2020年3月28日 (土)

十念寺 現代建築の本堂

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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※写真は全てクリックで拡大します。

昨日の記事の仏陀寺の隣に十念寺があります。「十念寺」は山号を華宮山、院号を宝樹院という西山浄土宗の寺院です。門前に「曲直瀬道三墓所」の石碑がありますが、後ほど。

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室町時代の永享3年(1431)後亀山天皇の皇子真阿(しんな)上人に帰依した将軍足利義教(よしのり)が、当時誓願寺があった元誓願寺通小川に、上人の住房「宝樹院」を創立したのが始まりといわれます。(山門を入った正面にお地蔵さん)

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経緯は明らかではありませんが、文明年間(1469-1487)までに宝樹院は寺に改められ「十念寺」となったと考えられています。(お地蔵さんの横に小さな枯山水があります。)

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天文5年(1536)に焼失したという記録があります。おそらくこの年に起こった天文法華の乱の兵火によって類焼したと思われます。玄関

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安土桃山時代の天正年間(1573-1592)に豊臣秀吉の都市改造に伴い、現在地に移転しました。隣の仏陀寺も西山浄土宗なので同じ宗派の寺院が集められたと思われます。

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江戸時代の寛文の大火( 寛文13 年、1673)で焼失後再建、天明大火(天明8 年、1788)でも本堂が焼失後再建されたといわれます。

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平成5年(1993)僧侶で建築家の高口恭行(やすゆき、僧侶としては、きょうぎょう)の設計により本堂が再建されました。 高口恭行(1940-)は神戸市に生まれ、5歳まで上海で過ごしました。

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昭和20年(1945)の終戦で上海から引き揚げ、京都大学工学部建築学科卒、京都大学助手、奈良女子大学家政学部住居学科助教授を経て昭和昭和62年(1987)同学部教授。(本堂の屋根は八角で日本瓦葺。)

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昭和55年(1980)から設計事務所「造家建築研究所」を主宰、平成15年(2003)関西建築家大賞を受賞。浄土宗・一心寺の長老でもあり、一心寺の伽藍、百万遍知恩寺の宝物館、他にいくつかの寺院の本堂を設計しました。(鳳凰が載っています。)

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十念寺の本堂はビザンチン様式を取り入れ、正教会の聖堂やイスラム教のモスクにも見られる、集中式ドームの仏教建築になっています。

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コンクリート打放しの鉄筋コンクリート構造で、内部は1階建ての広い空間になっています。本尊として、平安時代の作の丈六「阿弥陀如来坐像」が祀られています。

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本尊は、東山の旧雲居寺(うんごじ)にあった仏像の頭部をもち、空海(774-835)あるいは恵心(942-1017)の作ともいわれています。

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本堂の周りは廻廊になっています。

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賓頭盧(びんづる)尊者(なで仏)もいます。

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さらに回廊を廻ったところに本堂と一体となった「地蔵堂」があります。

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祀られている「十念寺地蔵」は彩色の木像で、像高2m、江戸時代には上下寺町三十六地蔵めぐりの5番札所だったそうです。右に開基の「真阿像」が安置されています。

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地蔵堂の向こうは墓地になっていて、足利義教、施薬院全宗(ぜんそう)、後陽成天皇の皇子・高雲院、曲直瀬道三などが葬られています。施薬院全宗は斎藤道三の高弟、豊臣秀吉の側近で医者で徳運軒と号しました。

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「曲直瀬道三」(まなせどうさん、1507-1594)は室町時代の医師で、京都に生まれ、幼少の頃両親を失い8歳で近江守山・大光寺に預けられました。徳運軒および関東に下野して足利学校で学び、

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明に留学した医師・田代三喜斎に入門し李朱医学(漢方医学)を修めました。1546年還俗して京都で医院を開き、日本初の医学塾「啓迪院(けいてきいん)」を創建しました。(本堂の横に顕彰碑があります。)

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診察、治療した歴史上の人物は、将軍・足利義藤(義輝)、細川晴元、毛利元就、正親町天皇、織田信長など多数に上ります。1584年豊後でイエズス会宣教師を診察して洗礼を受け、門弟300人も入信したといわれています。

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1592年、後陽成天皇より橘の姓と今大路の家号を賜り、日本医学中興の祖「医聖」と称されています。本堂の横に鐘楼があります。

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境内にはモクレンや椿が咲いていました。

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山門の横に鳥居があり、鎮守社が祀られています。

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祠の中に小さな狐がいるので、稲荷神が祀られているようです。右の石には「繁忠大明神」と刻まれています。

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書院の障壁画「雲龍図」4面(京都市有形文化財)は、江戸時代1778年の曽我蕭白(しょうはく、1730-1781)晩年の水墨画で、市内に残る数少ない作品だそうです。

