温泉の自動販売機があります。

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手前の建物では足湯カフェや陶芸体験もできるそうです。10分間で焼上がると書いてあります。

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寂光院の塀の向こうに入口の門が見えてきました。右には建礼門院の陵墓があります。

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「寂光院」は山号を清香山、寺号を玉泉寺という天台宗の尼寺です。その創建は古く、推古2年(594)に聖徳太子が父・用明天皇の菩提を弔うために建立したと伝えられています。

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初代住持は聖徳太子の御乳人であった玉照姫(たまてるひめ)です。玉照姫は敏達13年(547)に出家して慧善比丘尼と称し、日本で最初の三人の比丘尼の一人といわれています。

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慧善比丘尼の後、代々高貴な家門の姫君らが住持となり法燈を守り続けてきたとされますが、史料が消散して名前は伝わっていません。

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当初の本尊は聖徳太子作と伝えられる六万体地蔵尊でした。鎌倉時代に作られた旧本尊(重要文化財)は、平成12年(2000)の火事で焼損したため、現在は模刻された地蔵菩薩像が本堂に安置されています。

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桃山時代頃の建築の特色を残しているといわれていた本堂は、平成12年の火災で焼失した後、5年の歳月を経て平成17年6月2日に当時の姿に再建されました。

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寂光院では他の資料から判明している阿波内侍(あわのないじ、藤原信西の息女)を第2代住持と位置づけているそうです。(本堂の右手にある書院。この横から渡り廊下を通って本堂にお参りします。)

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本堂横(東)にある「四方正面の池」 池の周囲に回遊できる小径がつけられ、四方のどこから見ても正面となるように、周りに植栽が施されています。

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阿波内侍は建礼門院徳子に仕え、崇徳天皇の寵愛をうけた女官でした。出家のあと平安時代末の永万元年(1165)に入寺し、証道比丘尼と称しました。(北側の背後の山腹から水を引き、三段に分かれた小さな滝を設けています。)

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質素な身なりでも着こなしのセンスがよかったようで、草生の里の女性が真似をして、今の大原女の姿となったといわれています。

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本堂の右手前にある「雪見灯籠」 鉄製灯籠で豊臣秀頼が本堂を再建した際に伏見城から寄進されたものと伝えられています。

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本堂の左手前の「汀の池 (みぎわのいけ)」のほとりに「千年姫小松」があります。古来より桜と松が寄り添うように立っていて、樹齢数百年の五葉松の大木でしたが、先の火事で焼けてしまいました(右)。左に「汀の桜」があります。

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「諸行無常の鐘楼」 江戸時代に建立された鐘楼には「諸行無常の鐘」と称する梵鐘が懸かっています。鐘身の銘から時の住持は本誉龍雄智法尼で浄土宗僧侶であることが分かったそうです。

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建礼門院(平清盛の息女、高倉天皇の皇后)は、文治元年(1185)に入寺して真如覚比丘尼と称しました。

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建礼門院は、源平の合戦に敗れ長門国壇ノ浦で滅亡した平家一門と我が子・安徳天皇の菩提を弔いながら、この地に侍女たちとともに閑居して終生を過ごしました。(西門を出て、本堂の北西にある「建礼門院庵室跡」に向かいます。)

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建礼門院の夫・高倉天皇は8歳で即位、父の後白河法皇の院政の下で、1181年に病で亡くなっていました。文治2年(1186)の4月下旬、後白河法皇は忍びの御幸で寂光院の建礼門院の閑居を訪ねました。「大原行幸」とよばれる故事です。

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後白河法皇が見た建礼門院の庵室は、「軒には蔦槿(つたあさがお)這ひかかり、信夫まじりの忘草」「後ろは山、前は野辺」という有様で「来る人まれなる所」だったそうです。「建礼門院庵室跡」の石碑が建っています。

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大原行幸では、法皇が建礼門院の身の上を憐れんだのに対し、建礼門院は自らの人生を仏教の六道になぞられて語った「六道語り」が知られています。庵室跡の右手奥に建礼門院が使用したという井戸があり、今も水が湧いています。

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火事で焼損した本尊は財団法人美術院において修理を施されて、現在は庵室跡の西の耐火構造の収蔵庫に安置されているそうです。

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「平家物語」では、後白河法皇に会った建礼門院は、最初に激しい恨み言を述べたといわれます。平家の都落ちの際に法皇が比叡山に逃げたこと、法皇の命令による大宰府攻撃などです。(庵室を守るように小さなお地蔵さんがいます。)

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平家物語には、大原行幸で後白河法皇が詠んだ歌が載っています「池水に汀の桜散り敷きて 波の花こそ盛なりけれ」。 

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参道石段横に宝物殿の「鳳智松殿」があり、寂光院に伝来する平家物語ゆかりの文化財等を展示しています。

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建礼門院は庵室に阿弥陀三尊を安置して28年間祈る日々を送り、建保元年(1213年)に58歳で亡くなりました。寂光院の右隣に「建礼門院大原西陵」があります。「西陵」とは後鳥羽天皇と順德天皇の大原陵に対して西にあるからといいます。

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寂光院の前の道を左に行くと、建礼門院の4人の侍女たちの墓があります。阿波内侍は、後白河法皇の大原行幸の一切を取り仕切り、建礼門院の最期をみとったともいわれています。急な石段の上に墓があります。

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阿波内侍以外に、大納言佐局、治部卿局、右京大夫の墓があります。

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下りはちょっと怖かったです。

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