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また、室町時代の説話絵「仏鬼軍(ぶっきぐん)絵」(重文、京都国立博物館寄託)は十念寺本とよばれる紙本淡彩の絵巻で、仏菩薩と地獄の冥官の合戦で大日如来の加勢により閻魔王庁は炎上する場面を描いています。

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2020年3月27日 (金)

仏陀寺と朱雀・村上天皇

目次  2006年1月27日から毎日更新しています。

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先日本満寺に枝垂桜を見に行ったとき、隣の仏陀寺(ぶつだじ、佛陀寺)を訪れました。この日は春のお彼岸(最終日)だったからか、いつもは閉じている山門が開いていました。

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仏陀寺は大蔵院と号する西山浄土宗の寺で、平安時代中期の朱雀・村上両天皇を開基として創建されました。この創建には、当時の不穏な社会情勢が関係していました。(山門の蟇股の彫刻)

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寛明親王(後の朱雀天皇、923-952)は、醍醐天皇と藤原基経の娘・4中宮藤原穏子との間に生まれ、926年東宮(皇太子)となりました。3歳での立太子の背景には、兄保明親王とその子慶頼王の二代にわたる東宮の夭折がありました。

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母・穏子は怨霊を恐れて、寛明親王を3歳になるまで幾重にも張られた几帳の中で育てたといわれています。930年醍醐天皇が崩御、寛明親王は8歳で即位しました。(お寺の境内には珍しい椅子がありました。)

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政治は伯父の藤原忠平が摂関として取り仕切りました。在位中の935年平将門が関東で反乱を起こし、翌年には瀬戸内海で藤原純友が乱を起こしました(承平天慶の乱)。本堂には本尊の阿弥陀如来坐像を安置しています。

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940年藤原忠文を征東大将軍に任命して将門征伐軍を送り将門は討たれ、翌年には橘遠保により藤原純友が討たれ、乱はようやく収束しました。本堂の横には比叡山が見えます。

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さらに、富士山の噴火や地震・洪水などの災害・異変が多発しました。また病弱のためか入内した女御はわずか2人で、在位中には皇子女に恵まれませんでした。(境内には様々な花が咲いていました。)

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そのため、944年弟の成明親王(後の村上天皇)を東宮とし、2年後に24歳で譲位しました。952年朱雀上皇は、日蔵道賢(にちぞうどうけん)を戒師として落師、仏陀寿と号して仁和寺に入りました。

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しかし同年朱雀上皇は崩御し、村上天皇が兄の仙洞御所朱雀院を寺に改め、その法諱にちなんで仏陀寺としました。山門の横のお堂の壁に珍しい形の花頭窓がありました。

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村上天皇(926-967)即位後も藤原忠平が関白を務めたましたが、949年に忠平が死去するとそれ以後は摂関を置かず、天皇自ら政治を行いました(親政)。 山門の横に鐘楼があります。

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承平天慶の乱(935–940年)の後で朝廷の財政が逼迫していたので倹約に努めたといわれます。 また、951年に『後撰和歌集』の編纂を下命、960年に内裏歌合を催行するなど、歌人、歌壇の庇護者として知られています。

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また朝廷の儀式書『清涼記』を著し、琴や琵琶などの楽器にも精通し、平安文化を開花させた天皇といわれます。村上天皇の治世は「天暦の治」として後世に称賛されました。

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室町時代には寺地は二条京極、また万里小路春日(柳馬場丸太町付近)にあったといわれ、天皇の勅願寺となりました。

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応仁の乱(1467-1477)で焼失、乱後に後土御門天皇の帰依を受けて、土御門西洞院(上京区)に中興されたといわれています。下の建物は、庫裡と書院と思われます。

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その後、戦国武将の三好之長が居住しました。三好之長は阿波三好郡の国人で、1506年管領細川氏の相続争いに介入、翌年細川澄元が家督をつぐとその家宰として権力をふるいました。

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しかし同年住居とした仏陀寺は放火されました。翌年から数年かけて融国正孝が発願して一条に再興したといわれています。

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安土桃山時代の1591年豊臣秀吉の御土居築造にともなって現在地に移されました。江戸時代には寛文の大火(1661)や天明の大火(1788)によって焼失、現在の堂宇はその後に再建されたものです。

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山門横の地蔵堂に「王城地祭(おうじょうちさい)地蔵尊」が祀られています。寛文年間(1661-1673)に霊元天皇の命によって僧・宝山が洛外、六地蔵以外の四十八か寺の地蔵尊を選んだ「洛陽四十八願所」の第21番札所本尊です。

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霊元天皇の歌「すべらぎの花の都をまもらんと立つる誓いのいとも妙なる」が御詠歌としてかかっています。

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蓮華座に結跏趺坐し、右手は膝上に置き掌を見せ、左手に宝珠を載せています。像の腹に下衣の結び目が下がって腹帯に見えることから王城鎮護に加えて安産守護の信仰もあるそうです。

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